「寡婦」
臨淄令として赴任した曹攄は一つの事件、と言うより、その裁判に直面している。
縣有寡婦、養姑甚謹。姑以其年少、勸令改適、婦守節不移。姑愍之、密自殺。親黨告婦殺姑、官爲考鞫、寡婦不勝苦楚、乃自誣。獄當決、適值攄到。攄知其有冤、更加辨究、具得情實、時稱其明。
事件の構図自体は単純で、縣下のある寡婦が、同居していたであろう
そもそも、寡婦は姑を養うに「甚謹」であり、姑はしばしば寡婦に再嫁(「改適」)を勧めていたが承知しなかったと云う。姑が寡婦を「愍」んで自殺したというのが真相である。寡婦が再嫁しないのは自分(姑)の存在があるから、つまり、自分がいなくなれば、という事であったのだろう。
「婦が姑を殺」したという訴えを受けて事を取り調べれば、他に殺した者がいない以上、犯人は共に暮らしていた寡婦のみとなる。嫌疑は殺人であるから、その取り調べの過酷さが窺え、それに耐えかねた寡婦は自ら「誣」告、詐りの自白をしている。
ところが、事の次第を最初から見ていけば、「姑を養ひて甚だ
ところで、これとよく似た事件が『漢書』・『後漢書』にも載録されている。
『漢書』では、巻七十一于定國傳に附されたその父「于公」の傳中にある。
其父于公爲縣獄史、郡決曹、決獄平、羅文法者于公所決皆不恨。郡中爲之生立祠、號曰于公祠。東海有孝婦、少寡、亡子、養姑甚謹、姑欲嫁之、終不肯。姑謂鄰人曰:「孝婦事我勤苦、哀其亡子守寡。我老、久絫丁壯、柰何?」其後姑自經死、姑女告吏:「婦殺我母。」吏捕孝婦、孝婦辭不殺姑。吏驗治、孝婦自誣服。具獄上府、于公以爲此婦養姑十餘年、以孝聞、必不殺也。太守不聽、于公爭之、弗能得、乃抱其具獄、哭於府上、因辭疾去。太守竟論殺孝婦。郡中枯旱三年。後太守至、卜筮其故、于公曰:「孝婦不當死、前太守彊斷之、咎黨在是乎?」於是太守殺牛自祭孝婦冢、因表其墓、天立大雨、歲孰。郡中以此大敬重于公。
『後漢書』では巻七十六循吏列傳中の孟嘗傳にある。
嘗少脩操行、仕郡爲戶曹史。上虞有寡婦至孝養姑。姑年老壽終、夫女弟先懷嫌忌、乃誣婦厭苦供養、加鴆其母、列訟縣庭。郡不加尋察、遂結竟其罪。嘗先知枉狀、備言之於太守、太守不爲理。嘗哀泣外門、因謝病去、婦竟冤死。自是郡中連旱二年、禱請無所獲。後太守殷丹到官、訪問其故、嘗詣府具陳寡婦冤誣之事。因曰:「昔東海孝婦、感天致旱、于公一言、甘澤時降。宜戮訟者、以謝冤魂、庶幽枉獲申、時雨可期。」丹從之、即刑訟女而祭婦墓、天應澍雨、穀稼以登。
傍点部は本傳と類似した記述だが、場所こそ、「東海(郡)」、「(會稽郡)上虞(縣)」と異なるものの、寡婦が姑を養っており、その姑が亡くなった事で訴えられたという構図は同一である。
東海の場合は取り調べに耐えかね、自ら誣告したという点、姑が自殺(「自經死」)であり、その理由が自らを養わせる事を気に病んでという点も同じである。また、寡婦を訴えたのが姑の女(「姑女」・「夫女弟」)であるという点が東海・上虞で一致し、臨淄の場合も「親黨」とあるが、姑の女も含まれていると見るのが妥当だろう。
異なるのはその結末であり、両例とも「于公」(名不明)・孟嘗の訴えにも拘らず、寡婦(孝婦)は処刑されている。東海では姑が隣人に、養われる事の苦悩を訴えているにも拘らず、「孝婦」の罪とされている。これも「婦が我が母を殺」したという訴えを前提に取り調べたが故であり、上虞で「尋察」、詳しい糾明がなされなかったのも同様だろう。そして、東海では「郡中枯旱三年」、上虞(會稽)では「郡中連旱二年」と旱が続き、後任の太守が寡婦を祭った事で、それは治まっている。つまり、曹攄のみが寡婦の命を
これは「郡決曹(于公)」、「(郡)戶曹史(孟嘗)」でしかなかった于公・孟嘗に比べ、曹攄は縣令であり、刑の実施を停める権限があったからこそ可能であったとも言える。ただ、「獄
「好學」・「博學」たる曹攄は『漢書』の于公故事を知悉していたと思われ、『後漢書』は当時まだ編纂されていないが、その原史料にて孟嘗の故事も知られていたであろう。曹攄はその「寡婦」が「姑」を殺すという構図に不審を感じたのであろうが、そこに着目し得る事が、彼の「明」であるとも言える。
また、東海・上虞の事例からすれば、寡婦が死刑となっていたならば、臨淄(齊郡)でも「旱」、干害が発生していたかも知れない。無論、その様な因果関係は有り得ず、また、実際に発生していないのだが、それを有り得るとするのが当時の思想である。
そうした思想からすれば、曹攄は「旱」を防いだとも言え、東海・上虞との符合に気付いた者は、そこにも彼の「明」を感じただろう。
なお、何れの例でも、姑の親族が訴えている事からすると、訴えた側に姑の家、寡婦からすれば婚家の財産をめぐる思惑があったとも考えられる。少なくとも、寡婦は姑を養う事が出来ており、それなりの家財を有していたと見る事ができる。
そして、姑が死した以上、寡婦がいなくなれば、その財は幾ばくかは官に没収されるという事があるにせよ、“被害者”の親族たる、「親黨」(「姑女」・「夫女弟」)の手に帰する事が期待されたのではないか。
因みに、この逸話は裁判の実例を集めた宋の鄭克撰『折獄龜鑑』釋寃篇にも載録されている。
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