絶叫も届かない空の下

ゆっくり

短編

 あるところに一人の男、あるところに一人の男、それぞれがいた。

 一人目の男は、現実の非情で鋭い悪意の刃に身を切り刻まれ、曇天の空を仰ぎ行先無く歩き続けている。灰の空に突き刺さらんとするビル群と、その石の下に蠢く虫達が吸う煙草の煙が上へ上へと空に溶ける。男はそんな空を仰ぎこそすれ、雫は枯れているため意味はない。自分の身の上を考えれば考えるほど、何の意味も無いような気がしてきて嫌気がさすので足の方を動かすが、気持ちは一向に晴れない。携帯のバイブレーションが定期的に鳴るが、本音を言えば投げ捨てて壊してしまいたい、だがそんなことは当然できないし、携帯のバイブが鳴れば餌を差し出された家畜の様に、その後の選択肢を削がれてしまう。携帯を取り出し目を落とすと、そこには男の犯した過ちを顔も知らぬ赤の他人が悪意を持って刃を通しにくる。それに抗うだけの力がない男は、またひどく自責の念に駆られるのだ。

『高いところから飛び降りろ』

頭に声が響く。どこか自分に似た声の、知らない他人の声。

『高いところから飛び降りろ』

男は命が惜しいのだ。だが声は収まらない。

『高いところから飛び降りろ』

「うるさいうるさいうるさい!黙れ!黙れ黙れ黙れ!喋るな俺に話しかけるな黙れ黙れ黙れ!頼むから黙ってくれ、、、」

男は頭を掻きむしり膝をつきながら絶叫していた。膝に鈍い痛みが走り、急激に増す頭痛が男の頭を割らんとする。だがそれも次第に引いていき、落ち着きが舞い降りると男は気づく。周りは自分に目線を刺している。その視線には恐怖、好奇心、心配、娯楽、さまざまな意思が混じった視線だ。

 男はその視線を恐れずにはいられなかった。だが、なんとなく、自分を心配する目がある様な気がした。文字通り藁にもすがる思いでその線を手繰り寄せる。一人の女がそんな目をしている様な気がした。

「たすけてくれ」

そう声かけられた女は、突如として顔を歪め、酔っ払いが口から吐きちらした汚物を見る様な目で言った。

「話しかけないで」


 二人目の男は、自分のすることが全て自分への鈍器となって殴りつける現実に疲弊していた。仄暗い空には雲が薄く広がり、虫食いの様な隙間から見える色が徐々に暗くなっていっている。暗い部屋の中で俯いていても仕方がないと思い、外に出てみても、何かが変わるわけでは無い。高いビルは周りの景色を反射し、また別のビルに自分の姿を映す。都会特有の物々しい景色も、初めて見る時には男をワクワクさせていた。だが時には情など無いもので、いつのまにかそれを見ても何も感じなくさせられている。周囲の夥しい数の人々は、忙しそうに行進をし続ける。男は自分もその中の一人だということを自覚すると、周りと自分の間には埋まらない奈落の亀裂がある様に感じる。人のために、人を救いたい楽しませたいという一心で進み続けたが、全て空回り迷惑をかけ、煙たがられてきた自分には人と並び立ち、共に歩く権利など無いという思いが、孤独感だけを積む。その積み上がった孤独感はいつの間にか虚無感へと変わり、自己の存在に疑問符だけを投げ渡すのだ。

 男の頭に声が響く、自分の声の様な、自分では無い誰かの声。

『お前は生きているべきなのか?』

男は『わからない』としか応えられない。

『お前は生きているべきなのか?』

『僕は生きているべきなのか?』

『お前は生きているべきなのか?』

「やめて、やめてくれ」

『お前は生きているべきなのか?』

「やめてくれよ、そんなこと言わないでくれ、、、」

男の足は止まり、力無く項垂れていく。徐々に倒れそうになる体をどうにか倒れないようにするので精一杯な男の体は、右へ左へ前へ後ろへとフラフラしている。膝に手をつき体を支えた時、男は自分に多くの視線が降り注いでいることに気づいた。視線の中には多種多様な意思がある。

 その視線は男を畏怖させるには十分すぎるもので、真意を知るなど烏滸がましいとさえ思わせる。だが、そんな視線の一つに縋りたいと思わせる何かを受け取った。その視線の方へと歩を進める。そこには一人の女がいた。女の目は黒く、下民を見るような目だ。だが男はそんな目に臆せず、いや本当は臆していたが、それでも精一杯言葉を紡いだ。

「たすけてください」

女の目の黒は瞬く間に捌けていき、ただ一つの悪意もない目で、一人の人を見つめ、男の体を支えるために手を伸ばした。

「無理しないで、ゆっくり話してください」


 私は今日も仕事だ。今日も昨日も一昨日も、明日も明後日も仕事だ。日に日にすり減る体の中心の核は、そのうち削に削れて消え去るのだろうか?だが希望が無いわけではないんだ。今は少しでも進むしかない。家に帰れば息を吸えるのだし、なんとなくだがそのうち好転するようにも思える。仕事に慣れ、生活に慣れ、友達と気兼ねなく遊ぶ。そんなふうにいつかなれると思えるだけの光がある。

「明日も頑張るかぁ、土曜日まで折り返しだ!」

そんな小言を呟き歩く帰り道の足取りは、少し軽くなった。都会の景色も最初は圧巻されたものだが、今では臆せず歩ける。駅まで行くのも今じゃ迷わない。少し先のビルの高さも、その周りの全ての景色の煌びやかさも、今じゃ私と共にある。そんなビルのてっぺんを何となく見て歩いていた。すると目の前の人に突然声をかけられた。

「たすけて」

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絶叫も届かない空の下 ゆっくり @yukkuri016

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