曹攄の系譜

 先ずは、曹攄の家系、系譜を確認しておく。


  曹攄字顏遠、譙國譙人也。祖肇、魏衛將軍。


 「譙國譙人」、譙國譙縣の曹氏であるので、晉の前代、魏の帝室と同族(『三國志』武帝紀:「太祖武皇帝、沛國譙人也、姓曹、諱操」;『晉書』地理志豫州:「魏武分沛立譙郡」)である。「祖肇、魏衛將軍。」とあるのは、『三國志』卷九諸夏侯曹傳の曹休傳に曹休の継嗣として見える曹肇である。

 曹肇の父、曹休は「太祖族子」とあり、「太祖」こと曹操の(養)祖父曹騰の兄の子孫と見られる。曹操の子である文帝曹丕と親密で、黄初七年(226)のその死に際しては、遺詔によって曹眞・陳羣・司馬懿とともに、明帝曹叡の輔政に当たっている(『三國志』文帝紀「夏五月丙辰、帝疾篤、召中軍大將軍曹真・鎮軍大將軍陳群・征東大將軍曹休・撫軍大將軍司馬宣王、並受遺詔輔嗣主。」)。

 その地位は大司馬であり(『三國志』明帝紀「十二月、以太尉鍾繇爲太傅、征東大將軍曹休爲大司馬、中軍大將軍曹真爲大將軍、司徒華歆爲太尉、司空王朗爲司徒、鎮軍大將軍陳群爲司空、撫軍大將軍司馬宣王爲驃騎大將軍。」)、朝臣の筆頭と言えるものだったが、太和二年(228)に行った南征(「石亭の戦い」)に敗れ、「癰發背薨」じており、輔政の期間は三年に過ぎない。

 曹肇は文帝の子である明帝曹叡に親しく(『藝文類聚』・『太平御覧』:「明帝寵愛之、寢止恆同。」)、景初二年(238)の「明帝寢疾」時に、父と同じく「屬以後事」される筈であったが、明帝の「意」が変じ、「以侯歸第」させられ、「正始中」(240~249)に薨じている。「衛將軍」を追贈されており、曹攄傳の「魏衛將軍」はこれに拠る。「子興嗣」とあり、この曹興が曹攄の父或いは従父おじという事になる。

 曹攄の父は本傳に名も経歴も見えず、官途に就く事無く死去したか、就いたとしても然るべき地位に登る事無く早世したと思われる。それは、曹攄の経歴に「父憂」(父の死)による断絶が見えず、従って、それは曹攄が官途に就く以前であったであろう事からも推定される。


 他の近縁者としては『晉書』卷九十二列傳第六十二(文苑傳)に「譙國人」で、「高祖休、魏大司馬。父識、右軍將軍。」とある「曹毗字輔佐」がいる。

 「高祖」(祖父の祖父)が大司馬曹休であるから、曹毗は曹休の玄孫、曹攄の子排であり、「父」の曹識は曹攄の同排、兄弟、從兄弟、族兄弟となる。「高祖休」とのみで、「祖」・「曾祖」についての言及が無い事からすれば、曹毗は曹肇の家系ではないと思われる。『三國志』曹休傳には「肇弟」である曹纂が見え、或いは彼の子孫であるかもしれない。


 なお、譙國(沛國)曹氏で『晉書』に傳があるのは、曹攄・曹毗の他には、卷五十列傳第二十に専傳がある曹志(曹植子;曹操孫)のみである。他に僅かでも晉代の動向が知れるのは、元帝(曹奐;陳留王)とその継嗣以外では、『三國志』の裴注に見える曹嘉(曹彪子;曹操孫)・曹翕(曹徽子;曹操孫)及び、何法盛『晉中興書』(『藝文類聚』・『太平御覧』)に惠帝第四女の臨海公主が「適」した「譙國曹統」(系譜不明)である。

 更に言えば、晉代以降に譙國曹氏の裔で史書に記述があるのは、歴代の「陳留王」(『宋書』)以外では、『(北)魏書』卷七十二列傳第六十に「魏大司馬休九世孫」として専傳がある曹世表のみである。但し、彼はその傳では「東魏郡魏人」とある。

 「九世孫」というのは、本来は起点となる人物、この場合は曹休を「一世」として九代目を云うが、南北朝末頃に起点となる人物の子を「一世」とする数え方に変化しており、曹世表は丁度その過渡期にあたり、どちらであるか不明である。

 また、その傳には「祖謨、父慶、並有學名。」と父祖の名も見えるが、曹謨が曹攄の曾孫排或いは玄孫排に当たる筈である。ついでに言えば、唐代に杜甫の「丹青引」に「贈曹將軍霸」として、「魏武之子孫」とされる曹霸がいるが、彼は史書には見えない。晉代以降で名・事績が知れる譙國曹氏の過半が曹休の子孫であるのは興味深い。


 ところで、魏は皇室(諸王)を任用せず、魏の成立後官職にあった事が確認できるのは、曹仁(及び子の曹泰)、曹洪、曹休(及び子の曹肇・曹纂)、曹眞(及び子の曹爽兄弟)、及び曹演(曹純子)、及び『晉書』禮志に見える「行太常宗正曹恪」のみである。

 この中で、曹泰・曹演は具体的な事績が知れず、曹仁・曹洪は魏と言うより、曹操の旧臣と言うべきである。曹恪は太和三年(229)十一月に皇室親族を主る宗正にあるので、宗室の一員と思われるが、系譜不明である。

 従って、魏において権貴にあった宗室(曹氏)と言えば、曹休と曹眞の家系という事になる。ところが、曹眞の子曹爽は明帝死後に大將軍となるが、正始十年(249)の政変で、司馬氏(司馬懿)によって族滅されている。

 曹肇は既に述べたように、それ以前に「侯を以て第に歸」り、逝去しているが、その子孫は曹攄の如く生き残っている。つまり、曹休の家系は、正始以降は他の宗室と同様だが、それ以前に朝廷に一定の地位を占めながら、魏に殉ずる事無く存続した、やや特殊な家系という事になる。


 余談ながら、上で触れたとおり、曹攄の父は早世したと見られるが、曹休も「年十餘歲、喪父(『三國志』曹休傳)」とあり、早くに父を亡くしている。また、曹肇も曹休の死去時に弱冠(二十)程度と推定され、父を比較的早くに亡くすという家系的な共通点がある。

 因みに、上の曹世表も「少喪父(『(北)魏書』曹世表傳)」とある。ついでに言えば、この世表には「遇患歸鄉(同)」、「復以病解(同)」が「病を以て官を去る」とある曹攄と、「患背腫(同)」、「遇患卒(同)」が「癰 背に發して薨ず」とある曹休と、という類似点が見える。


 ところで、曹攄は「譙國譙人」とあるが、これは彼の本貫であって、必ずしも譙縣が彼の故郷、生地であるという事を意味しない。曾祖父曹休、祖父曹肇は朝廷の高官として洛陽に在住しており、曹肇が「以侯歸第」したように、洛陽に邸第があった筈である。魏成立後、文帝(曹丕)、明帝(曹叡)は都である洛陽の近郊に葬られており、他の曹氏もそれに倣ったと思われる。

 実際、2010年に洛陽邙山陵墓群で「曹休墓」と見られる墓が確認されている。従って、魏の皇族・宗室は名目上は兎も角、実質的には「河南洛陽曹氏」に近い存在になっていたのではないか。

 この場合、曹攄の生地は曹肇との系譜が明確でない為、確定は出来ないが、洛陽、或いは、魏末年に諸藩王公が集められていたという鄴と思われる。

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