序② 曹攄の系譜
曹攄の生涯を見ていく前に、彼の為人を知る背景として、その基本的な情報、家系・系譜や、
曹攄字顏遠、譙國譙人也。祖肇、魏衛將軍。
曹攄は「譙國譙」縣の曹氏であるので、「沛國譙人」とある晉の前代、魏の太祖(武帝)曹操と同族である。譙國(郡)は魏代に、曹氏の本貫である譙縣一帯が沛國(郡)から分立されている。ただ、曹操の直系ではなく、「太祖族子」とされる曹休の子孫であり、その繼嗣である曹肇が曹攄の祖父である。
曹休は曹操の(養)祖父曹騰の兄の子孫と見られ、「使與文帝同止、見待如子。」と、曹操に子の如く遇され、「文帝」曹丕とは「止」(居る所)を同じくする程に親密であったと云う。
そして、黄初七年(226)の文帝崩御に際しては、遺詔によって曹眞・陳羣・司馬懿と共に、新帝となる曹叡(明帝)の輔政に当たっている。その地位は大司馬であり、朝臣の筆頭と言えるものだったが、太和二年(228)に行った南征(「石亭の戦い」)に敗れ、「癰發背薨」じており、輔政の期間は三年に過ぎない。
曹休の子である曹肇も明帝曹叡と親しく、「明帝寵愛之、寢止恆同。」(『藝文類聚』など)と、やはり、「止」を同じくしている。景初二年(238)の「明帝寢疾」時には、父と同じく「屬以後事」される筈であったが、明帝の「意」が変じ、「以侯歸第」させられ、「正始中」(240~249)に薨じている。
死後、「衛將軍」を追贈されており、本傳の「魏衛將軍」はこれに拠る。「子興嗣」とあり、この曹興が曹攄の父、或いは
曹攄の父は本傳に名も経歴も見えず、官途に就く事無く死去したか、就いたとしても然るべき地位に登る事無く早世したと思われる。曹攄の経歴には「父憂」(父の死)による断絶が見えず、それは曹攄が官途に就く以前であったと推定される。
他の近縁者としては『晉書』卷九十二文苑傳に「譙國人」で、「高祖休、魏大司馬。父識、右軍將軍。」とある「曹毗字輔佐」がいる。「高祖」(祖父の祖父)が大司馬曹休であるから、曹毗は曹休の玄孫、曾孫である曹攄の子排であり、その「父」曹識は曹攄の同排、乃ち兄弟、從兄弟、族兄弟の何れかとなる。
「高祖休」とあるのみで、「祖」・「曾祖」についての言及が無い事からすれば、曹毗は曹肇の家系ではなく、曹休傳に「肇弟」とある曹纂の子孫であるかもしれない。
なお、譙國(沛國)曹氏で『晉書』に傳があるのは、曹攄・曹毗の他は、卷五十に専傳がある曹志(曹植子;曹操孫)のみである。
他に僅かでも晉代の動向が知れるのは、魏の末帝となった元帝(曹奐;陳留王)とその繼嗣以外では、『三國志』の裴注に「案」として見える曹嘉(曹彪子;曹操孫)・曹翕(曹徽子;曹操孫)及び、何法盛『晉中興書』に惠帝第四女の臨海公主が「適」したとある「譙國曹統」(系譜不明)の三者のみである。
更に言えば、晉代以降に譙國曹氏の裔で史書に記述があるのは、歴代の「陳留王」(『宋書』)以外では、『(北)魏書』卷七十二に「魏大司馬休九世孫」として専傳がある曹世表のみである。但し、彼は「東魏郡魏人」とある。
「九世孫」とは、南北朝末期頃に数え方が変化しているので、曹休から九代目か、十代目かが不明だが、その傳に「祖謨、父慶、並有學名。」と見える、曹世表の「祖」曹謨が曹攄の曾孫、或いは玄孫の世代に当たる。
ついでに言えば、唐代に杜甫の「丹青引」に「贈曹將軍霸」として、「魏武之子孫」とされる曹霸がいるが、彼は史書には見えない。晉代以降で名・事績が知れる譙國曹氏の過半が曹休の子孫であるのは興味深い。
ところで、魏は帝室(諸王)を任用せず、魏の成立後に官職にあった事が確認できるのは、曹仁(及び子の曹泰)、曹洪、曹休(及び子の曹肇・曹纂)、曹眞(及び子の曹爽兄弟)、及び曹演(曹純子)、そして、『晉書』禮志に見える「行太常宗正曹恪」のみである。
しかも、曹泰・曹演は具体的な事績が知れず、曹仁・曹洪は魏と言うより、曹操の旧臣と言うべきである。曹恪は太和三年(229)十一月に皇室親族を主る宗正にある以上、宗室の一員と思われるが、系譜不明である。
従って、魏において権貴にあった宗室(曹氏)と言えば、曹休と曹眞の家系という事になる。ところが、曹眞の子孫は、曹爽が明帝死後に大將軍と為り、輔政に当たったものの、正始十年(249)の政変で、司馬氏(司馬懿)によって族滅されている。
一方で、曹肇はそれ以前に「侯を以て第に歸」り、逝去しているが、その子孫は曹攄の如く生き残っている。つまり、曹休の家系は、正始以降は他の宗室と同様だが、それ以前に帝室に近しい立場にありながら、魏に殉ずる事無く存続した、やや特殊な家系という事になる。
輔政に当たりながら、それを全うし得ずに死去した曹休、輔政に当たる事を阻まれた曹肇、そして、史乗に名を残す事すら出来ずに終わった曹攄の父、曹休の家系には「魏」に対する悔恨があったかに思われる。
そうした中で育った曹攄は父祖と思いを同じくしたのか、或いは、それ故にこそ、同じ思いを繰り返させぬ為に、「晉」の安寧を願ったとも考えられる。
ところで、曹攄は「譙國譙人」とあるが、これは彼の本貫であって、必ずしも譙縣が彼の故郷、生地であるという事を意味しない。
曾祖父曹休、祖父曹肇は朝廷の高官として洛陽に在住しており、曹肇が「以侯歸第」した様に、洛陽に邸第があった筈である。魏に於いて文帝(曹丕)、明帝(曹叡)は都である洛陽の近郊に葬られており、他の曹氏もそれに倣ったと思われる。
実際、2010年に洛陽邙山陵墓群で「曹休墓」と見られる墓が確認されている。従って、魏の皇族・宗室は名目上は兎も角、実質的には「河南洛陽曹氏」に近い存在になっていたのではないか。
この場合、曹攄の生地は曹肇との系譜が明確でない為、確定は出来ないが、洛陽、或いは、魏末年に諸藩王公が集められていたという鄴と思われる。
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