私は傘が欲しかった
和音
消えない雨雲
私は常に雨の中にいる。終わらない仕事の前でいつものように日付が変わるまで残業をしていた雨の日の帰り道、傘を忘れた私は雨に打たれながら帰った。今思えば、会社に忘れ去られている傘を使うなりコンビニで買うなりすればよかったと思うのだが、余裕のない時の思考は高い確率で間違った答えをはじき出すのは何故だろうか。
部屋のカギを開け、ソファーに大きく座り込む。そこで一つの違和感、雨が身体にあたる感覚が消えないのだ。シャワーを浴びていても布団をかぶっていても、冷たい水が私の身体を打ち続ける。瞳を閉じれば、雨粒が当たる音が耳元で聞こえ、身体が濡れている気さえする。次の日、いつもより寝不足気味な私は会社に午前休の電話を入れて病院へ向かった。
昨日の事が嘘のように晴れ渡った空の下でも、雨に打たれる感覚は消えない。病院で様々な検査を受けたが、結局何もわからないまま帰らされた。仕方なく、陽の光と雨を浴びながら会社へ向かう。
会社にたどり着くと、自分の机には書類が山のように積まれている。午前中休んだのだから午後はきっちりと働いてもらうよ、と上司が嫌な笑みを浮かべる。周りを見渡すと、巻き込まれたくないのかあからさまに目を逸らす同僚達。仕事にとりかかったときに吐いたため息は私だけの雨に流されて消えていった。
仕事をしている時も、ご飯を食べている時も、寝る時も、雨は私の身体を穿って止まない。慣れることのない不快な感覚が常に纏わりつき、心が削られていく。少しずつ、確実に。
そんな生活が数年続いた頃、会社から解雇通知書が渡された。普段満足な睡眠がとれてないせいか、こなせる仕事量は以前の半分以下になったし居眠りも多い。当たり前といえば当たり前だった。
これからどうしようかと、半ば放心状態で公園のベンチに座り込むこと数時間。いつの間にか雨が降り始めたらしく、気づいた時にはスーツが雨に染まっていた。昼は暖かくなってきたといえども、陽が差さないと肌寒い季節。雨に濡れた身体は冷たくなっていくがどうでもいい。何も考えたくない。何もしたくない。そんなことばかりが頭を巡り、思考が悪いほうへ傾いていく。自分の命すら雨に流されそうになった時、一つの赤い傘が差し出された。
時が止まったかのように雨の音が優しいものに変わり、遠ざかる。雨に打たれ続けて冷え切った身体が徐々に熱を取り戻す。驚いた顔でゆっくりと顔を上げるとそこには見知らぬ女性が立っていた。傘を差し出しているため身体は刻々と濡れていっているが、その瞳からは心配の色しか見えない。
「大丈夫?」
身体中の熱が瞳に集り、頬を伝う。その一言が私の心に傘を差した。
私は傘が欲しかった 和音 @waon_IA
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます