仕官以前の曹攄

 曹攄が官途に就く以前に関しては、本傳に「少有孝行、好學善屬文」、『三國志』曹休傳の裴松之注(裴注)で張隱『文士傳』に「少厲志操、博學有才藻」とある。「孝行有り」、「志操をみがき」がその為人を、「好學にして善く文をつづる」、「博學にして才藻有り」がその才を表している。


 「孝」は魏以前の官吏任用の基準に「孝廉」があるように、人が備えているべきとされた、基本的な、重要な徳目である。晉という王朝は特に「孝」を重視しており、『晉書』の傳では后妃傳に次ぎ、後世「二十四孝」の一として知られる王祥の傳が筆頭にある。王祥は魏最末期の太尉であり、晉成立後は太保に任じられている。孝だけが彼の徳目ではないが、晉(司馬氏)が何を重視したかが窺える。

 「志操」は「志操堅固」と言うように、自らの意志、操行。それが確固としている様を言い、好学にして博学ということは、「學」を好み、その成果が多岐に及んでいる事が知れ、共にしばしば見受けられる表現である。

 「才藻」は才知と文藻、詩文の才を云い、つまり、「善く文を屬る」事を言っている。


 ところで、『文士傳』は曹休傳の裴注では著者を「張隱」とするが、荀彧傳注では「張衡」とし、『隋書』經籍志等では「文士傳五十卷張騭撰」、『宋史』藝文志では「張隱文士傳五卷」とするように、著者が不確定であり、折に触れるように、内容も誤謬が多い。とは言え、曹攄に対する評価の部分は『晉書』とも一致し、正当な評価と言えるのだろう。

 実際、後世において、曹攄の「文」は一定の評価を得ている。梁代の『文選』(梁昭明太子撰)には「思友人詩」、「感舊詩」の二詩が載録されている。同時代で言えば、潘岳・陸機の如く多数の文が収録されている人物もいるが、『文選』中には一文のみ収録されている人物も多く、二首というのは少ないとも言えない。『文選』への載録が高評価の証とは必ずしも言えないが、一定の評価を受けていたという証左にはなるだろう。

 また、同じ梁の鍾嶸による『詩品(詩評)』では五言詩について、詩人を上・中・下の三品に分け評しているが、曹攄は中品に列されている。曹氏では同じ中品に「魏文帝」(曹丕)が、上品には「魏陳思王植」こと曹植が、下品には「魏武帝」(曹操)・「魏明帝」(曹叡)・「魏白馬王彪」(曹彪;楚王)がおり、「良友」たる歐陽建も下品に列せられている。

 つまり、鍾嶸の評では曹攄は曹丕と同格、曹操より上という事になる。無論、これは飽くまでも鍾嶸の評であり、五言詩に関してであるが、曹攄の文が他の著名な人物たちと同列に論ぜられているのは間違いない。

 なお、曹攄について、鍾嶸は歐陽建のおじ石崇とともに「並有英篇」と評している。また、『詩品』とほぼ同時代の劉勰の文学理論書である『文心雕龍』(才略第四十七)では「曹攄清靡於長篇」とあり、曹攄の「長篇」が評価されていた事が知れる。

 『隋書』經籍志には「亡」とあるが、「征南司馬曹攄集三卷、錄一卷」があった事が見え、「集」の存在が高評価の結果とは一概には言えないが、これも曹攄の文が一定の評価を得ていた証左とはなるだろう。曹攄の詩才を評価する能はないが、後世、李白・杜甫等が曹攄の詩文を踏まえた句を残しており、その事実及び、それを指摘する文の存在から、曹攄の詩が人口に膾炙していた事が窺える。


 なお、以下に挙げたのは『隋書』經籍志、『舊唐書』經籍志、『新唐書』藝文志に「集」が見える魏・晉代の曹氏・司馬氏だが、曹氏が魏代に6人、西晉代に2人、東晉代に1人、司馬氏が魏代に2人、西晉代に2人、東晉代に6人となっている。曹氏が魏晉(西晉)期に多数の文人を輩出した事が確認できる。逆に、司馬氏は東晉、それも多くは晉末の人物であり、文藻に恵まれた家系とは言えない。曹攄が育った曹氏が、文を重んじる気風であったのを確認しておきたい。


 魏武帝(曹操) 魏文帝(曹丕;曹操子) 魏明帝(曹叡;曹丕子) 魏高貴鄉公(曹髦;曹操孫) 魏陳思王曹植(曹操子) 魏中領軍曹羲(曹爽弟) 晉散騎常侍曹志(曹植子) 晉征南司馬曹攄(曹休曾孫) 晉光祿勳曹毗(曹休玄孫)


 晉宣帝(司馬懿) 晉文帝(司馬昭;司馬懿子) 晉齊王攸(司馬昭子) 晉祕書丞司馬彪 晉明帝(司馬紹) 晉簡文帝(司馬昱) 晉孝武帝(司馬曜) 晉彭城王紘 譙烈王(司馬無忌) 晉會稽王司馬道子


 また、『詩品』では百二十四人が列されているが、先に述べたように、その内、六名が魏(譙國譙縣)の曹氏であり、これは陳郡陽夏謝氏の八名に次ぐ。他は多くとも、吳郡吳の陸氏(陸機・陸雲・陸厥)、譙國銍の嵇氏(嵇康・嵇紹・嵇含)などの三名のみであり、曹氏の文(詩)における位置が知れる。

 なお、陸氏・嵇氏の中で、梁の陸厥以外は魏晉、それも魏の嵇康以外は曹攄と同時代人であり、彼とやや間接的ながら係わりを持つ事になる。


 官途に就く前、幼年期の曹攄については、その「孝行」・「才藻」を評価されたという以外は不明である。先の想定通りならば、曹攄の幼年期は魏晉革命の後、晉武帝の泰始(265~274)・咸寧(275~280)年間となる。晉において魏の宗室諸王が官途に就く事を許されている様に、革命後の晉室(司馬氏)は曹氏に対して比較的寛容であったと言え、そうした中で、曹攄も平穏な幼年期を過ごしたのではないか。

 また、これも先に想定した様に、父を早くに亡くしていたのならば、困窮する場合も考えられるが、そうした形跡が見えないという事は、外家(母方)も含めた親族の援助があった可能性もあるが、生活を維持できる基盤があったのであろう。

 ただ、結果的に曹休や曹肇が輔政を全うできなかった事が司馬氏の台頭に繋がり、その結果が魏晉革命であったとも言える事は、曹攄の父や、彼自身に影響を与えたとも想像される。

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