第2話 灯翠の秘密

 灯翠ヒスイが『美女狩り』にい、後宮入りしてからひと月が経った。



 後宮は皇帝の子をすための女のその。よって、皇帝意外の男性がここに出入りすることは禁止されている。さらに今回は、その皇帝が代わったということで妃たちの総入れ替えが行われた。


 今回集められた妃候補たちの総数は1000人にも及ぶ。世話役の女官、雑用係りの宮女、宦官を合わせた総数は5000人をゆうに超えた。そんな大所帯となってしまったこの後宮で、妃候補たちは舞踊や教育、礼儀作法などを学び、皇帝の寵愛ちょうあいを得るべく四夫人(貴妃・淑妃・得妃・賢妃)の座を目指す。さらにその後、四夫人の中から皇帝の最も寵愛を受けた者が皇后の座に就き、後宮内を取り仕切るのが慣例かんれいとなっている。



「ふぅ~ 終わった~」


 魂の抜けたような声をだし、机に突っ伏す。


 時刻はすでに深夜。丑三うしみつ時である。字の読み書きがまったくできない灯翠だけが居残り勉強をいられていたのだ。その教育を担当するのは宦官の飛龍フェイロン。そう、彼女をこの後宮に連れてきた張本人だ。


(この男、本当に性を切り取られた宦官なのか?)


 灯翠が疑問に思うのも無理はない。飛龍は細身ながらも背が高く筋肉質な体型をしており、力仕事も難なくこなす。それに彼女はひと月前、2階から落ちたところを助けられたとき、この男の胸板の厚さに触れている。短く刈り上げられた紫黒色の髪、健康的な小麦色のはだ、切れ長の目が特徴的な美男。後宮内での地位もそれなりに高いとあって、宦官だとわかっていながらも色目を使う女たちは大勢いた。


「なんど教えれば覚えられるのだ? 紛失ふんしつの紛はこめへんではなくいとへんだ。それに字が波打っていて気持ち悪い」


 蝋燭ろうそくの明かりを頼りに字を書いているのだから仕方ない――などの気遣いは皆無かいむ。多くの妃候補たちには笑顔をやさぬ飛龍だか、灯翠にだけはなぜか厳しいのだった。


「へいへい」

「返事は、はいだ」

「はいはい」

「1回でよい」

「へい」

「お主、わざとだろう?」


(字を書く練習もこれで何日目だ? しかもこんなに夜遅くまで……飽きた)


 実のところ、灯翠が苦手なのは字の読み書きだけではなかった。先週の舞踊ぶようでは、片足立ちでバランスがまったくとれず居残り。その前の週は食事作法で長安ちょうあん(長机)の端ギリギリのところに陶器の皿を置き落としているし、わん(茶碗)をつかみ損ねることも多かった。すでに割った陶器の数は二桁ふたけたに及ぶ。そのほかにも、道を歩けばつまずきよく転ぶ。


 ため息をつく飛龍。


 ただしこれは彼なりの愛情の裏返しであって、期待しているが故の厳しさなのである。そもそもがここまで熱心に教育をする必要性はないのである。ただただ残念なのは、彼のこの熱意が、今まで教育を受けずに育ってきた彼女に、まったく伝わっていないことだった。


「ねぇ、飛龍」

「様が抜けてるぞ」


「飛龍様。田舎育ちで字の読み書きもろくにできない下賤げせんの者が妃になんてなれるわけないと思わない。ほかにも失敗ばかりだし……。見込みの薄いわたしのことなんてあきらめて、他の候補者をしたら?」


 飛龍が首を横になんども振る。


「そうはいかん。占いでは、お主が皇帝を救うとあるのだ。これは国を救うと同意ともとらえることができる」


「そこよ、そこ。ずっと疑問に思ってたんだけど、その占いの乙女おとめって本当にわたしのことなのか?」


 机に突っ伏した状態のまま、顔だけを飛龍の方へと向ける。占いでは、『天から舞い降りし清らかなる乙女、錠に願いを込め皇帝を救う』とあるのだ。(第1話参照)


「もちろん確証はないが、お主は大量の錠前とともに天から舞い降りてきた。そして、生娘であることも後宮にやってきたときに確認ができている。疑う余地よちはあるまい」


(そんな優雅なものじゃないだろう。あれは2階から落ちただけだ)


 とは言えない。


「それはそうかもだけど……」


(それに、あの錠前は納品するためのものであって、わたし自身が願いを込めて施錠したものでもない)


 とも言えない。


 言葉を詰まらせ困り顔を見せる灯翠。それを見て、飛龍がニヤリと笑みを浮かべ話を続けた。


「実はもうひとつある。あの日、お主の周辺に散らばった海老錠はすべて表を向いていたのだ。これはえき占いで言うところのけんけん乾為天けんいてんの卦だ。つまり……」


 灯翠はようやく姿勢を正すと、手の平を合わせた。「パチン」という乾いた音のあとに飛龍を指差す。


「最高に縁起がいい!」


 飛龍が一番言いたかったことを代わりに言ってしまった。


「う゛……その通りだ。お主も占いに興味があったのだな……」


(占いに詳しいのはじいちゃんだぞ)


「それに、これはわたしの名誉挽回めいよばんかい好機チャンスでもある」


「名誉挽回?」


「ああ。わたしは過去に、無実の罪を着せられ多くのものを失った。宦官のわたしが、今の状況から再びここでのしあがるためには、皇后直属の宦官となる必要があるのだ」


「ふ~ん。そうなんだ」


 二度うなずいて見せたあと、すぐに首をかしげる。


「ん? ちょっと待って。今、皇后がどうのこうのって言わなかったか?」


「ああ。皇后直属の宦官長になるのが今のわたしの目標だ。だからこそ、こうしてお主の居残り練習にも率先して協力しておるのだぞ」


「だれが皇后になるの?」

「お主だ」


 まばたきを繰り返す。


(田舎者のわたしなんて善処しても下級妃程度だろう……皇后なんて雲の上のそのまた上の存在だ)


「本気なの?」

勿論もちろん! まずは四夫人の座を目指す」


「もしわたしがその四夫人に選ばれなかったら?」

「そのときは、後宮で死ぬまで働いてもらう。すでにお主の主人には多額の報酬を支払っておるからなっ」


 灯翠の脳裏り鍵屋の店主の顔が浮かんだ。


(まったく関係のないスキンヘッドに報酬が支払われてたなんて……じいちゃん、ごめんよ)


「ところで、お主のその前髪はなんとかならんのか? ネクラに見えて印象が悪い」


 前髪に触れようと手を差しだす飛龍。

 その手を咄嗟とっさに払いのける灯翠。


 思いもよらぬ灯翠の行動に驚きの表情を見せ、動きを止めた飛龍は、じっと灯翠を見つめ続けた。暗緑色あんりょくしょくのしなやかな髪は、まるで赤い瞳を隠すかのように目元の先まで伸ばされている。それ以外はごく普通。なんの問題もない。以前は針金のように細かった手足も、後宮暮らしのおかげでふっくらしてきている。


 

 ――しばらく沈黙が続いた――。



「なるほど。そういうことだったのだな」


 沈黙を破ったのは飛龍のほうだった。灯翠が普段から前髪を長く伸ばし、目をおおい隠すかのような髪型をしていたそのに気づいたからだった。


「波打ったいびつな字、舞踊での居残り、食事作法では皿を割り、道を歩けば石に躓きよく転ぶ。お主、隻眼せきがんなのだな」


 飛龍は指を1本ずつ立て、最後に結論を述べた。


「……う、うん」


 自身の手で前髪をすくい上げ、潰れてしまった左目をあらわにした灯翠が言葉を続ける。


「幼少のころ、事故で左目を失いました」


 灯翠の左目を見ても、飛龍に動揺や驚きはなかった。


「それは不運だったな。ただ、それほど気に病むことではないと思うぞ。少なくとも今回のお妃選びで不利になることはない」


「そうなのか?」


「ああ。陛下はそんな心の狭い男ではないからなっ」


 ホッと胸をでおろす灯翠。


「もっと早くに気づいてやるべきだった。これまでの数々の失敗は、がつかめていなかったのが原因だったのだな」


「うん……あっ、はい!」


「ならば今から、その遠近感をつかむコツを教えてやろう」


「え~ 今から?」

「つべこべ言うな!」


 そう言うと、飛龍は灯翠の横に寄り添うように近づき、遠近感をつかむコツを伝えるのだった。


「よいか。ものを見るときはできるだけ接近して見ること」


「はい!」


「こうやって、手を使って物に触れることも有効だ。触れることで視覚を補う効果がある。覚えておけ」


「おお〜!」


 灯翠は正直嬉しかった。


 自身の潰れた左目を見て、嫌な顔をされなかったのは初めてのことだったからだ。それに、飛龍は隻眼であることの苦労をなぜか知っていて、その対処法までこうして丁寧に教えてくれている。


 ドキドキ。


 灯翠の胸の鼓動が高鳴る。静寂が包み込む深夜の一室で、まるでふたりの動きに同調するかのように揺らぐ蝋燭ろうそくの明かり。気づけば、ふたりは、ぴったりと寄り添うような形となっていた。


 心臓の鼓動がさらに増す。


 灯翠は気が気でなかった。そう、こんな経験をしたことがなかったからだ。相手にこの胸の鼓動が伝わらないかと不安にもなっていた。そして、さりげなく横目で飛龍を見れは、その横顔は驚くほど穏やかな表情をしていた。



(いったいなんなんだ。この感情は?)



「大変です。ぞくが侵入したもようです!」



 夜警宦官の大きな声とともに部屋の戸が勢いよく開く――あわてて距離を置くふたりだった。

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