良吏―曹攄と「八王の乱」
灰人
序
『晉書』卷九十(列傳第六十)に、晉の前代、魏の宗室の末裔たる曹
『晉書』卷九十は良吏傳と題されており、その「良吏」について、序論で漢宣帝の「百姓所以安其田里而無歎息愁恨之心者、政平訟理也。與我共此者、其唯良二千石乎。」という言を引いて、「長吏之官實爲撫導之本」と述べている。
「政平訟理」は政事が公平で訴訟に道理がある事であり、「百姓(万民)がその田里を安んじ、歎息・愁恨之心の無き」様にする、それを宣帝(皇帝)と共に為すのが「良二千石」であると云う。「二千石」は太守の別称であり、「長吏之官」である。つまり、「良二千石」は「良き」・「長吏」、乃ち良吏である。
従って、良吏は皇帝と共に「政平訟理」を為し得る者、実質的には皇帝に代わってそれを為す者であり、民を「撫導」、安寧ならしめ、その結果、民に慕われる治績を残したものが「良吏」と呼ばれる。言い換えれば、良吏は皇帝と百姓の間に介在し、概念上は兎も角、実際には接点のない両者を結びつける者、その結節点となる者である。
以下、縷縷述べていく様に、この介在者、結節点としての役割というのが、曹攄を象徴しているかに思われる。彼が積極的に何事かを為すわけではなく、ただ介在しただけで、彼自身の重要度は然程ではない事も多いが、彼が幾つかの事象・人物の間を結ぶ位置にある事も多い。
曹攄の生涯は、ほぼ西晉(265~317)一代に相当し、確実な活動年代はその後半、元康(290~299)末から永嘉(307~313)初となる。この時期は「八王の乱」と呼ばれる八人の王を擁した争いが交々起こった時代(290~306)であり、その争いの中で西晉の統一は崩潰していく。
曹攄はその「八王の乱」の時代に於いて、「八王」の最初の二人、汝南・楚の二王を除いた、趙・齊・長沙・東海の四人の王と直接・間接に、残る成都・河間の二王とも対立する陣営に身を置く事で係わりを持つ事になる。諸王周辺の人物とも大小様々な係わりがあり、同時代を見ていく上で、指標とし得る人物と言える。
曹攄の生涯を追いながら、彼を軸とした人間関係に着目しつつ、「八王の乱」を概観してみたい。本傳は全体でも六百字程度であるので、先ずは全文を引用する。
曹攄字顏遠、譙國譙人也。祖肇、魏衛將軍。攄少有孝行、好學善屬文、太尉王衍見而器之、調補臨淄令。縣有寡婦、養姑甚謹。姑以其年少、勸令改適、婦守節不移。姑愍之、密自殺。親黨告婦殺姑、官爲考鞫、寡婦不勝苦楚、乃自誣。獄當決、適值攄到。攄知其有冤、更加辨究、具得情實、時稱其明。獄有死囚、歲夕、攄行獄、愍之、曰:「卿等不幸致此非所、如何?新歲人情所重、豈不欲暫見家邪?」眾囚皆涕泣曰:「若得暫歸、死無恨也。」攄悉開獄出之、剋日令還。掾吏固爭、咸謂不可。攄曰:「此雖小人、義不見負、自爲諸君任之。」至日、相率而還、並無違者、一縣歎服、號曰聖君。入爲尚書郎、轉洛陽令、仁惠明斷、百姓懷之。時天大雨雪、宮門夜失行馬、群官檢察、莫知所在。攄使收門士、眾官咸謂不然。攄曰:「宮掖禁嚴、非外人所敢盜、必是門士以燎寒耳。」詰之、果服。以病去官。復爲洛陽令。
及齊王冏輔政、攄與左思倶爲記室督。冏嘗從容問攄曰:「天子爲賊臣所逼、莫有能奮。吾率四海義兵興復王室、今入輔朝廷、匡振時艱、或有勸吾還國、於卿意如何?」攄曰:「蕩平國賊、匡復帝祚、古今人臣之功未有如大王之盛也。然道罔隆而不殺、物無盛而不衰、非唯人事、抑亦天理。竊預下問、敢不盡情。願大王居高慮危、在盈思沖、精選百官、存公屏欲、舉賢進善、務得其才、然後脂車秣馬、高揖歸藩、則上下同慶、攄等幸甚。」冏不納。尋轉中書侍郎、長沙王乂以爲驃騎司馬。乂敗、免官。因丁母憂。惠帝末、起爲襄城太守。時襄城屢經寇難、攄綏懷振理、旬月克復。
永嘉二年、高密王簡鎮襄陽、以攄爲征南司馬。其年流人王逌等聚眾屯冠軍、寇掠城邑。簡遣參軍崔曠討之、令攄督護曠。曠、姦凶人也、譎攄前戰、期爲後繼、既而不至。攄獨與逌戰于酈縣、軍敗死之。故吏及百姓並奔喪會葬、號哭即路、如赴父母焉。
以下、本傳の記述を追いながら、史書の問題点なども指摘しつつ、見ていきたい。
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