起家

 曹攄は早くからその「孝行」・「志操」を評価されていたが、その彼を「器」としたのが「太尉王衍」である。「器」はその器量・器局を認めるという事で、「器(重)之」という表現は、しばしば見受けられる表現である。

 同時代で、同様に表現された人物を挙げれば、石崇(「武帝以崇功臣子、有幹局、。」)、齊王攸(「才望出武帝之右、宣帝毎。」)、魏舒(「文帝。」)、苟晞(「少爲司隸部從事、校尉石鑒。」)、嵇紹(「尚書左僕射裴頠亦。」)などがおり、類似の例も含めれば数多い。ここで名を挙げたのは、多少なりとも曹攄と係わりがある人物である。

 「太尉王衍」とは、琅邪臨沂の人で、先に名を出した王祥と同宗である。但し、この「太尉王衍」とは「当時太尉であった」王衍ではない。王衍が太尉となるのは曹攄の死後であり、これは王衍と言えば「太尉」とも言える一種の敬称で、「太尉として知られる」王衍といった意である。

 王衍は「神情明秀、風姿詳雅」或いは「盛才美貌、明悟若神」とされ、精神・容姿ともに優れ、「辭甚清辯」とされ、所謂「清談」の名手であると云う。「聲名」は世に知られ、顕職に在り、後進に敬慕され、常に「首」と称えられている。一言で言えば、当世最高とでも言うべき評価を得ていた人物である。

 そうした人物に「おも」んじられる、評価されたというのは、それだけで一つの名声と成り得、『晉書』中には以下の如く、「太尉王衍」に評された人物が見える。(それぞれ当人の傳)


 荀組:弱冠、太尉王衍見而稱之曰:「夷雅有才識。」

 阮瞻:見司徒王戎、戎問曰:「聖人貴名教、老莊明自然、其旨同異。」瞻曰:「將無同。」戎咨嗟良久、即命辟之。時人謂之「三語掾」。太尉王衍亦雅重之。

 庾敳:處眾人中、居然獨立。嘗讀老莊、曰:「正與人意闇同。」太尉王衍雅重之。

 王承:弱冠知名。太尉王衍雅貴異之、比南陽樂廣焉。


 庾敳については胡毋輔之傳に「與王澄・王敦・庾敳俱爲太尉王衍所昵、號曰四友。」とも見え、胡毋輔之・王澄・王敦も王衍に重んじられた人物と言える。これ等の人物のうち、王敦・荀組は後に大將軍・太尉まで至り、一定の業績を残しているが、他はどちらかと言えば実績にかけ、阮瞻・庾敳・王承は声望はあるが、思索を事とする人物である。胡毋輔之は後に樂安太守として「晝夜酣飲、不視郡事。」、王澄も荊州刺史として「終日酣飲、不以眾務在意。」であったとされる如く、実務を避ける風もある人物である。

 これは王衍が実務能力ではなく、その思索を評価したからであり、かれが清談を事とする人物である故であろう。清談は哲学的な議論であり、こうした議論は時として、議論の為の議論に堕し、思考の深さよりも、咄嗟の機知、速さが重要となる事がある。

 思考の鋭さを言う語に「明敏」があるが、明は物事の本質に至る事、敏はその速さであり、「明」そのものよりも、「敏」が尊ばれる傾向が清談にはある。上記で言えば、阮瞻の「三語掾」はそうした類の逸話である。

 こうした傾向は、王衍傳に「矜高浮誕、遂成風俗焉。」とあるように、「浮華」ともされる、華やかではあるが浮ついた風潮を生む。議論の内容よりも、議論そのもの、相手を論破する事だけが目的となると言えるだろうか。

 曹攄がそうした面を評価されたのだとすると、以降に見ていく彼の実績とややそぐわない印象を受ける。ここは「敏」も含めた明敏さ、「明」そのものを評価されたと解しておきたい。事実、彼は「明」を称されている。また、後に触れるが、少なくとも曹攄は胡毋輔之等には同調していないと思われる。


 王衍に「器」とされた曹攄は、本傳では「臨淄令に調補さる」と「臨淄令」、臨淄縣の縣令に任用されたとあるが、『文士傳』では「仕晉、辟公府。」とあり、記述に齟齬がある。この「公府」とは三公(太尉・司徒・司空)等の「公」の官府であり、「公」はその属僚を選任(「辟召」)する事ができる。

 ところで、晉代の官吏の登用は「九品制」とされる制度により、州郡に置かれた「中正」が、官吏候補者の最終的に昇り得るであろう品秩(九品)に従って「郷品」を定め、その品に従って登用、昇進していく事になる。

 通常、この「郷品」は記録されないが、辿った官途によって類推する事ができ、宮崎市定『九品官人法の研究』に依れば、「当時普通の名家の子弟の優秀な者は概ね郷品三品を得て、公府の掾属から起家するのが常」であり、「郷品三品者は先ず公府の辟によってその掾属となり、一度地方に出て県令となり、其後中央政府の官職につくを例とした」と云う。

 この「先ず公府の辟によってその掾属となり、一度地方に出て県令とな」るというのは、曹攄の「辟公府」・「臨淄令」と合致しており、彼の郷品は三品であったと推定される。

 従って、曹攄は『文士傳』にある如く、先ず「公府に辟され」、その後、臨淄令として地方に出たと見られる。或いは、本傳は「辟公府」を自明の事として省略したのかもしれない。


 さて、曹攄が公府に辟召されたのは、弱冠頃とすれば、先の生年の推定から、太康五年(284)前後という事になる。これは曹攄の生年及び、起家の年齢が不確定である以上、最大十年近くの誤差が生じる可能性がある。但し、後に見ていくように、数年程度の差ではないかと思われる。

 さて、太康五年頃と言えば、太康元(咸寧六)年(280)の「平吳」によって吳が滅び、「三國時代」が終焉して数年、名実ともに「晉」の御世となった時期である。

 同時期の三公は太尉汝南王亮(太康三年~十年)、司徒魏舒(太康四年~?)、司空衛瓘(太康三年~太熙元年)である。太康三年~四年以前には、太尉賈充、司徒李胤・山濤、司空齊王攸がおり、「公」に準じる人物としては、大司馬陳騫(太康二年まで)、同齊王攸(太康三年~四年)、驃騎將軍扶風王駿(開府;太康初~七年)がいる。或いは、車騎將軍楊駿(太康年間)、衛將軍楊珧(太康年間)も含めてもよいかもしれない。

 概ね先の三者の何れかが曹攄の府主であったと思われるが、他の人物も含め、何れも曹攄との接点が確認できない。或いは王衍に「まみ」えたも公府に在った時期である可能性もあるが、王衍と上記人物の接点も見えず、確定する手掛かりはない。

 多少なりとも、曹攄と縁があるのは賈充と齊王攸だが、ともに当人と、というものではない。また、賈充については、曾祖父曹休と賈充の父賈逵の因縁であり、また、賈充と曹氏との係わりも負の行掛りとでも言うべきものであり、除外して差し支えないと思われる。

 間接的な接点としては、魏舒が「(夏侯)駿之姻屬」であり、夏侯駿は魏舒が司徒である時期に、曹攄の郷里である豫州の「大中正」で、夏侯氏は魏の準宗室と言える家系(夏侯駿は夏侯淵の孫)である。なお、「姻」は狭義では「婿之父」をさすので、魏舒の子(或いは從子)に夏侯駿のむすめ(或いは從女)が嫁いでいたのだろう。

 「大中正」は管轄する州において、官吏候補者の「品」を策定し、その「品」(郷品)によって官吏は任用されるので、夏侯駿が曹攄の品を定めた可能性はある。しかし、これも曹攄が魏舒に辟召された根拠とはならず、曹攄が何れの公府に辟召されたのかは不明とする他ない。

 ただ、汝南王亮は「八王」の一であり、衛瓘は彼とともに殺された人物。また、齊王攸は「八王」の一である齊王冏の父である。楊駿も「八王の乱」の端緒となった人物であり、こうした人物と接点があったかもしれないというのは、その後の曹攄の人生に符合していると言えなくもない。

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