曹攄の生没年

 曹攄の没年は本傳から永嘉二年(308)と判明するが、享年が不明で生年は確定できない。


 曾祖曹休の生年も不明だが、その傳(『三国志』魏書卷九諸夏侯曹傳)に「天下亂、宗族各散去郷里。休年十餘歳、喪父、……以太祖舉義兵、……閒行北歸、見太祖。」とある。つまり、「天下 亂る」から、「太祖 義兵を舉ぐ」の間に、「十餘」歳であったという事である。「太祖舉義兵」とは中平六年(189)末から、初平元年(190)頭にかけて、「山東州郡起兵」したときの事であろう。

 「喪父」から、「太祖舉義兵」までの期間が不明だが、初平元年(190)に最低でも十歳であったという事は、光和三年(180)以前に彼が生まれたことを示している。また、文脈やその後の経歴から、弱冠(二十歳)を超えていたとも考え難いので、建寧四年(171)以降の生まれ、つまり、西暦170年代、主として熹平年間(172~178)、詳しい論証は措くが、その後半、熹平末の生まれと推定される。

 曹攄の祖曹肇、父(曹興?)の生年も不明であるが、生没年不詳の家系の場合、概ね一代を25~30年とすると、その活動時期と一致する事例が多いので、これを当て嵌めれば、曹攄の生年は大凡魏の嘉平年間(249~254)から景元年間(260~264)となり、それぞれの経歴なども加味すると魏晉革命の前後、晉の泰始元年(265)前後の生まれと推測される。この推定に従えば、曹攄の享年は三十代後半から四十代という事になる。


 これは推測に過ぎないが、傍証として、曹攄には「贈歐陽建詩」(『文館詞林』)があり、この詩の冒頭で歐陽建を「我良友」と詠んでいる。歐陽建は『晉書』卷三十三に外祖である石苞の傳に附して、「年三十餘」で死去したとある。その死は、後述するように永康元年(300)であるから、歐陽建の生年は景元三年(262)から泰始六年(270)、おそらくはその後半である。従って、曹攄の生年も多少の上下はあれ、「良友」と呼ぶ歐陽建に近い事が推測される。

 また、曹攄の名「攄」が意思(内面)を「のぶ」る義である事からすれば、魏晉革命によって宗室の地位から外れ、逆に外(司馬氏)を憚る必要がなくなった時期の命名が想われる。この推定はおいおい、経歴を参照しながら検証していきたい。


 なお、先に触れたように、譙國(沛國)曹氏で『晉書』に傳があるのは、曹攄以外に曹志・曹毗のみであり、断片的な動向が知れるのが曹奐(及びその継嗣)・曹嘉・曹翕・曹統である。このうち、曹毗及び曹奐の継嗣等は東晉代の人物であり、曹統も晉室の南渡後の事情しか知れない。

 逆に、曹志・曹奐・曹嘉・曹翕は曹操の孫であり、晉以前、魏代からの経歴を有する人物である。この中で曹攄は、推定通りであれば、魏の宗室の後裔の中で「魏」を知らず、且つ西晉代に一定の足跡を残した唯一の人物という事になる。従って、西晉における「魏」の後裔の在り方を見る一つの指標となり得ると思われる。

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