洛陽にて
臨淄令としての任期を終えた曹攄は中央に召還され、尚書郎(六品)に任じられる。
尚書郎は尚書に属し、「分掌尚書事」・「主作文書起草」であるが、魏以降、「掌詔草」は中書の役割となり、晉代には「選極清美、號爲大臣之副。」とある。『通典』に依れば、(西)晉代の尚書には三十五曹或いは三十六曹あり、尚書郎はその曹を掌るが、曹攄が何れであったかは不明とするしかない。
曹攄が尚書郎となった時期については、太康八年(287)前後から約三年とすると、太熙元年(290)前後となる。くどい様だが、これもまた数年の誤差があるが、この時期の差には大きな違いがある。と言うのも、この太熙元年四月には武帝(司馬炎)が崩御し、皇太子衷が即位して、永熙と改元されている。後に「惠」と諡される晉の惠帝である。
なお、天子(皇帝)の崩御による改元は翌正月を以てするのが通常である。東漢以降で即時改元されたのは、靈帝崩後に中平六年(189)が光熹とされた例が初出である。この年は即位した少帝(劉辯)の許で更に昭寧と改元され、その少帝が廢されて永漢と改元され、年末に中平六年に復された上で、翌正月に初平と改元されている。この時即位したのが獻帝(劉協)で、董卓や曹操の傀儡と言ってもよく、実質的には漢はこの年に滅亡したとも言える事を思えば、嘉い先蹤とは言えない。
他には蜀の劉備の死で章武三年が建興と、吳の孫權の死で神鳳元年が建興と、同じく吳の孫休の死で永安七年が元興と改元されている。また、魏の曹芳(齊王)の廢位で嘉平六年が正元に、吳の孫亮の廢位で太平三年が永安に、そして魏の曹髦(高貴鄉公)が司馬昭打倒を企て殺されると、甘露五年が景元と改元されている。
前三者は即時ではないが滅んだ國の例であり、後三者は前帝を否定する意図がある。何れにしてもやはり嘉例とは言い難い。この時に何故、即時改元されたのか不審である。
ともあれ、新帝司馬衷(惠帝)は為人「蒙蔽」とされ、「不堪政事」として知られており、その故に、從外祖(母の叔父)であり、皇太后楊氏の父である楊駿が太傅として輔政する事となる。しかし、この楊駿も「無美望」の故に「大開封賞、多樹黨援。」、褒賞によって衆望を得んとし、却ってそれを失い、翌永平元年(291;正月に再改元)三月に誅殺され、楊氏一門も族滅されている。
永平元年は更に元康と改元され、楊駿に代わって輔政の座に就いたのは、太宰汝南王亮(司馬懿子;惠帝從祖)、太保衛瓘であったが、彼等も同年六月に論功等で怨みを持つ楚王瑋(司馬炎子;惠帝弟)によって、「伊霍之事」乃ち廢立を目論んだとして、殺害される。
この二つの事変の背後にいたのは、惠帝の皇后賈氏(賈南風)であり、外戚楊氏、ついで宗室と朝臣の宿老とでも言うべき汝南王亮と衛瓘を排除し、更には楚王瑋も「矯詔」によって、汝南王・衛瓘を「擅害」したとして殺害している。以後は彼女が惠帝に代わって「專制天下」し、元康は賈后の時代とも言える。
汝南王亮と楚王瑋は「八王」の第一と第二であり、広義の「八王の乱」はこの年に始まっている。但し、次に「八王」が政局に関わってくるのは、九年後の永康元年(300)で、それまでの八年間は概ね晏寧を保っており、当時としては乱の渦中という認識はなかったであろう。
とは言え、この太熙元年の武帝の死から、約一年余りの間に起こった事変は晉王朝の崩壊に繋がる端緒と言え、西晉の画期の一つである。その時期に、曹攄は臨淄に在ったのか、洛陽に在ったのか、その違いは彼の経歴に多少なりとも影響を与えていると思われる。
本傳その他、曹攄に関する記述に同時期に関わると思われるものは見出せない。また、事変に関与した人物との関係も確認できない。
とは言え、関与が見出せない以上、曹攄は洛陽には不在であったと思いたいところである。従って、当該期には未だ臨淄令の任期中であったと思われる。但し、当該期からそう離れていない時期に曹攄は尚書郎として召還されたと思われる。
『文選』卷二十二、謝靈運の「於南山往北山經湖中瞻眺」の注に「曹攄贈石荊州詩曰:轗軻石行難、窈窕山道深。」、同卷四十五、陶淵明の「歸去來」の注にも「曹攄贈石荊州詩曰:窈窕山道深。」と、曹攄に「贈石荊州詩」なる文があった事が見える。「石荊州」とは曹攄の交遊関係や、他に「荊州」に関わる石姓の人物もいない事から見て、石崇(歐陽建
石崇は武帝死後の永熙元年(290)八月に南中郎將として、射聲校尉胡奕・長水校尉趙俊・揚烈將軍趙歡とともに「將屯兵四出」している。他の三者は一時的とも見られるが、石崇はその傳に「南中郎將・荊州刺史、領南蠻校尉、加鷹揚將軍」とあり、更に「在荊州、劫遠使商客、致富不貲。」とある様に、以降暫くはその任にあったと見られる。
その後、「徵爲大司農、以徵書未至擅去官免。」、大司農として召還されるも、その命令が届く前に勝手に去ったとして官を免ぜられている。しかし、程無く太僕に任じられ、『文選』「潘岳金谷集作詩」注に引く「石崇金谷詩序」に「余以元康六年、從太僕卿出、爲使持節監青・徐諸軍事。」とある様に、元康六年(296)までその地位に在る。
従って、石崇が「石荊州」であったのは遅くとも元康五年頃まで、おそらくは元康初年の数年間という事になる。「贈石荊州詩」は他に二首ある「贈石崇詩」と一致せず、石崇が「石荊州」であった時期の作と思われる。
可能性としては、臨淄と荊州の間で贈答が行われたと見ることもできるが、洛陽と荊州で、或いは洛陽で石崇が太僕に任じられる以前の
なお、石崇は「遠使商客を
そうした人物との親交は、想定される曹攄の為人とそぐわない印象を受ける。ただ、石崇の行為が事実なら、本来であれば、問題とされるべき行動である。しかし、石崇は大司農として召還されるまで荊州刺史の地位に留まっており、元康初年の荊州も記録上は静穏を保っている。
そもそも、石崇等が「屯兵を
その地での石崇の統治が、朝廷からも、民からも問題とされていないという事は、上記のような行為がなかったという事は意味せず、権勢によって黙認されたとも考えられるが、少なくとも容認される程度であったと考えられる。また、石崇が荊州で築いたという「富」に対する嫉視から、過大に言い立てられている可能性もある。
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