「死囚」
曹攄は臨淄令として、いまひとつの逸話を残している。それは或る年末(「歲夕」)に行った処置についてである。
獄有死囚、歲夕、攄行獄、愍之、曰:「卿等不幸致此非所、如何?新歲人情所重、豈不欲暫見家邪?」眾囚皆涕泣曰:「若得暫歸、死無恨也。」攄悉開獄出之、剋日令還。掾吏固爭、咸謂不可。攄曰:「此雖小人、義不見負、自爲諸君任之。」至日、相率而還、並無違者、一縣歎服、號曰聖君。
年末に獄に行った曹攄はそこに収監されていた死刑囚(「死囚」)達を見て、獄を開き、彼等に一時の帰宅(「剋日令還」)を許す。「新歲は人情の重んずる所、豈に暫く家に見えんを欲せざるか」というのがその理由である。
当然ながら、部下(「掾吏」)達は反対している。一般的に死刑囚は凶悪な罪を犯した者達であり、それを一時的とは言え、解き放つなど、彼等にすれば、愚考としか思えず、解放された者達はその儘、散じてしまい、誰一人として帰る者は無い、と考えたであろう。
先の「寡婦」の一件も、一面では彼等の過誤を顕わにするものであり、それに対する反感などもあったかも知れない。また、弱輩であった筈の曹攄に対する侮りもあったと想像される。
一方で、「寡婦」の一件から想像すれば、曹攄は死刑囚達に「冤」は無い、死刑が已むを得ない事は知悉していたと思われる。孝心に篤い曹攄は父母ならずとも、家族への思い入れも深く、例え死刑囚だとしても、家人と過ごす一時は与えられるべき、と考えたのだろう。
故に、歳末の一時帰宅というのが与え得る最大限の恩寵であり、それは死刑囚達も承知していただろう。それ故の「若し暫らく歸るを得るならば、死しても恨み無き也」という言であり、曹攄はそれを信じている。
そして、期日至り、死刑囚たちは相率いて還り、一人として違う者は無かったと云う。これには縣を挙げて「歎服」する他なく、曹攄は「聖君」と号せられたと云う。
「聖」と言えば、本来は「聖王」など天子(皇帝)に係わる語であり、また、「聖人」・「聖賢」、そして、『三國志』文帝紀の詔中に「昔仲尼資大聖之才」とある様に、孔子(「仲尼」)を想起させる。孔子は春秋時代の齊の隣國、魯の出身であり、「聖君」には彼に擬える意味もあっただろう。最大限に曹攄を稱える意があったと言える。
ただ、「聖」には「さとい」、物事に通暁するといった意味合いがあるが、曹攄の場合、『莊子』や『列子』に、「以德分人謂之聖」、「德を以て人に分かつ之を聖と謂ふ」とあり、これが最も相応しい様に思える。
曹攄の死刑囚達の「義」を信じるという「德」が、彼等に分かたれ、死刑囚達もその信に応えた。曹攄の「德」が彼等に及んだと言える。
また、「さとい」というのは、物事を見抜くという事にも繋がり、先の「明」と同じく真実、この場合は死刑囚達の全き帰還を見通していた事が称えられているのだろう。
因みに、歳末に囚人達の歸宅を許すというのは、『後漢書』卷三十三虞延傳にも見える。
建武初、仕執金吾府、除細陽令。每至歲時伏臘、輒休遣徒繫、各使歸家、並感其恩德、應期而還。有囚於家被病、自載詣獄、既至而死、延率掾史、殯于門外、百姓感悅之。
その他、後の時代だが、宋の謝方明(『宋書』卷五十五)、梁の席闡文(『南史』卷五十五)・王志(『梁書』卷二十一)・傅岐(『梁書』卷四十二)・何胤(『梁書』卷五十一處士傳)、北齊の張華原(『(北)齊書』卷四十六循吏傳)などに類似した話が見える。
ただ、虞延や謝方明・王志の場合には已むを得ぬ理由、当人に還る意思はあれど刻限までに戻れなかった者もおり、曹攄等、それ以外の者は、より靈異を感じさせた事だろう。
臨淄に於ける二つの逸話によって得た「明」にして「聖」が、曹攄の評価を決定付け、最終的には「良吏傳」に彼の傳が収録される事に繋がっている。
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