1554年 村木砦の戦い

 1553年になり、俺は修行の日々を繰り返していた。


 部下に加わった護法と道海から色々な事を学んだのだが、老兵ではなく、どちらかと言うと高僧の様な方だったので仕方なく、捨て子を拾ってきて育てることにした。


 赤座と青座という兄弟で10歳と9歳の兄弟だ。


 二人は油搾りの仕事を手伝いながら白右衛門から武芸を、善財や妻達から勉学を学んでいた。


 ちなみに子供は16人目である。


 手伝いさんを雇って子育てをしているが、皆はまだ産む気満々である。


 屋敷も子供だらけになって大変である。


 最近妻が町の奥方達と始めた蚕栽培による絹が高値で取引されることで、財源に一息つくことができるようになっていた。


 お陰で武具を一通り揃えることもできた。


 まぁ量産品なので凄い良い物というわけではないが···


 清洲の織田家との小競り合いに召集されたが、後方待機だったりして武功は稼げずに比較的平和な時が流れた。


 ちなみに信長様の奇行にストレスが限界突破し、息子達が信長の機嫌を損ね、殺されると思った息子が反乱を計画していると知った平手政秀が自害していたりする。


 信長様は涙を流して平手の死を悔やみ、反乱を起こそうとした息子達を許しているし、重用していたりする。


 そんな信長様は自身の立場を向上させるためと重臣たちへの牽制として斎藤道三と会見することになった。


 信長様は親衛隊を総動員し、千名の兵を集め、長い槍と鉄砲を持たせて行軍させた。


 勿論その兵の中に俺も居た。


 俺と白右衛門、善財に織田家から支給された鉄砲を持って行軍を行った。


 まぁ末端の兵はただ行軍して待機して、帰って終わりの行事だったので特に何かあるわけでもなく終了した。


 ただこの行軍と寺での会談で信長様は斎藤道三に認められ、強い後ろ盾を得ることになる。


 ただ尾張の情勢は複雑になっていく。


 信行が判物と証文を独自発行を開始した。


 判物は国主もしくはそれに準じる者が土地の保有権や水場の使用権利等を認める重要な書で、この書物を領主から受け取ることでその土地や権利の保証となる大切な書類である。


 証文は借用書であり、それに織田弾正家の印を使い始めたというのが重要である。


 どちらも織田弾正家当主しか発行が許されない物であり、信行こそが織田弾正家当主であるという事を公言したに等しい。


 熱田では商人達が信長、信行双方から税の徴収、証文のやり取り、引き抜き等が行われていた。


 俺が懇意にしている加藤さんは信行様に、千秋の兄貴は信長に付き、上の方でもどちらに付くかの争いが始まっていた。


 俺の立場は複雑だ。


 信長様から役割を与えられているけど、信行様から懇意にしてもらっているし、直属の上司の村井様は中立だ。


 お玉はドロドロとしている政治状況に興奮していたが、板挟み状況になっている俺からしたらたまったものではない。


 しかも立場としては末端の足軽小頭である。


 政治を動かせる立場ではない。


 とりあえず情報収集をしながら時勢を読めるように努力を続けた。







 1554年になると情勢が一気に動き始める。


 前に山口親子が寝返ったのと同じ頃に今川家より攻撃を受けて降伏していたのが尾張と三河に跨る約10万石程の領地を持つ国人···それが水野信元率いるの水野家である。


 そんな水野信元は信長の将来性に賭けており、今川家の主力が駿河に撤退したのを受けて再度独立運動を展開し、再び織田方に付いたのだった。


 これにブチギレた今川家は水野家に攻撃を開始し、救援要請を受けた信長は叔父の織田信光と斎藤道三に協力を要請し、使える兵を総動員した。


 具体的には那古野城の守兵も全て動員して、那古野城を斎藤道三の部下であり美濃三人衆の安藤守就に守りを任せる常識外の総動員である。


 それでも集まった兵は三千人程でいかに信長の人望が無いかがわかる。


 というかこの大事に林兄弟が出陣拒否をするという事件も発生していた。


 全て信長の奇行からくる不信感からであるが、俺も動員されて足軽小頭として白右衛門、善財、幼い赤座と青座にも刀を持たせて出陣した。


「さ、佐助様、僕達鍛錬を続けてきましたが···」


「赤座、青座、生き残ることを主として考えなさい。武功は俺と白右衛門で稼ぐから」


「はい! 白右衛門精一杯頑張ります!」


「善財、赤座と青座を守ってやってくれ」


「わかりました」


 上官である足軽組頭より今回の目標が話される。


 今回の攻撃目標は村木砦という水野家を攻撃する今川家の作った砦の攻略であった。


 この砦を破壊することができれば兵站の関係から大軍の維持ができなくなり、今川家は水野家から撤退するであろうという読みからであった。


 事実中継地である三河の治安が悪化しており、今川家としては三河の混乱を治める方が優先順位が高くなっており、水野の攻略も砦を作ったは良いものの停滞してしまっていた。


 ただ水野の領地に行くのに今川家の支配地域を通過する必要があり、信長様はそれを船で迂回する道を選んだ。


 といっても船乗り達が出航拒否をするくらい海が荒れていたのだが、時間が惜しいと船頭を脅して強引に船で海を渡ったのだった。


 こうして水野信元の救援に駆けつけた信長様は軍を水野信元軍、織田信長軍、織田信光軍の3つに分けて村木砦に奇襲攻撃を仕掛けた。


 俺は信長様の下の部隊なので南からの攻撃が割り振られ、大きく、深い空堀を突破する必要があった。


 堀は急斜面になっていて登りづらく、登るのに時間がかかるのは一目瞭然であった。


 信長様は堀の前に到達すると鉄砲隊に堀の上の土壁に狭間と呼ばれる弓を撃つ為の穴が空いており、そこに鉄砲を連射した。


 三段撃ちではないが、銃手と装填手を分けて鉄砲の発射間隔を短くすることで狭間からの攻撃を抑えることに成功し、その間に堀を登らせた。


 俺と白右衛門も堀に突撃する頃には先に突っ込んだ部隊が堀と土壁を登り、砦の外輪で戦闘が始まっており、至る所に討ち死にした兵が転がっていた。


 俺らも外輪に突入し、薄暗くなるまで戦闘が続いたところで砦側が降伏し、戦闘は終結した。


 俺は5人ほど斬り殺したが、雑兵の類であり、部隊としては最低限の活躍であった。


 俺の部隊から死傷者は出なかったが、信長様が武功を稼がせるために先に放った部隊が大損害を出してしまい、信長が可愛がっていた子飼い達が大勢亡くなってしまった。


 その部隊に居た前田利家と津田盛月も揃って


「死ぬかと思った」


 と言っており、俺が土壁を登る時には抵抗があまりなかったのだけど、先行した部隊が頑張っていたためであった。


 信長は勝ったけど手塩をかけて育てた仲間が大勢亡くなったので大泣き。


 まぁこれで那古野城で内務ができる人材が多く亡くなったので俺も村井様への貸し出しから呼び戻され、那古野城の兵糧番という食料全般の管理係に任命されることになる。


 この子飼い大量死により藤吉郎(後の秀吉)が炭番に抜擢され、仲良くなるのであった。

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