【完結】火炎木(作品240107)
菊池昭仁
火炎木
第1話
君は火炎木を見たことがあるだろうか?
赤道直下の灼熱の太陽の下、
炎のように狂い咲く、紅の華を抱く樹木を。
ふたりの恋は「火炎木」のように激しく燃えた。
さめざめと泣く、女の涙のような長雨が続いていた。
葛城蘭子は暇を持て余し、毎年この時期になると訪れる、鎌倉の『あじさい寺』へとやって来た。
雨になると混雑する不思議な寺。
雨に濡れた紫陽花と、様々に咲く鮮やかな女傘たち。
それらがしっとりと、そして控えめに佇んでいた。
蘭子はそんな紫陽花とは対照的な、薔薇のように華やかな女だった。
可憐で美しく、いつも多くの人々を惹きつけてやまない薔薇の華。
たとえ一輪であっても絶対的な存在感を放つ薔薇。
しかもその華やかさ故、棘は鋭く、自分の内面にはけっして他人を寄せ付けようとはしない。
集団としての紫陽花の美とは対象的に、独立した薔薇の美を持つ蘭子。
そのふたつの華に共通していたのは、どちらも灰色の雨空によく似合う華だったということだ。
あじさい寺からの帰り、蘭子は久しぶりに大学時代の友人、由梨子のやっている、白い英国風のカフェに寄り、海を見ながらダージリンを飲み、アールグレイのシフォンケーキを楽しんでいた。
「雨の鎌倉もいいものでしょう? 私は真夏のごちゃごちゃとした鎌倉よりも、今のグレーな鎌倉が好き」
由梨子はティーポットにやさしく労わるように茶葉を入れると、そこに沸騰した熱いお湯を注いだ。
「いいわよねー? 鎌倉。
なんだか都心のマンションは落ち着かなくて。
東京はお買い物をするには便利な所かもしれないけど、なんだか飽きたなあ~、東京に住むのも」
「じゃあさ、引越して来れば? 鎌倉に」
「鎌倉に? そうかあ、そうすればいつもここで由梨子とお茶出来るもんね?」
「お金はちゃんと貰うわよ、商売なんだから」
蘭子と由梨子はそう言って笑った。
(鎌倉かあ、それもいいなあ、どうせ稔は仕事で忙しいし)
その夜、夫の稔はいつものように深夜に帰宅した。
しきりに何かを考えながら、私が出した軽いお茶漬けを食べていた。
「どうしたの? 何か考え事?」
「うん、どうしても新しいプロジェクトのチーム編成が上手くまとまらなくてね。
ほら、よくいるだろう? 個人の能力は高くても、集団の中ではその実力を発揮することが出来ない奴。
井沢は仕事は出来る男なんだが、リーダーとしての人望に欠けるんだよなあ」
「そうねー、結局リーダーは人望だもんね? 仕事は優秀な部下に任せちゃえばいいんだから」
「でもなあ、そろそろアイツにもいいポジションをあげたいんだよ、もうアイツもいい歳だし」
蘭子は思い切って鎌倉の話を稔に切り出してみた。
「ねえ、ここを引越さない?」
「何だよいきなり。どうして? 俺は気に入っているけどなあ、ここは便利だし眺めもいい。
会社にも近くて、東京駅や羽田にもアクセスがいいから出張にも適している。
だからここを選んだんだけどね? 鎌倉にいい物件でも見つけたのか?」
「実はね、今日、鎌倉の由梨子のカフェに寄ったら、なんだか私も鎌倉に住みたくなっちゃったの、ダメ?」
「駄目じゃないよ、鎌倉は俺もいつかは住みたい街だと思っていたからね。
でも中々ないよ、鎌倉にいい物件は」
「今回はマンションじゃなくて、1戸建にしたいの。
自分の想い通りに設計してみたいの。ねえ、いいでしょ? お願い!」
私は稔に手を合わせて懇願した。
「いいよ、蘭子が望むならそれで。問題は土地だな? 知り合いに当たってみるよ」
「ありがとう! あなた大好き!
さあこれから忙しくなるわね? お金のことはお願いね、私はお家の設計に専念するから」
「ハイハイ、期待しているよ、蘭子の作る家」
行動の早い夫は翌日、同じ経営者仲間の大村さんから建築家を紹介してもらうことになった。
三軒茶屋にアトリエを構えるその建築家は、とても不思議な男だった。
建築家というより、むしろ絵描きといった感じの男性だった。
ネルの白いシャツにチノパン、靴下は履かずに素足でデッキシューズを履き、髪の毛は天然パーマのボサボサ頭だった。
ただ、ミントの葉の浮かんだアイスティのように爽やかに澄んだ瞳をしているのが印象的だった。
「はじめまして、大村から紹介してもらいました葛城です。
とても素晴らしい建築家だと伺いました。どうぞよろしくお願いします」
その建築家は自己紹介もせず、いきなり私たち夫婦にこう言い放った。
「生き物なんですよ、家は。
その生き物と、私の生み出すその生き物と、あなたたちは暮らす覚悟がおありか?」
夫と私は顔を見合わせた。
「その覚悟がおありでなければ、他の建築家に依頼していただいた方がいい」
それが彼との初めての出会いだった。
第2話
土地は更地では見つからず、中古住宅をそのまま購入して解体し、そこに家を建てることにした。
その土地は小高い丘の上にある、海の見える素晴らしい眺望が魅力だった。
蘭子はひと目でその土地を気に入った。
建築家の大徳寺はその場所にやって来ると、目を閉じて1時間もそこに立っていた。
「大徳寺さん、何をしているんですか?」
蘭子はアシスタントの野村園子に訊ねた。
「先生はいつもああなんです。家を建築する土地の声を聴いているんだそうです。どんな家を建てて欲しいのかを」
海からの心地良い潮風。
潮騒の音が聴こえ、カモメが鳴いていた。
江ノ電の走る音、裏の林のざわめきも聞こえる。
「すばらしいところですね? ここは。
とても気に入りました」
(変な人、私の家なのに。
気に入るのはあなたじゃないわよ)
蘭子はそんな大徳寺にイラついた。
蘭子たちは由梨子の店の一角を借りて、打ち合わせをすることにした。
「全体的なイメージはモンゴメリーの『赤毛のアン』の家なんです。
緑の屋根に赤い玄関ドア、壁は白いラップサイディング。それからなるべく収納は多くして下さいね? 服も靴も沢山あって、今のマンションでも手狭なんです。それから・・・」
大徳寺は静かに由梨子の淹れてくれたオレンジ・ペコーを飲んで、私の話を無視するかのように言った。
「オーナー、あなたは紅茶の天才ブレンダーですね?
オレンジ・ペコーにほんのりと少しだけ、ダージリンを加えて深蒸ししましたね?
ここで打ち合わせをするのがとても楽しみになりました」
「ありがとうございます。先生に褒めていただいて光栄です。
いつでもいらして下さいね? こちらにおいでの際には」
「是非」
蘭子は怒りに震えた。
クライアントの私が家の希望を伝えようとしているのに、大徳寺は全く耳を貸そうとはしなかったからだ。
「ちょっと大徳寺さん、私の話、聞いてます?」
「聞いていません」
「それって失礼じゃありませんか! 私はあなたの依頼主ですよ!」
大徳寺は紅茶のティーカップをソーサーに戻した。
「聞くに堪えなかったからです。
私は house は作らない。私が作るのは「home」 なんです。
私が知りたいのは、あなたがその家で何をして暮らしたいかです。
家のディティールは建築家である私が決めることです」
「私が住みたい家を造ってくれたらそれでいいのよ! 高いお金を払って設計を依頼しているんだから!
お客さんの望む家を造ればそれでいいの!」
大徳寺はボサボサの頭を両手で梳くと、銀縁の丸メガネの位置を整えた。
「奥さん、このお店の周りの家を見て御覧なさい。
これが素人のお客さんの意見に合わせて作った家たちです。
奥さんもこういう家がお望みなら、他の建築士にでも頼めばいい。私は建築士ではなく、建築家ですから」
気まずい沈黙が流れた。
「わかりました。そんなに言うんなら大徳寺先生、あなたの言う、その建築家とやらの家の設計を見せて下さい!
話はそれからね?」
「園子、奥さんの体の寸法を測って差し上げろ」
「わかりました」
「な、何よいきなり。失礼じゃないの? 体を測るだなんて!」
「家のモジュールは、そこに住む人に合わせるべきです。ヘンな気持ちではありません。
そもそも私はあなたを異性だと思ってはいないし興味もない」
「お互い様よ!」
野村はバッグからメジャーを取り出すと、蘭子の身体を測り始めた。
「奥様、失礼します。
掌の長さ、17センチ。腕の長さ、67センチ。頭部は・・・」
そしてひと通りの採寸が終わった。
「では奥さん、身長をお聞かせ下さい」
「168センチですけど、それが家作りとどんな関係があるんですか?」
「大いにあります。フェラガモの靴もダ・ヴィンチの絵も、解剖学を参考にしています。
家もそこに暮らす人に合わせて作るべきなのです。
それが面倒なら建売でもお買いになればいい」
由梨子は面白そうに笑いながら、レアチーズにブルーベリーソースを慎重に掛けた。
チーズケーキに淫らに広がる赤紫のソース。
「では、最後に一番大切なことをお尋ねします。
その家であなたは何がしたいですか?」
あまりに唐突な大徳寺の質問に、蘭子は狼狽えた。
そんなことは考えてもみなかったからだ。
ただ鎌倉に、人に自慢出来る、お洒落な家が欲しかった。
家の建築は自分の退屈を紛らわす、ただの暇つぶしだったからだ。
(あれ? 私はどんな暮らしがしたいんだろう? 子供もいないし・・・)
「では、今度お会いする時までの宿題といたしますのでじっくりと考えてみて下さい」
「はい・・・」
蘭子はニューヨークスタイルのチーズケーキにためらうようにフォークを入れた。
第3話
蘭子はぼんやりと考えていた。
(私は新しい家で一体何がしたいんだろう?)
大徳寺の問いについての答えは、未だ見つからなかった。
家は欲しかったが、その家で何がやりたいかと言われると、具体的なことは何も浮かんでは来なかった。
素敵なキッチンでお料理をして、お洗濯にお掃除、紅茶を飲みながら大好きな小説を読んだり、音楽を聴いたり・・・。
強いて言えば「快適に暮らしたい」ということになるのだろうが、それではあの大徳寺は納得しないだろう。
いつの間にか蘭子は家づくりよりも、そんな生意気な大徳寺を凹ませてやりたいと思っていた。
(そもそもお金を出して仕事を依頼しているのはこっちなのよ。何よ、偉そうに。
たかが家じゃない)
何も答えが見つからぬまま、打ち合わせの日がやって来た。
蘭子はひとり、大徳寺の三軒茶屋のアトリエに向かった。
「どうぞこちらへ」
アシスタントの野村は打ち合わせスペースではなく、大徳寺の仕事部屋へ蘭子を案内した。
無骨なチークのドアを開けると、こちらを向いて大徳寺はイーゼルの前に座っていた。
油絵具や様々な塗料の匂い。白い漆喰の壁、床は傷だらけのオークだった。
そこには夥しい数の絵が飾られていた。
窓からの木漏れ陽が差し込んでいる。
「どうぞそこにお掛け下さい。
もう少しなんです、あともう少しなので」
「はい」
先日の不遜な態度ではなく、今日の大徳寺は紳士だった。
蘭子はロココ調の猫椅子に座った。
鋭い眼差しでカンバスに向かう大徳寺。
すでに沈黙したまま30分が経過していた。
「出来た! 葛城さん、あなたの家が今、完成しました!」
「完成しましたって、まだ何も私の要望を伝えてはいませんけど」
「どうぞこちらへ。御覧下さい、あなたの家です」
蘭子は椅子から立ち上がり、イーゼルを覗いた。
そしてその絵を見た瞬間、蘭子は稲妻に撃たれたように強烈な感動に襲われた。
「これが私の、家・・・」
森の中に沈む、急勾配の緑色の大きな屋根と白いラップサイディング、そしてビビッド・レッドの小さな玄関ドア。
蘭子が漠然と考えていた家が今、そこに描かれていた。
「ご要望は赤毛のアンの家でしたよね?」
「どうしてそれを?」
「先日、鎌倉でそうおっしゃっていたじゃないですか?」
「えっ、ちゃんと聞いていてくれたんですか?」
「奥さんはクライアントですからね? 私の大切な。
今の住宅の設計はCADでする人たちが殆どです。
簡単ですし、その方が効率もいい。
でもそれは家の全体像が決まってからです。
私は手書きに拘りたい。
その方が建物に自分の想いが強く伝わると思うからです。
魂が家に宿る。
家は私の子供たちなんです。
作家が原稿用紙に万年筆で作品を紡いでいくようにね?
まあ、作家のひとたちも今はワープロでしょうけど」
大徳寺はそう言って笑った。
「素敵ですこれ! こんな感じです! 私の夢見ていた家は!」
「そうでしたか? それは良かった」
「先生、この絵、いただいてもいいですか? もちろんお金はお支払いしますので!」
「お金は要りません、設計料に含まれていますから」
「タダでいいんですか? この油絵」
「もちろんです、デザイン画ですから。
細かい詳細はパソコンで野村がやります。
みなさん勘違いをされているのです。西洋建築はまずファサードから入ります。
つまり、家はイメージを掴むことから始まるのです。
それは音楽と同じです。
作曲家は頭の中では既に音楽が聴こえているのです。
天の音楽が。
そしてそれを具現化するために、指揮者や演奏家が理解出来るように五線紙にそれを書き写していく。
建築も同じです。私の中に浮かんだイメージを図面に起こしていくだけの作業なのです。
職人さんたちがそれを正確に造るために。
家づくりは芸術なんです。倉庫じゃありません」
「先生から出された宿題、出来ませんでした」
大徳寺は足を組んだ。
「そうですよね? 「その家で何をしたいか?」なんて訊かれても、中々思い浮かぶことではありません。
それはとてもひと言では言い表せないものだからです。
安心して下さい、まともな人は答えることが出来ませんから。
私は奥さんに考えて欲しかったのです。この家でどんな暮らしをしてみたいのかを。
だから答えは要りません。
ただ家が出来ればそれでいいのではなく、私の作る家を待ち焦がれてもらいたかった。
生まれてくる子供を待つ母親のように」
大徳寺の美しく澄んだ琥珀色の瞳の中に、蘭子はすっかり閉じ込められてしまった。
蘭子は大徳寺に家の設計を依頼して、本当に良かったと思った。
絵を包んでもらい、蘭子はその絵を強く抱き締めた。
まるで愛しい我が子を抱くように。
第4話
「その油絵、大徳寺先生が描いたの?」
「そうなの、私のイメージにピッタリ。
あの人、意外と凄い建築家だったのね?」
「だから言ったろう? 凄い建築家なんだって。
大村の話ではあの先生、東大で建築を勉強してからイタリアのベローナでメンディーニとかいう巨匠の元で、東洋人で初めてアシスタントになった人らしいよ。
しかもどんなに金を積んでも、自分が気に入った人の仕事しか受けないそうだ。
つまりランは大徳寺先生に認められたというわけだ」
「そんなに凄い先生だったのね? 知らなかったわ。
最初は宇宙人かと思っちゃった。うふふ」
「そんなことをひけらかさない彼は、本物だな?」
「何だか家づくりが楽しくなっちゃった。ありがとう、あ・な・た」
蘭子は稔に抱き付き、頬にキスをした。
「今夜はたくさんしてね? 排卵日だから」
蘭子は夫の稔の顔が曇ったのを見逃さなかった。
「ああ、今度こそ大丈夫だ。どちらにも不妊要素はないとわかったんだから」
稔は自分に言い聞かせるように言った。
「あん、あ、あっ」
蘭子は行為の最中、稔には悪いと思いながら、目を閉じて大徳寺に抱かれている自分を想像していた。
「どうした蘭子? 今日は凄く濡れているじゃないか? これならもしかするかもな?」
「お話しはいいからもっと奥まで突いて頂戴。もっと激しく、強くうっつ!」
稔はより激しく腰を動かすと、早漏ぎみの稔はそのまま妻の蘭子を置き去りにして射精してしまった。
(もー、あともう少しだったのに・・・)
蘭子は酷く落胆した。
稔が鼾を掻いて眠ってしまうと、蘭子は大徳寺の血管の浮き出た手で自分が触られることを想像し、自分で自分を慰めた。
久しぶりの強いエクスタシーに、蘭子はカラダがビクンと反応した。
蘭子は大徳寺に会える次の水曜日が待ち遠しかった。
蘭子は心の中で、大徳寺との「不倫」を楽しんでいた。
待ちに待った打ち合わせの日がやって来た。
「では、先日の外観イメージを基に、より具体的に進めて参ります。
基本的に私の家づくりはキッチンから始まります。
どこで食事を作り、食べるかです。
蘭子さん、得意なお料理は何ですか?」
「お料理は好きなので、一応ひと通りはやります」
「それは素晴らしい。
食事は大切です。生きるため、そしてもっとよく生きるために。
よい食事は人を豊かにします、幸せにしてくれます。
だから良い家には素晴らしいキッチンがあるべきなのです。
私もキッチンに立ちますが、主流の対面キッチンやシステムキッチンにはあまり興味がありません。
私の提案するのは台所ではなく、厨房なのです。
つまり、kitchenではなく、 Galley なのです。
今お持ちのキッチン道具はどんな物ですか?
それを写メで撮影して僕のスマホへメールで送って下さい。
そして使い慣れたそれらの道具がもっと喜ぶようなギャレーを考えてみましょう」
「わかりました、私も同じ意見です。
私も対面キッチンは嫌いです。そしてシステムキッチンも。
お手入れのし易い、機能的で使い易くて清潔感のある、銅鍋やグラスなどが吊るされた厨房が好きです」
「これでよくわかりました。奥さんがどれだけお料理が上手なのかが。
葛城さんのご主人が羨ましい」
「ありがとうございます。お家が完成したら完成パーティーをいたしましょう。
もちろん先生と野村さんもお呼びします。主賓として。
たくさんのお料理をご馳走しますね?」
「楽しみにしていますよ。
では、厨房機器の見学に参りましょう。
浅草の河童橋に行かれたことはありますか?」
「まだないんです、一度は訪れてみたいと思っていたんですが、中々機会がなくて」
「では来週の水曜日はいかがでしょう?」
「わかりました、大丈夫です」
「それでは上野駅のハードロックカフェの前に10時に集合ということで」
蘭子は次の河童橋見学が楽しみだった。
第5話
「凄いですね? 河童橋って。
ここに来れば飲食店の物は何でも揃うわね?」
蘭子はうれしそうにはしゃいでいた。
「僕もここへ来るとワクワクします。
殆どの女性はキッチン用品を100円ショップで購入しますが、僕はあまり好きじゃない。
キッチン用具というよりも、100円ショップその物が嫌いです。
あれだけの物を100円で売るには、最低でも70円か60円、物によってはタダ同然で仕入れる物もあるはずです。
それを東南アジアや中国、下町の町工場で買い叩かれた物が商品として売られているのです。
私は悲しい気持ちになります」
「言われてみれば確かにそうですよね? 考えてみたこともなかったけど、「どうせ100円だからいいかあ」と思っていました。
あそこに行くとつい、余計な物まで買っちゃうんですよねー、お買い物ごっこをしているみたいで」
「万物には魂が宿ると言います。
悲しみや苦しみの籠った物は持つべきではありません」
「ここに並んでいるスプーンも、100円均一の物とは全然違いますものね? これなんかニューオータニのレストランと同じスプーンだわ。1本3,800円ですって!」
「これは熟練した職人さんが、1本1本心を込めて作ったスプーンだからです。
持った感じが全然違いますよね? 手に馴染むというか。
使えば使うほど愛着が湧いて来る。
愛情を込めて作られたお料理ですからね? 3日掛けて作ったビーフカレーも、こんなスプーンで食べたいものです。
僕は思うんですよ、本当のエコロジーとは良い物を大切にすること、そして多くを持ちすぎないことだと。
収納術が話題ですが、収納するよりも物を減らすことの方がはるかに重要だと思うんです。
ヒマラヤの山岳民族は、生活道具は7アイテムしかないといいます」
「たったの7つですか?
となると食器は1つで飲食はすべてそれを使い、食事は手掴み? それから服と靴、後は帽子?
それから刃物? 後は寝るための布団みたいな物かしら?」
「確かに生活が不便になったり、不衛生になってはいけませんが、良い物を長く使うことは大事なことです。
もちろん家もです」
「なんだか見ているとみんな欲しくなっちゃいますね? うわー、このフライパン素敵。このお玉にパスタマシーン、レモンスクイーザーなんかはインテリアのオブジェみたい!」
蘭子の買い物籠はすぐに一杯になってしまった。
「野村、蘭子さんのお買いになった物を記録しておいてくれ」
「はい、先生」
野村は蘭子の買った調理道具をスマホで撮影し、それをファイルに保存した。
「先生、この調理道具も資料にするんですか?」
「もちろんです。先日、送っていただいた画像と一緒にキッチンをデザインする時の参考にします。
キッチンは観てくれだけの物ではありません。どうしたら効率良く、そして楽しくお料理や後片付けが出来るか?
それが大切なんです。
機能性はやがてデザインに進化しますから」
「母が子供の頃は薪でご飯を炊いていたそうです。
でもあれもいい物ですよね? お釜で炊いたご飯。お焦げも出来て」
「人類は利便性を追求するあまり、大切な物を失いました。
なんでも簡単にやろうとする。
私はシステムキッチンが大嫌いです。なぜ長さを2,500ミリとかにしなければならないのですか?
シンクだってふたつあった方が便利ですよね? 洗い物を浸けたり、野菜を洗ったり。
どうしてIHヒーターがいいんです? 危なくないからですか?
携帯ですら電磁波が人体に悪影響だと言われているのに、IHはむき出しの電子レンジですよ。
電子レンジの電磁波を出す装置はマグネトロンと言って、強烈なマイクロ波を発生させます。
レーダーも同じ原理ですが、とても危険な物です。
周波数が違うだけで、放射線も電磁波ですからね?
お手入れがラク?
愛情を込めてゴトクも洗ってあげましょうよ、するとキッチンも使う人を愛してくれるはずです。
だから私はキッチンも設計し、デザインするのです。
食は人を幸せにします。家づくりの原点はここから始まるのです」
「先生の作るキッチン、楽しみです!」
「ご期待下さい」
私たちはその後もたくさんの店を歩き、大徳寺はイメージを膨らませていった。
第6話
「私は工学部建築学科の出身ですが、家を設計する人間は芸術学部建築学科であるべきだと思っています。
高層ビルや大きな橋梁、トンネルやダムなどの特殊建築物と違って、住宅には複雑な構造計算は不要です。
だって見ればわかるでしょう? 頑丈かそうでないかなんて。
重要なのは人間が住むその家に、芸術性があるかどうかなのです。
極端かもしれませんが、住み心地の良い家は外観にそれが表れるものです。
そしてまた、「逆も真なり」です。
良い家はファサードを見ればわかるからです」
「なるほど、つまり先生の作る家は外観にそれが集約されていると。
だからあの素晴らしい油絵になるわけですね?
間取りもすでに完成していると?」
その日は夫の稔も打ち合わせに同席していた。
「仰る通りです。物も人も見た目なのです」
「どんな間取りになっているのか、とても楽しみです」
「日本建築と西洋建築では根本的に家屋に対する考えが異なります。
西洋建築では外観から間取りへ入っていきますが、日本建築の場合は逆に内から外へ向かいます。
洋風建築は何処から見たら一番素敵に見えるかを重視します。
ですから東洋思想のような家相や風水的な考えが存在しません。
ただしイタリア建築に関しては細かい決まりが存在するのも事実です。
特に貴族階級の屋敷となると、その作法を学ぶのに1年以上も掛かる場合もあります。
例えばキッチンのこの部材には柿の木を使うなどがあります」
「へえー、そんな決まりがあるんですか?」
「そうなんです。例えば窓もそうです。
窓はそもそも西洋では「wind-ow」つまり「風穴」なんですよ。
一方日本建築のそれは「間戸」なんです。
柱と柱の間の戸なんです。そして建物はその開口部のデザインで大きく表情が変わります。
私の作る家は高断熱高気密住宅ではありません。
なるべく機械換気には頼らず、気候の良い季節には家の中を風が気持ちよく流れるように設計します。
流体力学を応用して。
「自然との共存」、それが私の家づくりのテーマでもあります。
だから以前、私が葛城さんに申し上げた「家は生き物です」と言った理由がそこにあります。
自然と「共生」する家が」
「その生き物と私たち夫婦は共存するわけだ」
「そして完成した葛城さんの家のプランがこれになります」
大徳寺は打ち合わせテーブルの上に平面図と立面図を広げた。
稔と蘭子は感嘆のため息を漏らした。
「素晴らしい・・・」
「なんて素敵な間取りなの!」
キッチンを中心としたリビングダイニングと暖炉のあるサンルーム。
ゆったりとした玄関にはシューズ・イン・クローゼットがあった。
理想的な家事動線のある水回り。
そこには様々な角度から見た、内観パースのデッサンも添えられていた。
「それではこれをVRでご覧下さい。
野村、スタートしてくれ」
「はい先生」
アシスタントの野村はPCを操作すると、大型ビジョンにその光景が映し出された。
「玄関から入るところから参ります、よろしいですね?」
それはまるで人が三次元空間を歩いているようなリアリティのある映像だった。
蘭子は歓喜し、興奮した。
「収納もたくさんあって凄く機能的。そしてホッとするように生活に馴染むお家だわ!」
「では今後はこの図面を元に改善を繰り返す作業となります。
そこで葛城様ご夫妻の感性を刺激するために、上野の松方コレクションを一緒に鑑賞していただきたいのですが、ご都合はいかがですか?」
「申し訳ありませんが、家のことは家内に任せてありますので家内だけでも構いませんか?」
「わかりました。では奥様のご都合はいかがでしょう?」
「なるべく早い方がいいでしょうから、明日か明後日とかなら大丈夫です」
「わかりました。では明日の11時に上野の西洋美術館で待ち合わせということでよろしいでしょうか?」
「それでお願いします。上野の西洋美術館なんて何年ぶりかしら?」
「いいじゃないか? たまには芸術鑑賞も。
では先生、よろしくお願いします」
「かしこまりました」
蘭子は思った。
(野村さんが来ないといいのに。そうすれば先生と二人きりの美術館デートなのに)
後は図面が正式に出来上がれば、あの海の見える鎌倉の丘にこの建物が建つはずだった。
蘭子の思い描いた「赤毛のアンの家」が。
第7話
その日、野村は大徳寺に同行して来なかった。
「お呼び立てしてすみませんでした。この西洋美術館の中にある、「ある作品」をどうしても蘭子さんに見て欲しかったのです」
大徳寺はこの時初めて、蘭子を奥さんではなく「蘭子さん」と下の名前で呼んだ。
「どんな作品ですか?」
「これからご案内します」
蘭子と大徳寺は西洋美術館の中へと進んで行った。
「この建物は1930年頃にル・コルビュジエが設計した建物なんです。
コルビュジエは建築を実務で学んだ、美術学校の出身でした。
それゆえこのような素晴らしい「生き物」を作り上げることが出来たのだと私は思います」
「凄くシンプルですけど、安心感のある建物ですよね?
他の美術館とは違う独特な空気感があります」
「この建物は成長する建物として、『無限成長美術館』とも呼ばれています。
歳月と共に美術品は増えていきますので、収蔵場所も展示スペースも広げてゆく必要があるからです。巻貝のように。
建築だけを学んだ人間では出来ない発想です。
この西洋美術館は「19世紀ホール」という正方形の天窓のある空間を中心として、回遊空間が広がっています。
しかも絶妙な工夫により自然光を巧みに取り入れているのです。
レストランの近くにある律動ルーバーなどは、均一にルーバーを配置せず、不均等にそれを配置することで内部に入る太陽光を調節しているのです」
「そんなところにまで工夫がしてあるんですね?」
「そしてこの建物は人間工学に基づいて設計されています。
モジュロールと呼ばれる寸法基準を採用しているのです。
ヨーロッパ人の平均身長を183センチと捉え、腕を上げた時の高さを226センチとして基準を定めて設計されているので、適度なゆとり空間が演出されているのです」
「そこまで考えて設計されていたなんて、知りませんでした」
すると大徳寺はある絵の前で立ち止まった。
「蘭子さんは新約聖書にある、「サロメ」の話はご存知ですか?」
「いいえ」
「ユダヤにヘロデという王がいて、王様だった実の兄を殺し、その妃までをも奪った男です。
そしてその妃、ヘロデアの娘、つまり王女がサロメでした。
王であるヘロデはたいそうな女好きで、自分の姪であるサロメにまで欲情していたのです。
そんなヘロデを諫めた聖ヨハネは、王の怒りを買い、牢獄に監禁されてしまいます。
聖ヨハネに恋をしたサロメは、門番を唆し、ヨハネに面会して愛を伝えますが彼に拒絶されてしまいます。
するとサロメは宴で7つのヴェールの舞をヘロデ王の前で披露し、その褒美としてヨハネを斬首するようにヘロデに願い出るのです。
斬首されたヨハネの首が金の皿に乗せられてやって来ると、サロメはそのヨハネの唇にキスをする。
それを見たヘロデは激怒し、サロメをも殺害してしまうという、悲しくも残酷なお話しです」
「なんだか凄いお話しですね?」
「その話を描いたのがこのモローの『牢獄のサロメ』なのです。
聖ヨハネが繋がれていた鎖掛けの前に、深紅の薔薇の花を持って立ち尽くすサロメ。
その左奥には斬首を待つヨハネと首切り役人。
右にレンブラントの描くような光がほんのりとあるのは、ヨハネを迎えに来たイエスの光臨ではないかと思います。
これをあなたに見せたかった」
「どうしてですか?」
「蘭子さん、あなたが僕にとってのサロメだからです。
今日、あなたしかここに来ることはないということは初めから予想していました。
ご主人は家に興味がないからです。
そして私の家づくりにも。
私はあなたのためにあなたの家を設計しました。
それはあなたに僕の心が奪われてしまったからです。
それをあなたに伝えたかった」
蘭子は自分の気持ちを必死で隠し、
「私、人妻ですよ?」
と笑ってみせた。
だが、大徳寺は真剣な眼差しで蘭子を真っすぐに見詰めた。
「蘭子さんは僕の理想の女性です」
「あなたはヘロデ王? それともヨハネなの?」
「いいえ、私はサロメの色仕掛けで王の言いつけを破ってしまった門番です。
蘭子さん、僕はあなたを愛してしまいました」
蘭子は大徳寺にやさしくキスをした。
「私もあなたが好きよ。ヨハネさん」
ふたりは誰憚ることなく、モローの絵の前で強く抱き合った。
蘭子と大徳寺は、遂に開けてはいけない運命の扉を開いてしまった。
第8話
蘭子と大徳寺は獣のように愛し合った。
軋むベッド、蘭子の喘ぎ声が部屋を彷徨っていた。
ありきたりでワンパターンの夫のセックスでは味わえない、激しいエクスタシーに蘭子は幾度も気を失いかけた。
普段の物静かで知的な大徳寺からは想像も出来ないほどの超絶技巧に蘭子は翻弄され続けた。
まるで南国の甘いトロピカルフルーツにむしゃぶりつくように、大徳寺は蘭子を求めた。
そしてふたりの愛のシンフォニーは遂にクライマックスを迎えた。
「蘭子さん、僕は最高の芸術が「愛」であることを確信しました。
愛は道徳も貞淑も、そして常識をも超える存在だということを。
それをあなたが僕に教えてくれたのです」
「先生、お恥ずかしい話ですけれど私、こんなに感じたことはありませんでした。
もうクタクタ。セックスでイッた経験がありませんでした。
私は淫らな女ですね?」
「そうではありません。愛のある行為は気高いものです、孤高の行為なのです。
そして美しく、体が、脳が快楽に痺れます。
愛のある性行為は卑猥でも淫らでもありません。
愛し合うことは本能であり、人間の持つ美徳なのです。
特に日本人は性に対して閉鎖的で、汚らわしい行為だと子供の頃から教えられて育ちます。
もっと正しく性を教えるべきなのに」
「私たち、ついに扉を開けてしまいましたね?
これからどうすればいいのでしょう? 私たち・・・」
「それは私にもわかりません。
ただ理屈ではなく、僕はあなたを本気で愛してしまいました。
始めから覚悟は出来ています。どんな罰を受けようとも、僕は蘭子さんを全力でお守りします。
その事実はこれからも変わることはありません」
「大徳寺先生・・・」
再びふたりは抱き合い、何度もお互いを求め合った。
仕事を終え、稔が帰って来た。
「どうだった? 先生との美術館デートは?」
「嫌だわ、デートだなんて。ただぐるっと館内を見て回っただけよ。
別にわざわざ行くまでもなかったわ」
蘭子は嘘を吐いた。
「そうか? また何か凄いサプライズでもあったのかと思ったよ」
「さあお食事にしましょう。今日はあなたの大好きな中華三昧よ。
酢豚に天津飯、それからエビチリにシュウマイまで作っちゃったの。
たくさん食べてね、今、キンキンに冷えたビールを持って来るから」
人間は疚しい事があると、それを隠すために見せかけの愛情でそれを埋めようとする。
それが真に今の蘭子だった。
「すごいなあ、今日はごちそうだね?」
「ご馳走なのはいつもの事でしょう?」
蘭子はレードルを持ったまま、稔に 「偽りのキス」をした。
それは大徳寺との愛をカムフラージュするためのキスだった。
夜、蘭子は積極的に稔に奉仕した。
「ラン、今日はどうしたんだ? 今までそんなことしてくれたことなんかなかったのにどうした? 突然」
「いいからこのままお口に出していいから」
ジュプジュプ
稔はすぐに果ててしまった。
「うっ、ごめん、ラン」
蘭子はそれを咥えたまま頷き、稔が蘭子の口内にそれを放出するとそれを飲み干した。
精液が出し尽くされても、稔のペニスは蘭子の口の中で脈打っていた。
それは今日の大徳寺との不貞を犯した自分に対する、自分に課した罰であり、償いだった。
(会いたい、先生に会いたい)
蘭子はバスルームで熱いシャワーを浴び、何度も口を漱ぎ、大徳寺に触れられたところを指でなぞった。
蘭子のカラダは再び熱くなり、下腹部が濡れ始めた。
第9話
蘭子と大徳寺は家の打ち合わせをしながら、週2回の逢瀬を楽しんでいた。
「本当は毎日でも会いたいくらい。いつもあなたの事ばかり考えているのよ」
「僕も同じです。蘭子さんのことは5分に一度は想っています」
「5分に一度じゃイヤ。常に想っていてちょうだい、私のことをいつも。
私のことだけを考えていて欲しいの、お願い」
「わかりました。蘭子さんのことだけを考えます」
今日はアシスタントの野村園子が休みの日だった。ふたりは三軒茶屋のアトリエにいた。
蘭子の肖像画を描くために。
「では蘭子さん、お願いします」
「綺麗に描いてね?」
蘭子は大徳寺に背を向け、服を脱ぎ始めた。
ニットのグレーのワンピースを脱ぎ、ブラを外すと蘭子は恥ずかしそうに胸を手で押えて振り返った。
「美しい。なんて美しいんだ・・・」
蘭子が胸から両手を離すと白いショーツも脱ぎ、全裸になった。
「そこの椅子に掛けて下さい」
大徳寺はやさしく蘭子にキスをし、蘭子の顔の向きや足と手の位置を入念に調整した。
「目線は窓の方にお願いします。では全力で描きます、僕の最高傑作にしてみせます。
蘭子さんを、美しい蘭子さんを僕の絵の中に留めておきたい。永遠に。
動画といった下劣で下品な物ではなく、永遠の美として後世に蘭子さんを残したいのです。
手は口元に。
そうです、そして少し顎を上げて下さい。
すばらしい、すばらしいですよ蘭子さん!」
窓から差し込む陽射しが、蘭子の博多人形のような肌を照らし、栗色の巻き毛が光に解けた。
大徳寺は黙々とデッサンを描き続けた。
一心不乱に目をギラつかせ、カンバスに向かった。
「素晴らしい! なんて美しいんだ!」
「先生、ちょっとお手洗に行きたいんですけど」
「すみませんでした。つい夢中になってしまいました。
では少し休憩にいたしましょう」
トイレから戻った蘭子に、大徳寺は新しいスモッグを渡した。
「よろしければ、これを羽織っていてください、今、飲み物を持って来ます。
ルイボスティーでもよろしいですか?」
「ありがとう、先生」
蘭子が大徳寺を「先生」と呼ぶには理由があった。
それは夫や野村の前で、無意識のうちに大徳寺を下の名前で呼ばないようにするためだった。
そしてもうひとつ。それはバージンを捧げた高校の美術教師、園部のことをそう呼んでいたからだった。
別に今でも園部のことが気になっているわけではなく、恋愛の対象が先生と生徒という「禁断の関係」に憧れがあったからだ。
そして今、不倫という恋に「先生」というさらなるスパイスが加えられた。
蘭子は大徳寺に抱かれている時、「先生」とよく連呼していた。
「不思議な気分ですよ、建築家なのに画家になった気分です。
建築画や静物画は描きますが、女性のヌードを描くのは初めてです」
「先生は何処で絵の勉強をしたの?」
蘭子の赤いルージュが、ルイボスティのグラスに付いた。
「子供の頃からずっと絵を描くのが好きでした。
高校の時は美術部で、それなりに描いていましたが、本当は藝大に進みたかった。ですが大学で経済学を教えていた父の反対で、第二志望の建築に進むことにしました。
でもようやく夢が叶いました。
美しい女性を描くことが。
ありがとう、蘭子さん」
「そうだったの?
それではまた、続きを始めましょうか? 先生の芸術作品のために」
「お願いします」
蘭子はスモッグを脱ぎ捨て、ふたたびポーズを取った。
すると突然、アトリエのドアが開いた。
野村だった。
「先生、忘れ物があり・・・」
野村と蘭子は目をそらした。
「ノックくらいしたまえ! 僕たちは今、美の創造の最中なんだ! 馬鹿者!
葛城夫人に謝りたまえ!」
「失礼しました、邪魔をしてしまい・・・」
「いいから早く用事を済ませて出て行きなさい」
「はい・・・」
野村は何も取らずにそのままドアを閉め、アトリエを出て行った。
いつも冷静な野村も、さすがに驚いていた様子だった。
だが野村の目には嫉妬の炎のゆらめきがあった。
「安心して下さい、野村は軽率なことはしません。このことを他人に口外することはありませんから」
大徳寺は何事も無かったかのように、そのままコンテを握り、描き続けた。
「野村さん、かなり驚いたでしょうね?」
「彼女は僕の信者ですから驚きはしません。ただ・・・」
「ただ?」
「おそらく彼女はあなたに本気で恋をした可能性は否めません。
彼女はレズビアンなのです。
彼女に蘭子さんを盗られないか、それだけが心配です」
「野村さんが同性愛者?」
確かに彼女はいつもパンツルックでボーイッシュだったが、女性が好きだとは思わなかった。
野村は大徳寺のゼミの後輩だった。
「彼女は僕のアシスタントではありますが、素晴らしい才能を持った建築家です。
女性建築家として独立してもいいと言っているのですが、まだここに居てくれています。
優秀な弟子なので、私は助かっていますけどね」
そう言って、淡々と描き続ける大徳寺に、芸術家とはそんなものかと蘭子は思った。
「今日はここまでにいたしましょう。
近くに美味しいイタリアンの店がありますから、ご案内します。
ジェノバで修業した、僕の友人の店です」
蘭子と大徳寺はアトリエを出た。
『クッチーナ』というそのビストロは、イタリアの下町にあるような漆喰の壁と古木で作られた、シンプルなお店だった。
「いらっしゃい、今日はすごい美人と一緒じゃないか大徳寺? どこの女優さんだい?」
「蘭子さんだ、美しい人だろう? 女優よりも美しい女性だ」
「やめて下さいよ、恥ずかしい。
こんにちは、葛城です。素敵なお店ですね?」
「いい店でしょう? 大徳寺が設計してくれたんですよ、とても気に入っています。
こいつは天才ですよ。
イタリアに居た時、わざわざジェノバの僕の修業先までパスタを食いに来ていたヘンな奴です」
「この通り口は悪いがこいつの料理は最高です」
「まあな? 天才シェフに天才建築家、いい取り合わせでしょう? 蘭子さん?」
「ええ、とても」
三人はイタリア人のように陽気に笑った。
料理が運ばれて来て蘭子は驚いた。
夫に連れられて、よく都内の一流といわれるイタリアンも食べたが、ここのイタリアンは別格だった。
一言で言えば「客に媚びない料理」だった。
食材の違いもあるが、すべてにおいてイタリアの伝統に基づく彼のオリジナリティが存在していた。
「どうです? 旨いでしょ?
アイツはイタリアンの巨匠です。
実はここはアイツの隠れ家なんですよ。
本店は銀座にあり、会員制になっていて、各界の著名人の御用達なんです。
でも彼は言うんですよ、「皿の前ではみんな平等だ」ってね? 矛盾しているでしょう?
いつもは行列なんですけど、今日は定休日なんです。
私たちのために特別に開けてくれました。蘭子さんと僕の貸し切りです。
どうしても蘭子さんに彼の料理をご馳走してあげたくて」
「すばらしいお料理です。都内の気取ったイタリアンのレベルをはるかに超えています」
夕暮れの街の静かなレストラン。
蘭子は幻想の世界にいるような気分だった。
第10話
蘭子の肖像画がようやく完成した。
大徳寺は最後の筆を入れ終えると、満足気にタバコに火を点けた。
最高の出来だった。
美しい裸体の蘭子が窓の外を憂いのある深い瞳で見詰めている、写実感のある油絵だった。
「蘭子さん・・・」
大徳寺はタバコを吸い終えると、絵に署名をし、カンバスに白布を掛けた。
「出掛けてくる」
「お気をつけて」
野村も大徳寺も、先日の話は一切しなかった。
野村は大徳寺が出掛けるとアトリエに入いり、白布を静かに取り、その場から動けなくなってしまった。
「なんて綺麗なの! この蘭子さんの表情。
すばらしい! 美とはその滅びゆく
これこそまさに「滅びの美学」だわ!
壊したい、この絵に永遠の価値を与えるために、壊したい。蘭子さん自身をも!
いえ、壊すべきなのよ! この美を永遠の物にするために!
老婆になってゆく蘭子さんなんて見たくはないもの!
死は時間の停止なのよ! 蘭子さんは死ぬべきなのよ!」
野村は早速、蘭子に電話を掛けた。
「葛城さんの奥様ですか? 大徳寺の助手の野村です。
先日の絵のことでお話ししたいことがあります。
会っていただけませんか?」
蘭子は一瞬躊躇ったが、それを承諾した。
「わかりました。では今日の午後3時、汐留のロイヤルパークホテルのラウンジで」
「かしこまりました」
野村は電話を切ると、蘭子の絵の前で自慰行為を始めた。
「蘭子、さ・・・ん、あなたが・・・、欲し、い・・・」
野村は恍惚となっていった。
ラウンジにはすでに野村が到着していた。
「ごめんなさい、遅れてしまって」
蘭子はいかにもセレブらしい、コンサバティブなファッションで現れた。
「すみません、お忙しいところを突然に。
今日のことは大徳寺には内緒でお願いします」
「もちろんよ、野村さんは口が堅い人なんでしょう?
私も同じ。
ここのケーキ、美味しいのよ、いかが?」
野村の女のそこはすでに潤んでいた。
ふたりはケーキを無言で食べていた。
「ところでお話しってなあに?」
「奥様の絵が完成したようです」
「そう、きれいに描かれていた? 私の裸、うふっ」
「すばらしい作品です。まるで奥様が絵の中に閉じ込められてしまったかのように。
私、大学で美学を専攻しておりました。
心が震えました。奥様の美しさに」
「そんな大袈裟な。あはははは」
蘭子は笑って珈琲を口にした。
「ご覧になればわかることです。
今日、参りましたのは、私の性癖のことです。
私は女性が好きなのです。レズビアンなのです」
蘭子はそれを大徳寺から聞いてはいたが、知らないふりをした。
「そう? いつから?」
「幼い頃からです」
「それで? まさか私としたいなんて言わないでしょうね? ダメよ私、男性が好きだから」
「それは残念です。女同士の性愛を知らないなんて。
一度でいいんです、お願いです、私の蘭子さんへの愛を伝えさせて下さい」
「ごめんなさい。悪い気はしないけど、私はノーマルなの、あなたのご希望には添えないわ」
すると野村は挑むような眼差しで蘭子にこう言った。
「では、先日のことをご主人にお話しするまでです」
「本気なの? そこまでして私を抱きたい?」
「いえ、どちらかといえば抱かれたい。
お願いします、一度だけ、一度だけでいいんです、私の望みを叶えて下さい」
野村は蘭子に頭を下げた。
「いいわ、じゃあ約束して、一度だけだと。
そもそも私は女性としたことがないから、ご期待に応えられるかどうか、わからないわよ?」
「結構です、後はすべて忘れますから」
「あなたを信じるしかなさそうね?
野村さんだけには言うわね、私、主人とは別れるつもりなの。
だから本当はあなたが主人に話そうが話すまいが、そんなことはどうでもいいの。
私と彼は覚悟を決めたのよ。
あなたの要求に応じるのは、あなたが主人に黙っていてくれたお礼。
だから脅迫しなくてもいいわよ」
そう言って蘭子は笑った。
「ありがとうございます。
部屋を取りましたので、よろしくお願いします」
高層ビルに囲まれたスカイラウンジに、夕暮れの疲れ果てた陽射しが傾いていた。
ふたりは部屋へと向かった。
第11話
「どうすればいいの?」
野村は蘭子の両耳を両手で塞ぎ、蘭子の口の中に舌を入れて来た。
外部の音は遮断され、耳の奥で野村に差し込まれた舌の淫らな音が響く。
男のキスとは明らかに違う野村の緻密なキス。
蘭子の小さな乳首を、野村は服の上からでもピンポイントにそれを捉えにかかる。
私の服をやさしく脱がしながら、自分も服を脱ぎ捨ててゆく野村。
そして野村の背中を見た時、蘭子は軽く声を上げ、口を両手で押えてしまった。
「私には翼があるのです。自由に羽ばたけるこの翼が」
野村の背中には翼のタトゥーが彫られていた。
「いつこれを背中に?」
「高校生の時です。当時、お付き合いしていた女性から勧められました。
「園ちゃん、人間はね? 昔、大空を飛んでいたのよ。
だから私たちもくだらない常識から自由に飛び立ちましょう」と言われ、私も背中に翼を彫りました。
お互いの愛の証として」
野村はスマホで小野リサのボサノバを流し始めた。
リサの少し掠れた声が甘美に部屋に広がった。
蘭子は全裸にされた。
「シャワーを浴びてくるわね?」
「その必要はありません」
野村は蘭子の敏感な蕾に触れ、絶妙な指使いでそこを攻めて来る。
女でしか知りえない急所を確実に。
「あっ、はっ・・・」
蘭子の声が漏れた時、野村が言った。
「なんだか喉が渇きましたね? ビール、飲みませんか?」
「ええ、そうね」
アルコールが入った方が、よりリラックス出来ると蘭子は思った。
野村は冷蔵庫からビールを取り出すと、冷えたグラスにそれを注ぎ始めた。
「乾杯しましょう」
「何のために?」
「蘭子さんの、美に」
蘭子は一気にグラスを呷った。
そしてそれからの記憶が蘭子から消えた。
野村は蘭子のグラスに、予め強力な睡眠薬を入れていたのだ。
「私だけの蘭子さん・・・」
野村は眠った蘭子のカラダを屍姦するかのように隅々まで舐め、キスをし、愛撫した。
そして自分の敏感な部分を開き、果てしない絶頂に何度も昇天した。
野村はバッグからアラビアのナイフ、ジャンビーヤを取り出し、その切っ先を蘭子の心臓に当てた。
乳房からスーッと、赤い糸のように血が流れた。
「なんて綺麗なの。これ以上の美を私は見たことがない・・・」
野村は両手でジャンビーヤを自分の頭の上に構えると、蘭子の心臓に狙いを定めた。
そしてそれを振り降ろそうとした時、蘭子の閉じた瞼から涙が零れた。
野村はナイフを床に捨て、蘭子に頬擦りをして泣いた。
「この美を・・・、とても私には壊すことは出来ない!」
野村はそう言って泣き叫んだ。
やがて蘭子が目を覚ました。
「ごめんなさい、私、寝ちゃっていたみたい」
「とても美しい寝顔でしたよ。
ありがとうございました。ご自宅までお送りいたします」
「シャワーを浴びましょうか?」
「はい・・・」
翌日、野村は大徳寺の事務所を辞めた。
大徳寺は彼女を引き留めようとはしなかったという。
ようやくプランも決まり、確認申請も下りたので地鎮祭を迎えることになった。
すばらしい秋晴れだった。
夫の稔が大徳寺に言った。
「先生、ありがとうございます。
いよいよ始まりますね? 先生の作品制作が」
「もちろん私の大切な作品ですが、これは葛城さんの家です。
私はその作曲をしたまでです」
この時大徳寺は、「葛城さんの家」と言った。
「葛城さんご夫妻の家」とは言わずに。
「楽しみですよ、この家の完成が。
蘭子、君の理想の家が出来上がるんだね? ご苦労様」
蘭子はそれには応えず、
「あなた、みなさんを由梨子のお店に。由梨子がご馳走を準備して待っているから」
「ああそうだね? それじゃあみなさん、ご移動をお願いします。ちょっとした祝宴の席をご用意させていただきましたので。神主様もぜひどうぞ」
この家が完成した時、その時が稔と蘭子の別れの日だった。
第12話
いつものように、ふたりはお互いの愛を確かめ合っていた。
昼間のセックスと飲酒がデカダンスとして、より一層その行為を甘美なものにしていた。
蘭子は大徳寺に寄り添い、彼の胸に手を置いた。
「今、すごくしあわせ。生きている実感があるの。
あの人との生活は経済的には恵まれてはいるけど、いつも何か物足りない気がしていたわ。
あなたとこうしていると、それがよく分かるの。
「人はパンのみで生きるものにあらず」ってことなのかしら? 私たち夫婦には本当の愛は無かったのかもしれない。
背徳感がないのは、たぶんそのせいなのかもしれない。
お掃除にお洗濯、お料理、そして子作りのための義務的なセックス。
でもそれは彼のためにするものではなく、私はそれが妻としての務めだと思っていた。
つまりそれには「何のために?」という目的意識はあっても、「誰のために?」という絶対的な愛は存在してはいなかった。
男と女が生きていく上で大切なこと、それは打算的な暮らしではなく、「愛のある暮らし」だったのね?」
「普通は恋愛の延長線上にあるのが結婚というゴールだと考えますが、それは正しくはありません。
結婚をゴールに考えてはいけない。結婚はスタートなのです、すべての始まりなのです。
特に女性の場合は結婚イコール安定的な生活と捉えることが多いかもしれません。
そこに「守って欲しい」という思いがあるのなら、そこで結婚は再考するべきなのです。
それはまだ恋のままだからです。
信号はまだ赤なのです。青になってはいない。
青にならなければ結婚はスタートしてはいけないのです。
つまり、「してもらいたい」ではなく、「してあげたい」という想いになった時、恋愛信号が青に変わる時ではないでしょうか?
殆どの結婚生活の失敗、もしくは事実上の破綻は、周りの幸福との比較にあります。
知り合いがどんどん結婚し、しあわせそうに見えてしまう。
すると無意識のうちに愛のない、憧れだけの家庭を作ろうとしてしまう。
「あれがない、これが足りない」と。
でもそこに愛があれば、お互いにその不足を補うことが出来る。それが足りないとすら感じなくなるのではないでしょうか?
僕は蘭子さんが傍にいてくれるだけで何も望む物はありません。
それを教えてくれたのは蘭子さん、あなたです」
「私と彼との生活にはそれがなかったのね?
そろそろ結婚しようかと考えていた時、結婚相手の条件として彼が妥当だったから安易に結婚をしてしまった。
セックスも同じ。 「抱かれてもいい」ではなく、「抱かれたい」じゃないと駄目。
いえ「抱いてあげたい」、かしら?
つまり、私の周りには自分を捨ててまで愛せる男性がいなかったのかもしれない」
「人生にやり直しは出来ないという人もいますが、僕はそうは思いません。
人生はやり直すのではなく、そして勝ち負けでもありません。
人生は学びなのです。
未来に絶望し、過去を悔やみ、現在を否定的に生きることは愚かなことです。
過去は既に終わったことなのです。
必要なのは未来を変える勇気です。
人生を諦めてはいけません。私たちはしあわせになるために生まれて来たのですから」
「私は未来を変えるわ、たとえどんな障害があろうとも、そしてどんなダメージを、罰を受けようとも」
「これからアトリエに寄ってくれませんか? 蘭子さんの絵がようやく完成しました」
「楽しみだわ、私の絵」
蘭子はすでに野村から絵の完成を知らされていたので、期待は更に高まった。
「では行きましょうか?」
蘭子たちは大徳寺のアトリエへと向かった。
アトリエのイーゼルには白布に赤いリボンが掛けてあった。
「どうぞ蘭子さん、除幕して下さい」
蘭子はリボンを解き、ゆっくりと白布を外した。
「これが私・・・」
蘭子はその絵の迫力に圧倒され、動くことが出来なかった。
止めどなく涙が溢れて来る。
白い肌の温もりが伝わるような光と陰影。
そして不安と希望の混在する表情。
蘭子の心の奥底までもが完全に描き尽くされていた。
蘭子の魂のすべてがこの絵の中に閉じ込められたような油絵だった。
一本一本、詳細に描かれた髪が窓からの光を浴び、かすかに動いているかのようにさえ見える。
「いかがですか? 気に入っていただけましたか?」
「出来ることなら新しい家にこの絵を飾りたい、このすばらしい先生の描いてくれた私の絵を」
「蘭子さん、私はあの家をご主人から買い取るつもりです。
そしてこの絵をあの家に飾りましょう。
僕たちの永遠の愛の証として」
蘭子と大徳寺は絵の前でいつまでも強く抱き合って泣いた。
第13話
「ねえあなた、大学時代のお友だちに温泉に誘われたんだけど、行ってもいいかしら?」
「由梨子ちゃんもかい?」
「由梨子はお店があるからパスだって」
由梨子には予めアリバイを頼んでおいた。
「ねえ由梨子、ちょっとお願いがあるんだけどさあ」
「またアリバイ工作? ランは本当に好きだよね?
あのモジャモジャさんのことが」
「今回はお泊りなんだ」
「いいけど、いつかはバレるわよ」
「その時はその時よ」
「社長夫人の座を捨ててもいいの?」
「由梨子に譲ってもいいわよ。社長夫人の座」
「イヤよ、ランのお下がりなんて」
私と由梨子はそんな遣り取りをしていたのだ。
「構わないけど、家の建築の方は大丈夫なのか?」
「それは安心して。そっちの方は先生に任せてあるから」
「そうか、ならどうぞ。たまにはのんびりしておいで。
どこへ行くの?」
「裏磐梯。あなたも一緒に来れるといいんだけど、女子会だからごめんなさいね」
蘭子は夫が「俺も行こうかな?」という言葉に先手を打った。
「遠慮しておくよ、蘭子の友だちは強力な女の子が多いからな?」
「まあ失礼ね? 言いつけちゃうから! うふっ」
それは大徳寺の設計したリゾート・ホテルへの不倫旅行だった。
アスファルトとコンクリートの東京を離れ、蘭子と大徳寺はクルマで東北自動車道を走っていた。
迫りくる山々、深い緑の中にふたりは吸い込まれていった。
標高の高い裏磐梯は、まるで厚手のセーターを纏ったように、すでに紅葉が始まっていた。
大徳寺の設計したホテルは、森に抱かれた湖の畔にあった。
「ここが私の作品です」
そのホテルは三階建の鉄筋コンクリート構造で、左右に翼を広げたような造りになっていた。
ホテルの入り口で支配人たちが蘭子たちを出迎えてくれた。
「大徳寺先生、お久ぶりでございます。
このホテルも年を重ねる度に風格が出てまいりました」
「それはよかったですね?
このホテルは僕の思い出の作品ですから」
「さあどうぞ、お部屋の方へご案内いたします。
奥様もこちらへどうぞ」
奥様というその響きが蘭子を心地良くさせた。
蘭子は軽く会釈をした。
支配人とベルボーイが客室へと私たちを案内してくれた。
「お夕食は19時から館内のレストランにご用意させていただきます。
何か御用がございましたらいつでもお呼び下さい。
ではごゆっくり。失礼いたします」
部屋の窓からは雄大な裏磐梯の景色が広がり、湖には色とりどりの紅葉が映っていた。
「すごく素敵なホテルね? まるで森の中に抱かれているみたい」
「ここのホテルのコンセプトは「森に沈むホテル」なんです。
蘭子さんに気に入って貰えて良かった」
蘭子と大徳寺は熱い抱擁をし、口づけを交わした。
「夕食まで時間があるので、少しこの近くを散歩しませんか? この素晴らしい紅葉の中を」
「私、あのボートに乗ってみたい」
「そうしましょう、より紅葉を楽しむことが出来ると思います」
ふたりは湖のボートに乗った。
蘭子を乗せた大徳寺の漕ぐボートは、静かに湖面にさざ波を作り、水鳥のように優雅に進んで行った。
湖の中央まで来ると、大徳寺はオールを漕ぐのを止め、ipodを取出すと、一方のイヤホンを自分に、そしてもう片方を蘭子に渡した。
大徳寺がスイッチを入れると、イブモンタンの歌う『枯葉』がイヤホンから聴こえて来た。
赤や黄色、茶色や灰色に彩られた森が、一斉に歌い出したように思えた。
そして大徳寺は自分のイヤホンも蘭子に渡すと、再びオールを漕ぎ始めた。
蘭子と大徳寺は互いに見詰め合い、涙した。
それは感動の秋への涙だった。
ディナーを終え、蘭子と大徳寺は大浴場へと向かった。
大きな露天風呂を秋風が吹き抜けて行く。
蘭子は温泉の中で伸びをした。
部屋に戻り、ふたりが熱く淫らな夜を過ごしていると、突然、蘭子の携帯が鳴った。
夫の稔からだった。
「夫からだわ」
「どうぞ出て下さい」
蘭子は躊躇いを払拭して電話に出た。
「もしもし」
「ラン、温泉はどうだい?
ちょっと静かだけど、どうかしたの?」
「今、みんな売店でお買い物をしているから私ひとりなの。
なんだか疲れたから先に休むことにしたの」
「そうか、大丈夫か?」
「うん、久しぶりに遠出をして疲れただけだから」
「なんだか声も掠れているようだけど? まさか男が隣に寝てたりして? それはないか? あはははは
明日は帰って来るんだよね?」
「もちろんよ、じゃあ明日は早いから寝るね?
おやすみなさい」
「おやすみ、ラン」
蘭子は携帯を切ったが、夫からの電話ですっかり気分が醒めてしまった。
隣で話を聞いていた大徳寺は、蘭子を優しく抱き寄せると、
「辛い嘘を吐かせてしまいましたね?」
「仕方ないわ、覚悟の上だもの。
それでも私は先生が好き。もっと強く抱いて、私の心が離れないように」
大徳寺はその腕に力を込めた。
燃える秋のような抱擁が続いた。
ふたりの愛は、もう後戻りが出来なくなるところまで来ていた。
蘭子の喘ぎを打ち消すかのように、山の風音も次第に強くなって行った。
第14話
「ただいまー。あー疲れたー、これお土産。
福島だからお酒を買って来たの、ハイどうぞ」
地酒の瓶を受け取った稔が、ラベルを見て言った。
「旨そうだなあー、一緒に飲もうか?
蘭子、大学時代の友だちって誰?」
すると蘭子は突然怒り出した。
「何それ? 私が男と浮気でもして来たと疑っているの!
冗談じゃないわ!」
蘭子はそのまま脱衣室へ行き、服を脱いで熱いシャワーを浴びた。
迂闊だった。
私の行動に関心のない夫が、まさか裏を取るとは考えもしなかったからだ。
バスタオルで髪を拭き、パジャマのままリビングへ出た。
「ラン、さっきはゴメン。別に他意はないんだ。
増してや君を疑った訳じゃない。
折角気分良く帰って来たのに水を差すようなことを言ってすまなかった」
「ごめんなさい。私も急に生理になったからイライラしてしまって。
旅行のメンバーは静代と遥、そしてゴッチよ」
「そうだったのか? そうだ、博多の友人から送ってもらった明太子があったよね? それを肴にランの土産の酒を飲もうよ」
「うん、じゃあ少し待っててね? ブローして来るから」
蘭子は洗面所で髪にドライヤーを当てながら安堵していた。
いずれ分かることだとしても、家が完成するまでは大徳寺とのことは隠しておきたかった。
稔は都内のホテルで女を抱いていた。
「ダメ、そこ弱いの・・・」
「弱いから攻めるんじゃないか? ほらほら、どうだ? もっとこうしちゃおうかな?」
稔は女の濡れた陰核を、少し強く押した。
「あうっ、いい、もっと強く、して・・・」
稔はそこを円を描くように押した。
女は歓喜し、やがてぐったりとなった。
稔は体を離すと、女に甘いキスをした。
「もう、稔さんの意地悪。私ばっかりいかせて・・・」
「俺は女房よりやさしいよ。
アイツは「やさしい悪魔」だからね?」
「そうね? 蘭子は悪魔ね? 何でも自分の思い通りにしたい悪魔。
どうして稔さんは蘭子なんかと結婚したの?」
「他人に見せびらかすのに丁度いい、アクセサリーみたいな女だと思ったからだよ。
男にとって女はクルマや時計と同じ、ステイタスの象徴さ。
持っている、付き合っているということを周囲に見せつけることで男の価値は上がるのさ」
「そしてそんな男の見栄や欲望を、母性を持って女は満たしてあげるというわけね?」
「そう、その報酬として男は女の我儘や贅沢を容認する。
僕は結婚に夢なんか持っちゃいない。
結婚は契約なんだよ、愛なんて必要はないんだ。
愛はこうして君と語り合い、求め合うものだからね?
結婚と恋愛は別なんだよ」
「稔さん、私は勝ったのね? あの蘭子の安っぽい愛に」
「そうだよ、君は蘭子に勝ったんだ。僕は君、由梨子だけのものだよ」
「うれしいわ、稔さん」
蘭子の親友、あの鎌倉のカフェのオーナー、由梨子と稔はいつの間にか男女の関係になっていた。
「あともう少しだ、あともう少しで僕は蘭子を地獄に突き落としてやれる。
もちろんあのエロ建築家も一緒にだ」
「楽しみだわ、驚き泣きわめく蘭子を見るのが。
その時は私も同席させてね」
「もちろんだよ、由梨子」
稔は由梨子を抱き締めた。
「由梨子、今度は僕に奉仕してくれ」
「たっぷりご奉仕してあげるから覚悟してね?」
さっきの行為が再開された。
蘭子は稔と由梨子が、まさかそんなことになっているとは知る由もなかった。
第15話
大徳寺はひとり、葛城邸の最終確認にやって来た。
すでに足場は外され、美しい貴婦人のような外観が現れていた。
玄関を開けた瞬間、とてもいい木の香りがした。
ビニールクロスや化学処理が施された建材は極力排除した。
リビングに入り、大徳寺は目を閉じた。
それは家の声を聴くために行う、大徳寺のいつもの最終儀式だった。
大徳寺の頭の中で、小坂明子の『あなた』が聴こえていた。
もしも私が 家を建てたなら
小さな家を 建てたでしょう
大きな窓と 小さなドアと
部屋には古い 暖炉があるのよ・・・
これが大徳寺の理想の家だった。
ただ豪華、ただ広い、そんな家ではなく、家族の愛を育み、優しく包み込む家。
そんな愛に溢れた家が本当の家だと彼は思っていた。
そしてこの家は蘭子と自分の家なんだと。
(あの絵をこの家に飾るのだ。
この家はあの絵を飾るために建てた、美術館でもあるのだから)
生きることすべてが愛なんだ。
愛こそがすべて。
何ものにも代え難い、誰も侵すことが出来ない穢れなき純粋な愛。
そこに後悔はない。
汝を愛せよ
吹き抜けの空間を天使たちが戯れているようだった。
「先生、やっと完成したのですね? この家が」
大徳寺の事務所を辞めた、野村園子が立っていた。
「ああ、出来たよ、僕と蘭子さんの家がね?」
「すばらしい家です。
毎日ここにやって来て、家が出来上がっていく様を見ておりました。
先生が蘭子さんのために作ったこの傑作を。
そしてあの絵も、ここに飾られるおつもりですね?」
「そのためにこの家を建てたような物だからね?」
「私は蘭子さんを「永遠」にすることが出来ませんでした」
「永遠? 園子、そんなものはこの世には存在しないんだよ。
たとえ君が彼女を殺して美を封印しようとも、それは無理だ。
この悠久の時の流れに逆らうことは出来ない。
あの絵もいつかは朽ち果ててしまう。
私たちの記憶と共に。
僕は思うんだよ、大切なのは記憶ではなく、愛した事実なのだと」
「愛した事実?」
「そうだ、君も僕も蘭子さんを愛した。
その事実があれば、たとえ人々から忘れ去られようと、語り継がれることがなくなろうと、それはどうでもいいことなんだよ。
美とは閉じ込めることではなく、消えてゆくことこそが「美」なのだから」
野村は泣いた。
「園子、いい建築家になれ」
「はい、先生。ありがとうございます」
雨が降って来た。
久しぶりの鎌倉の雨だった。
最終話
それぞれの想いを秘めて、ついに鎌倉の家が完成した。
稔と蘭子、由梨子は溜息を吐いた。
「すばらしい! 正に芸術品と呼ぶにふさわしい家だ!」
稔が言った。
大徳寺、園子、稔、蘭子、そして由梨子の5人が集い、家の前に立っていた。
その日は5人の心模様のように、雪がちらつく灰色の肌寒い天気だった。
「寒いので中に入りましょう」
大徳寺に促され、みんなは家の中に入って行った。
家の中では暖炉が焚かれ、林檎を剪定した薪の燃える、甘い香りが漂っていた。
樅の木の床に漆喰の壁、開放感のある吹き抜け。
大きな窓からは鎌倉の海が見えていた。
大徳寺がコンポのスイッチを入れた。
シカゴ・シンフォニー・オーケストラ
バーンスタイン指揮
ショスタコーヴィッチ『交響曲第7番・ハ長調作品60』
室内に響き渡る深い荘厳な調べ。
完璧に計算され尽くした音響効果を披露してみせた。
「この曲はショスタコーヴィッチがレーニンのために書いた交響曲だと言われています。
ファシズムからの脱却と革命の成功。
その後の現実はみなさんご存知の通りです」
大徳寺は音楽を止めた。
暖炉の前で揺らめく炎を見詰める5人、静寂の時が流れた。
誰が話始めるのかと、それぞれが牽制していた。
そして遂に稔がその沈黙を破った。
「大徳寺さん、この感動をどう表現してお伝えするべきか、私にはその言葉が見つかりません。
あなたにこの家をお願いして本当に良かった」
「ありがとうございます。
葛城さん、そこでお願いがあります。
この家を私に譲っていただきたいのです」
「すみません大徳寺さん。僕はアメリカン・ジョークに不慣れなもので、こんな時、アメリカ人ならどう切り返すべきなのでしょうか?」
「冗談ではありません。私は本気でお願いしているのです。
葛城さんお願いです、どうかこの家を私にお譲り下さい」
「一体どうしたんです? いきなり。
いくら自分の作った作品に愛着があるとは言え、それはあまりにおかしな話だ。無礼にもほどがある。
この家は私の頼んだ私の家だ!」
再び気まずい静けさが訪れ、薪のパチパチと燃える音がサロンに響いていた。
「それは出来ませんね」
由梨子が稔に寄り添い、彼の身体に頬を寄せ、稔の右手を握ってそう言った。
驚愕する大徳寺と蘭子、そしてそれをまるで予想していたかのように平然とした園子がいた。
「この家で私と稔さんが暮らすの。不貞な妻、蘭子ではなくね?
ごめんね蘭子、そういうことなの。
私と稔さんは愛し合っているのよ、だからこの家は誰にも譲れないわ」
「どうして・・・」
「どうして? これは私の蘭子への復讐と、稔さんのあなたへの愛情が消えたという、お互いの利害関係が一致したということよ。
あなたはいつもそう、大学の時からいつも女王様で輝いていた。
覚えている? 信二のこと。
信二は私の生き甲斐だった。
大学を卒業して3年したら結婚しようと約束していた。
しあわせだった。
でもその信二を誘惑したのは蘭子、あなたよね?
それでもあなたが信二に本気なら、私も諦めがついたわ。あなたは私の親友だったから。
でもあなたはそれをゲームでもするかのように楽しんでいた。私たちの愛を壊し、それを弄んでいたのよ!
そして信二はボロ雑巾のようにあなたに捨てられた。
彼はイケメンではないかもしれないけど、やさしくて繊細な人だった。
でも彼はもう、この世にはいない。
それなのによくも私の店に! この鎌倉にやって来れたわね!
あなたは私の憎しみの籠ったお茶を、いつも涼しげな顔で飲んでいたのよ!
許せない! 絶対に!
蘭子、アンタは稔さんに捨てられたのよ!
ざまあみろだわ!」
蘭子は静かに言った。
「そう、そうだったの。由梨子は私のことをずっと憎んでいたのね?
知らなかった。
あなたが夫とどうなろうと、私にはもうどうでもいいの。
愛というものはね? 落ちるものではなく「奪うもの」だから。
だから由梨子、あなたは正しい。
魅力的な人間には常に需要があるものよ。つまり、そんな素敵な人にはすでに恋人がいるか、あるいは結婚して家庭に収まっているものよ。
そして大抵の人間はその道徳心から、また自分の安定した生活を壊すことを恐れるあまり、その恋から目を背けてしまう。
誰も傷付けたくない、自分も傷付きたくないから。
でもそれは本当の愛じゃないわ。
それは単なる憧れ、恋心よ。
本当に愛しているなら、本能に従うべきなの、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、例え罪の業火にその身が焼かれようとも。
私はためらうことなく自分の本能に従うわ。
一度きりの人生だもの」
蘭子はそう言い終わると、大徳寺の手を握った。
「稔、私は彼とこの家で暮らしたいの! お願い、この家を私たちに譲って頂戴!」
「離れろ! 離れろラン!
お前にソイツは似合わない! お前は俺の妃なんだ!
そんな奴にお前を渡さない!
離れろ! ラン! 大徳寺から離れろ!」
稔は蘭子と大徳寺の手を放そうと、蘭子の腕を掴んだ。
「止めてあなた! もう決めたことなの! 後戻りは出来ないわ!」
「うるさい!」
稔は大徳寺の頬を殴りつけ、足を蹴った。
「ふざけやがって! よくも俺の女房を! 蘭子を!」
稔は大徳寺に馬乗りになり、何度も大徳寺を殴った。
「あなた止めて! どうしても殴りたいなら私を殴って! この私を!」
稔は立ち上がると、蘭子を睨みつけた。
「い、いいん、です・・・、蘭子、さん。
ぼく、は、罰をうけ、る、義務、が、ある・・・」
蘭子は大徳寺に覆い被さり、
「さあ早く、早く私を蹴りなさいよ! 踏みつけなさいよ! どんなに蹴られても殴られても、私たちの愛は変わらないわ!」
すると由梨子が言った。
「くだらない。たかが恋愛じゃない? 馬鹿じゃないの? アンタたち。
所詮愛なんて幻よ、ひと時の気の迷いだわ。「恋は盲目」とはよく言ったものね?
一緒にいればお互いの嫌なところも見えてくるし、どんどんお爺さんとお婆さんになっていくのよ。
今、あなたたちが燃えているのは、そこに障害があるからでしょう?
そのドキドキ感に、ただ酔いしれているだけ。
愛はいずれ消えるの、夏の陽炎のようにね?
そして虚しい「祭りの後」が待っているのに」
そう言って由梨子はその場から去って行った。
「由梨子!」
稔も由梨子を追いかけて家を出て行った。
残された3人。
そして園子もそこから離れていった。
「先生、大丈夫? 大丈夫なの?」
「だい、じょうぶ、です。
これ、じゃ、足りない、くらい、です。ぼく、は、もっと、罰を、受けるべき、なんだ・・・」
蘭子は大徳寺に縋り、嗚咽した。
新築した家に、蘭子の悲しみと、安堵が広がって行った。
大徳寺は仰向けのまま、左手で蘭子を抱き締め、右手で床を愛おしむように触った。
「ごめんね? 悲しませてしまって」
それは蘭子と、家に対しての言葉だった。
蘭子は何度も首を横に振った。
「悲しくなんてないわ。私はしあわせよ・・・」
3か月後、蘭子は葛城と離婚し、鎌倉の家は大徳寺が買い取ることになった。
穏やかな春の日、開け放たれた窓からは雄大な太平洋が広がり、潮騒の音と穏やかな潮風が吹き抜けて行った。
「あなた、お茶を淹れましょうか?」
「ありがとう、蘭子さん」
リビングに飾られた、蘭子の絵が微笑んでいた。
『火炎木』完
【完結】火炎木(作品240107) 菊池昭仁 @landfall0810
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