〔第1章:第3節|薇字名/ジェンナ〕

 天使は微笑んでいたけど、それは本心の微笑みからなのか、それとも形式上のものかはわからなかった。

『ねぇ〜、びっくり〜。……まさか、ボクが悪魔だったとはね』

 ジェンナの声が、頭の中で笑う。

 厳密には、私が悪魔?

『君は半魔。ボク自身は悪魔だけど、ボクが入っている君は半魔、って事かな?』

 理性とか別人格とかじゃない……?

『そうみたい。——じゃ、みんなボクらみたいに頭の中で会話をする事は無いの?』

 ……そうみたい。

『痛いところが一緒だとか、理性と——ボクと君とで、趣味が違うとかも?』

 ……そうみたい……。 

「……数十年前に流行った、『異世界転生』みたいな事?」

 私の隣に立つ先生が、少し嬉しそうに天使に尋ねた。


《——いいえ。近しいですが、厳密には違います。全ての生命は死後、『天界』という別時空へ行きます。『天界』は主に『天国』と『地獄』で構成されており、大半の者は『天国』で第二の人生を過ごします。あなた方も同様に、これよりその『天国』にて、新たな人生を送って頂きます》


全ての人間﹅﹅﹅﹅﹅って事は——」

 絲色さんの怪訝な言葉に、天使は頷いた。


《——これまで、歴史上死んできた著名人や、あなた方個人が生前に死別した者たちも、その大半は『天界』にて、新たな人生を歩んでおります。そしてそれと同等以上の情報技術を発展させている世界であるために、あなた方にとっては——『未来』のような世界でもあります》


 未来……?

『悪魔ってさ、どうやって生活してんのかな? ていうか、ボクら「天界」だとどうなるんだろう?』

 それは後で訊いてみよう——『ホントに? ちゃんと訊いてよ?』


《——また、広大で多種多様の人類種や動植物が存在する宇宙のため、『人間世界』とは多様性や文化、星や陸の形、時間の流れさえもが、大幅に異なっている世界となります》


『ねえ! 訊いてみようよ!』

 無視しても良かったけど、翼や尻尾が出てからは、頭の中の声がよく響く。あまり怒鳴ったりしないで欲しい。

『ごめん。で、訊いてみてよ』

 私はゆっくり手を上げた。

 悪魔——半魔だと判明しても、やっぱり喋るのは得意じゃない。

『ボクと代われたら良いのにね』

 注目されるのも苦手。

「あ、あの……あ、悪魔って……天国に、いるんですか……?」

 現状、私は独りじゃない。それは素直に嬉しい。

 けど偶然とはいえ、この四人でここにいるのに、急に『天界』で「じゃ、またね〜」だなんてお別れ、したくない。ジェンナだけでは不安過ぎて(『——なんでよ!』)、できれば一人だけ地獄での生活、みたいな展開は嫌だった。……お願い……。


《——『天国』は天使の管轄、『地獄』は悪魔の管轄になりますが、先ほど申した通り、古の時代ならともかくとして、現在は協力関係にございます。互いの領域は互いに干渉不可となっていますが、人類であろうと派生人種であろうと『人間』に含むのであれば、半魔や半天はんてんも含めて、どこの領域であろうとも、法律や条約にさえ従えば、『天国』だろうと『地獄』だろうと、大半の場所では安定的な生活が可能です》


「みんな一緒、っていう風にできるの?」

 先生が訊く。

 声は堂々としていたけど、私より不安を含んでいるようにも聞こえた。


《——可能です。お望みであれば》


「お望みです! ……ですよね?」

 先生は宣言すると、私たちを順に見た。

 絲色さんは微笑を、墓終さんは頭を傾げた。肯定する気がないほどじゃないけど、否定する理由は無い、みたいな感じだ。

『好都合じゃん』

 ジェンナの言う通り私も、内心よりは多少控えめに、先生に口角を上げて見せた。

「嫌ってわけじゃないんだけどさ……そもそもなんで、あたしらは今一緒なの?」

「ていうか、僕らが死ぬ直前に見たあの化け物みたいなやつは、いったい何だったんだ? あれも『人間』か?」


《——近年では、近い場所で近い時間内に死んだ者たちは、その人数や人種に問わず、一緒にご案内﹅﹅﹅する事になっています。昔は個々人でのご案内でしたが、年々死者が増加傾向にある事と、生前のコミュニティの存在が強くなる一方で孤独への耐性が低い者たちが出現し始めたため、一定の時空間内における同一の状況下での死者は、接触不可な状況下にて、同時に『天界』へと案内する事になっています》


「じゃ、あたしらやっぱ、あの爆発で死んだんだ」

 墓終さんがそう言って気付いた。確かに、私たちは「死因」までは知らなかった。

「僕らが見た、あの鬼みたいな化け物は?」

 絲色さんは疑問を続けた。


《——あれは派生した、人間﹅﹅』です。人工的な変異種であり、『天界』の生命存在は関与していませんが、時空次元間においては、問題はございません》


「その所為で、僕らは死んだのでは?」


《——『天界』や『人間世界』は、とどのつまりは循環装置﹅﹅﹅﹅です。その人数は多少の偏り﹅﹅はあっても、宇宙の存続や維持に関しては、直接的な問題はありません。人工的な生命の進化は、文明の発達においては強い要因であり、これまでで今回の一件だけではありませんし、『天界』に行けば、『人間世界』の状況に関する情報が入る事もありますので、過去の歴史や違う種族の情報を閲覧すれば、歴史上、数多の例があるほど、当たり前とも取れる事象だとわかる事でしょう》


「私たちは死んだけどねー……」

 先生が拗ねたようにボヤいた。私も少し引っ掛かってしまうほど、対局的な話だった。

『……ボクらは「数」、ってわけだ』

 これまでの話を聞いて、機嫌を悪くした人はどれほどいるのだろう。きっといっぱいいるに違いない。

『でもなんか……ボクは意外と気に入ってるよ。自分が認められた感じ? ——君だってもう、誰にも悪口言われないんだよ? 良かったじゃん。あの嫌な家族と離れられて﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

 他人事のように、ジェンナは言った。私の尻尾が踊っている気もする。

 ——『人間』に意識……『人間』に意識……。

 感覚でわかる。

 生えかけていた翼と、踊りかけていた尻尾が消えた。傍で先生が「ん?」と。

 私もジェンナも生まれた時から一緒だから、家族だって一緒の…………ン?


 ——そもそもなんで、私とジェンナは一緒なの?


『ハッ——生まれた時から一緒なんだよ? ボクが知るわけないじゃない。また天使に訊いてみなよ』

 でも、私より先に墓終さんが口を開いた。

「で、あたしたちはどうすれば良いの? その新世界に行けば良いの?」


《——他にご質問がなければ、あとは後任の天使によって、『天国』に案内する、という事になります。因みにですが、『天国』の事に関しましては、現地に着いてからの方が理解しやすいかと思われます》


「……誰か、なにか……質問ある?」

 先生の言葉に、私たちは顔を見合わせた。

 私は控えめに手を挙げる。

「……あ、あの……こ、個人的な、質問、なんですけど……」

 天使の瞳は何も見ていないように感じたけど、三人から注目されると普通に緊張してしまう。

『悪魔を宿しているってわかったのに、緊張しい﹅﹅﹅﹅は治らないんだね』

 ……そもそも、その悪魔の所為なんだけど。

 私は話す事に集中する。

「わ、私は……どうして……は、半魔……? ……なん、でしょう……?」


《——申し訳ありませんが、私たち天使は関知していない事象になります。『天界』にて地獄へ行く事があった際には、悪魔と接触し、事実確認をしてみる事をお勧めします》


「……は、はい」

『そんな簡単に、悪魔と接触できるのかな?』

 さあ。私に聞かないで。

『でも、大半の人間は天国で過ごすらしいよ? 地獄に行かないのは、それなりの理由があるからじゃない?』

 変に疑り深いところは、やっぱり私の理性﹅﹅って感じだ。

『それが違うって話にならなかった?』

 いちいち答えをくれるところも。どうもね。

「あー……難しいよね。急に自分が人間じゃないって言われたら。……ごめん待って。人間ではあるんだっけ? あれ?」

 先生が明るく振る舞ってくれているのは、素直に嬉しがるべきだろう。

『元々そういう性格っぽくない?』

 素直に感謝し、不躾な事は考えない。少なくとも私は。『ボクは?』——好きにして。

「もう、他に質問はない?」

 墓終さんは、どうにもこの先が気になっているらしい。

「じゃあ、最後に」

 絲色さんが、遠慮がちに。

「ただの疑問なんだけど……全員が、全ての人間が死んだら同じ世界に行くんだよな? もし……もし、うらみつらみとかある場合は、どうなるんだ? 天国では殺し合いとか、頻繁に起きてたりしないのか?」

「なに? あんた、わけありなの?」

「ただの疑問って言ったろう。独裁者と宗教家が戦争中、みたいな場所に送られたら嫌じゃない? それに僕より墓終の方がー……なんでもない」


《——天国は、必要最低限のみですが、天使によって管理されています。しかしそれ以外の事に関しては、『人間』たちの選択に任せています。『人間世界』だろうと『天界』だろうと、天使は必要以上に干渉は致しません。もし込み入った事情がある場合、個人の問題でしたら、早めに解決する事を推奨しています。もしくは、接触する事のないほど遠くに行く事を。思想や団体の問題でしたら、持ち込む事自体は可能ですが、相当な必要性に駆られない限りは、戦争まで発展はしません。辺境の星では、一部紛争状態となっている地域も、あるにはありますが……その際は、難民として別の星に移動してしまえば良いだけの事になります》


「天国に行く時、場所は選べるの?」

 先生が訊いた。

 青空だった空が変わり、再び宇宙に。

 白くない、黒い宇宙だ。

『でも……たぶん、ボクらの知らない宇宙だね』


《——特定の条件下においては、お望みとあらば、場所は選べます。ですが全く未知の場所に行く際は、違う人類の無縁の常識に接触する事になりますので、言語や文化の通じやすい、個々人に由縁たる地域への転移﹅﹅を、推奨しています。あなた方は地球人であり、また日本人でもあるため、まず向かうのはその辺り﹅﹅﹅﹅の地域となります。先ほどのご要望通り、四人一緒にその場所へと》


 私たちは顔を見合わせた。

 私は先生に伺いを立てたつもりだったけど、先生は私と墓終さんの視線を、絲色さんへ送り流した。

『——男ってだけで、もうリーダー?』

(誰も何も言ってない)——強く諭すと、ジェンナが拗ねたのがわかった。

 絲色さん——まあ、しっかりはしてる人だ。私よりは、リーダーシップがありそう。

『ボクは?』——その話は後で。

「……みんな一緒で」

 絲色さんは私たちに頷いて、天使に言った。


《——では、これにて終了の案内を終わります。以降、有事の際は、『天国』所属の天使たちへとご相談ください》


 天使は足先で軽く地面を蹴り、浮き上がった。

 私の(——『ボクの』)とは真逆の白い翼が、大きく空を分断するように開いた。



《——どうか天国での余生﹅﹅が、生前よりも尊い理想となりますように》



 天使の翼が光り、その明光に包まれて、私たちには何も見えなくなった。





 最初は、嘘を吐かれたと思った。

 目を開けると、一人で長い廊下に立っていた。さっきまでと同じ格好で、靴は履いていない。素足の裏で感じている、床材の感覚は知っている——『コンクリートだ』。

 ジェンナもいた——『安心?』——一応、今は。

 照明の薄い廊下で、灰色の四方に囲まれた長い廊下。先は遠いが、明るいのが見えている。

『行ってみなきゃ、始まんないよ』

 わかってる。

 ゆっくりと足を出す。ペタッと、知っている感覚。

『ちょっとさ、尻尾出してみたい。ここでも出せるのかな?』

 尻尾——まあ、いいけど。ちょっと待ってね。

 納める時は『人間』に集中する。逆説的に、出す時は悪魔に——ジェンナに集中するのかな?

『おっし、任せといて』

 一人で廊下に立っていた私。誰にも見られていない事が救い。

『……字名も集中してよ?』

 わかった。

 ふぅーー…………よし、悪魔ね。悪魔。

 目を閉じる。細かい理屈はわからないけど、一度出したから体が覚えている。

 尻尾——悪魔の尻尾——ジェンナの——私、半魔の尻尾————。

 「尾てい骨」という言葉を知ったのは、小学生か中学生の時。人間の尻尾が退化して、お尻の付け根辺りに残った、小さな突起状の骨……だったような。

 それが伸びた感覚がして、さらに波打ったように感じた。

 私は目を開けると、いつの間にか両手を少し持ち上げていた。そして鏃のように先の尖った黒い滑らかな尻尾が、左右の脇下から一本ずつ出てきた。

 ……わぁ……。

 黒く、ちょっと……艶かしい? 艶も毛もない、皮みたいな感じの、黒い矢印みたいな先端。

 自分の尻尾だとは思えない。というか、自分の体とは思えない。

 けれども。

 自分の意思の通りに動く。右の尻尾は右腕に巻き付いて、左の尻尾は顔の前で揺れる。

 何メートルくらいあるんだろう。

『試してみる?』

 ジェンナと私は身体感覚を共にしている。私が痛い時にはジェンナも、私がくすぐったい時にはジェンナも。けれど、主導権は常に私にあった。ジェンナにとっては、もどかしい事が多かったろう。

 任せて、みるか。

 私の右腕に巻き付いていた尻尾が、みるみるうちにぐるぐると詰まっていき、肘から先が真っ黒の横縞模様に、太く強靭になっていく。

 ——やはり、悪魔の部分は、ジェンナの方が主導権を持つらしい。

 私の意識が強まるよりも早く、私の尻尾が——悪魔の尻尾が私の指先から溢れるように伸びていく。

(ちょっと待って! ストップ!)

『——いいね、これ! ボクの体! ——初めての体!!』

 顔の前にあった尻尾の先が、急に五股に分かれた。全て先が尖ったまま、うねうねと指のように、別々に蠢く。

『凄い! 見て! ボクの……ボクの指! たぶん? 指とは、ちょっと違うか……』

 浮かれているジェンナ。

 五本の尾先が絡まり合って、閉じたり開いたりを繰り返す。

 ごめん……なんか気持ち悪い。

 あれだ……集合体恐怖症的な。

 連続する同形の物体が、全く同じリズムで波打つのは……気持ち悪い。

(ジェンナ、止めて)

『……なんで? 超面白いよ、これ!』

 私の気分が悪くなった事に、ジェンナは気付いてるはずだ。……少なくとも、頭の片隅では。

 私はまた目を閉じる。

 ジェンナ悪魔の部分に意識を集中すると、体が変化する事はもうわかった。

 今度はまた、人間に意識を集中させる。

 ……人間……手足と……顔と……胴と……尻尾は無し…………。

『あォッ!?』

 バシュンッ。

 腕を締め付ける感覚が消え、目の前でヒラヒラしていた影も消えた。

『もう! もっと面白いものもできたのに!』

(また後で。……落ち着いたら)

『落ち着けないかもしれないよ? ……けどまぁ、わかった』

 大人しく引き下がったジェンナ。初めて体の自由を手にした事を、私がきちんと考えてあげている事も、きちんと悟っていた。今なにをするべきかも。

 長い付き合いなのだから。

『そ。だから早く行こう』

 私は真っ直ぐ続く、前へ足を出す。

『死んだってのに、みんな冷静だったよね』

 面白がってるように、ジェンナは続けた。

『もっと泣き喚いたり、絶望したりとか、色々あるじゃない?』

 さあ。

 みんな、死んだ事無いはずだから……たぶん。

 意外と、あっさりとしている事なのかもしれない。

 暗闇の中に、ペタンペタンと。私の軽い足音が響く。

『——妙だよね。みんなして』

 疑い過ぎ。

『字名もそうだよ? 不安の奥底に喜びが見えるもん』

 でも、他のみんなの心は見えない。だから、勝手な事は言わないで。

『誰に気を遣ってんのさ。ここにはボクらだけ……あっ、でもないね』

 奥の光が、近付いてきた。

 縦長の長方形。開け放たれた部屋らしいけど、さっきまでいた白い光の場所と同じく、中の様子は輝きで見えない。

『入ってみなきゃ』

 わからない、でしょ。わかってる。

 目の前に立つ。

『さっさと。誰かいるのはもうわかってるから。いちいち緊張しないでよ』

 私は光に入った。





「ようこそ、『天界』へ」



 光の先は、小さな病院の待合室みたいだった。

 殺風景で、パステルカラーの壁に囲まれ、正面のカウンター越しに、天使が一人座っていた。

 空の世界で見た天使とは違う。頭上に光輪はあっても、短い茶髪で翼は見えない。こちらに微笑みかける瞳だけは、あの天使と同じように白く輝いていたけれど。

 一人用の待合室。シンプルな椅子が一つだけあって、壁際には一人用の簡易ベッドもある。

『誰が寝るの?』

 さあ?

 一人で、一人の天使に向かい合う部屋。……天使の数え方は、一であってるのかな。

『というより、面接会場みたいだね』

 高校受験の時、私は集団面接だった。結果は散々。

 今回の面接は一人。どっちかっていうと、進路相談って感じ。

『どっちにしてもボクがいるから、一対一にはならないけどね』


「色々とお疲れでしょうけど、お手続きを始めてもよろしいですか?」


 天使の声は、天使の口から聞こえた。

 私は突っ立ったまま、「……は、はい……」と、かろうじて声を出せた。

「では、お座りください」

 上半身だけ見えている天使が、金色のラインの入った綺麗な白い袖で、私に椅子を指し示した。私は勧められるままに、椅子へ座る。

 さっきの空間では、天使の声は響いて聞こえていた。でもここでは、直接口から聞こえてくる。なんとなく、少し安心だ。

 天使は手元の紙を見ているけど、品定めされているような気分。

 その顔がこちらに向いて、にっこりと微笑んだ。

「個人識別名称、薇字名さん——で、よろしかったですか?」

「は、はい……」

「そして、地獄から越界して戻られた悪魔——クージレイン・ヴァリス・イデアルタさんで、よろしかったですか?」

 …………?

 クージ……なに?

『クージ……なに?』

「おや? 嗚呼——無自覚・無認識の方でしたか。それは失礼を」

 天使は咳払い。

「クージレイン・ヴァリス・イデアルタ。お調べしたところ、それがあなたの中の悪魔の名前となります」

『……まじ? ボク名前あったの? ——「ジェンナ」じゃないの?』

 たぶん……そうみたい。

 わからない事が多過ぎる。

『——よしわかった。いや、なにもわからないけど。一旦、話を全部聞こう。ボクは……ボクはクージレイン・ヴァイなんとか』

「あ、あの……」

「はい?」

「な、名前……正しいのは、ど……どんな、ですか……?」

 天使はニッコリと笑う。

「名をクージレイン。真名をヴァリス。家名はイデアルタ、となっております」

 クージレイン・ヴァリス・イデアルタ、ですと。

「ま……真名、って……」

「真ん中の名前の事です。いわばミドルネーム、ですね。地獄側に一応の確認をしたところ、そういった名前の悪魔が、数年前に『越界現象えっかいげんしょう』を引き起こしたと報告がありました。多少時空のズレはございますが、近年で確認できた例が一つのみだったので、高い確率で正しいかと」

「えっ……『越界現象』……って……?」

「時空間の障壁を越えてしまう事です。特定の条件下にて、『天界』でも『人間世界』でも発生しうる現象となります」

「じゃあ……」

 ジェンナは——クージレイン・ヴァリス・イデアルタは、本当に地獄から来た悪魔?

(……一応訊くけど、知ってた?)

『まさか。ボクは生まれた時から君と一緒なんだよ? 知るわけないじゃん』

 だよね……私たちは、見てきたものも知ってきた事も、全て私の体で培った。私の記憶や経験に、『地獄﹅﹅』の事は含まれていない。

「大丈夫ですか?」

 変わらない笑顔で、天使が首を傾げた。

『オーケー。ボクはクージレイン。クージレイン・ヴァリス・イデアルタ』

 私が名付けた名前が失われるのは、少し寂しい。

『まあ……好きな名前で呼びなよ。でもボクの紹介は、クージレイン、でよろしく』

 わかった。

「だ、大丈夫……です……」

 天使の口角が上がる。

「では、個人識別名称は正しい、と。これからのお話ですが——」

 天使の前に、三枚の紙が浮く。巻かれた麻色の羊皮紙が、私の前に三枚開かれた。

 丁寧な金色の字体。書かれているのは三人の名前。

「まずは——この三人と同じ場所と時間への転移でよろしかったですか? 個人識別名称が、絲色宴、墓終結空、琴石九留見、の三人です」

「は、はい」

「転移するのは地球人で、日本人が転移する区域ですね。間違いないですか?」

「は、はい……」

 違うところに送られても困る。

「転移の時間は『天界』の現実﹅﹅と調整しますが、他のご要望はありますか?」

「あっ……いえ……」

 時間の調整? わからないです。

「もし、他の三人の誰かが『転移場所は異なっていたい』と願った場合は、転移後に希望する人数に満たない可能性があります。よろしいですか?」

「あっ……えっ……」

 それは……それは考えてなかった。

『良いじゃん。一人二人減っても、独り﹅﹅よりはマシでしょ』

 ……それはそう。

(でも、誰とも会えなかったら? 結局独りなら?)

『……それはそう。——でも、ボクがいる』

 それもそう、だと思う事にする。

「だ、大丈夫です……」

 天使が軽く手を振ると、三枚の紙は丸まって消えた。

「では。——以上で、確認は終わりです。ご起立をお願いします」

 言われた通り椅子から立つ。茶色の髪の天使さんも、カウンター越しに立ち上がる。

「少し後ろに。床の印の上に立ってください」

 振り返って足元を見ると、椅子はどこにも無かった。代わりに、床の上には一メートルほどの、六角形のガラス板のような物が嵌め込まれていた。

『こんなのあったっけ?』

 さあ?

 私は言われた通り、その図形の上に立つ。

 不安でいっぱいだったけど、不安がいっぱいいっぱいのお陰で、かえって私の足はいつもより、スムーズに動いている気がする。ジェンナ——クージレイン、の影響かもしれない。

「では、後の事はそれぞれ役所の天使にご相談下さい。もちろん、半魔の方でも大歓迎となります。どうか天国での余生が、生前よりも尊い理想となりますように」


 足元から伸び上がった光が、もう何度目か——私を包み込んだ。

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