第2話 灯翠の秘密
後宮は皇帝の子を
今回集められた妃候補たちの総数は1000人にも及ぶ。世話役の女官、雑用係りの宮女、宦官を合わせた総数は5000人を
「ふぅ~ 終わった~」
魂の抜けたような声をだし、机に突っ伏す。
時刻はすでに深夜。
(この男、本当に性を切り取られた宦官なのか?)
灯翠が疑問に思うのも無理はない。飛龍は細身ながらも背が高く筋肉質な体型をしており、力仕事も難なくこなす。それに彼女はひと月前、2階から落ちたところを助けられたとき、この男の胸板の厚さに触れている。短く刈り上げられた紫黒色の髪、健康的な小麦色の
「なんど教えれば覚えられるのだ?
「へいへい」
「返事は、はいだ」
「はいはい」
「1回でよい」
「へい」
「お主、わざとだろう?」
(字を書く練習もこれで何日目だ? しかもこんなに夜遅くまで……飽きた)
実のところ、灯翠が苦手なのは字の読み書きだけではなかった。先週の
ため息をつく飛龍。
ただしこれは彼なりの愛情の裏返しであって、期待しているが故の厳しさなのである。そもそもがここまで熱心に教育をする必要性はないのである。ただただ残念なのは、彼のこの熱意が、今まで教育を受けずに育ってきた彼女に、まったく伝わっていないことだった。
「ねぇ、飛龍」
「様が抜けてるぞ」
「飛龍様。田舎育ちで字の読み書きもろくにできない
飛龍が首を横になんども振る。
「そうはいかん。占いでは、お主が皇帝を救うとあるのだ。これは国を救うと同意ともとらえることができる」
「そこよ、そこ。ずっと疑問に思ってたんだけど、その占いの
机に突っ伏した状態のまま、顔だけを飛龍の方へと向ける。占いでは、『天から舞い降りし清らかなる乙女、錠に願いを込め皇帝を救う』とあるのだ。(第1話参照)
「もちろん確証はないが、お主は大量の錠前とともに天から舞い降りてきた。そして、生娘であることも後宮にやってきたときに確認ができている。疑う
(そんな優雅なものじゃないだろう。あれは2階から落ちただけだ)
とは言えない。
「それはそうかもだけど……」
(それに、あの錠前は納品するためのものであって、わたし自身が願いを込めて施錠したものでもない)
とも言えない。
言葉を詰まらせ困り顔を見せる灯翠。それを見て、飛龍がニヤリと笑みを浮かべ話を続けた。
「実はもうひとつある。あの日、お主の周辺に散らばった海老錠はすべて表を向いていたのだ。これは
灯翠はようやく姿勢を正すと、手の平を合わせた。「パチン」という乾いた音のあとに飛龍を指差す。
「最高に縁起がいい!」
飛龍が一番言いたかったことを代わりに言ってしまった。
「う゛……その通りだ。お主も占いに興味があったのだな……」
(占いに詳しいのはじいちゃんだぞ)
「それに、これはわたしの
「名誉挽回?」
「ああ。わたしは過去に、無実の罪を着せられ多くのものを失った。宦官のわたしが、今の状況から再びここでのしあがるためには、皇后直属の宦官となる必要があるのだ」
「ふ~ん。そうなんだ」
二度
「ん? ちょっと待って。今、皇后がどうのこうのって言わなかったか?」
「ああ。皇后直属の宦官長になるのが今のわたしの目標だ。だからこそ、こうしてお主の居残り練習にも率先して協力しておるのだぞ」
「だれが皇后になるの?」
「お主だ」
(田舎者のわたしなんて善処しても下級妃程度だろう……皇后なんて雲の上のそのまた上の存在だ)
「本気なの?」
「
「もしわたしがその四夫人に選ばれなかったら?」
「そのときは、後宮で死ぬまで働いてもらう。すでにお主の主人には多額の報酬を支払っておるからなっ」
灯翠の脳裏り鍵屋の店主の顔が浮かんだ。
(まったく関係のないスキンヘッドに報酬が支払われてたなんて……じいちゃん、ごめんよ)
「ところで、お主のその前髪はなんとかならんのか? ネクラに見えて印象が悪い」
前髪に触れようと手を差しだす飛龍。
その手を
思いもよらぬ灯翠の行動に驚きの表情を見せ、動きを止めた飛龍は、じっと灯翠を見つめ続けた。
――しばらく沈黙が続いた――。
「なるほど。そういうことだったのだな」
沈黙を破ったのは飛龍のほうだった。灯翠が普段から前髪を長く伸ばし、目を
「波打った
飛龍は指を1本ずつ立て、最後に結論を述べた。
「……う、うん」
自身の手で前髪を
「幼少のころ、事故で左目を失いました」
灯翠の左目を見ても、飛龍に動揺や驚きはなかった。
「それは不運だったな。ただ、それほど気に病むことではないと思うぞ。少なくとも今回のお妃選びで不利になることはない」
「そうなのか?」
「ああ。陛下はそんな心の狭い男ではないからなっ」
ホッと胸を
「もっと早くに気づいてやるべきだった。これまでの数々の失敗は、遠近感がつかめていなかったのが原因だったのだな」
「うん……あっ、はい!」
「ならば今から、その遠近感をつかむコツを教えてやろう」
「え~ 今から?」
「つべこべ言うな!」
そう言うと、飛龍は灯翠の横に寄り添うように近づき、遠近感をつかむコツを伝えるのだった。
「よいか。ものを見るときはできるだけ接近して見ること」
「はい!」
「こうやって、手を使って物に触れることも有効だ。触れることで視覚を補う効果がある。覚えておけ」
「おお〜!」
灯翠は正直嬉しかった。
自身の潰れた左目を見て、嫌な顔をされなかったのは初めてのことだったからだ。それに、飛龍は隻眼であることの苦労をなぜか知っていて、その対処法までこうして丁寧に教えてくれている。
ドキドキ。
灯翠の胸の鼓動が高鳴る。静寂が包み込む深夜の一室で、まるでふたりの動きに同調するかのように揺らぐ
心臓の鼓動がさらに増す。
灯翠は気が気でなかった。そう、こんな経験をしたことがなかったからだ。相手にこの胸の鼓動が伝わらないかと不安にもなっていた。そして、さりげなく横目で飛龍を見れは、その横顔は驚くほど穏やかな表情をしていた。
(いったいなんなんだ。この感情は?)
「大変です。
夜警宦官の大きな声とともに部屋の戸が勢いよく開く――
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