第42話

 走る。

 ひたすらに。


「頼むからもう少しゆっくり来てくれよ……」

 

 俺はケルビンさん達を置いて、独り全力で駆けていた。

 バケモノの方へ――。


「やっぱりバカは死ななきゃ治らないらしい!」


 俺の手には黒翅が握られている。

 バケモノへの恐怖心に打ち勝ったわけではない。

 けれど、逃げてしまう事の方が怖かった。

 根拠はないが、何か大きな選択をする度に逃げる方を優先する生き方が染み付いてしまうような……。

 そんな良く分からない不安。

 

 これは正義感が強いとかそんなんじゃない。

 高尚な理由はない。

 便所にこびりついた汚物を見て気分を害するのが嫌だとか、そういう類の低次元な話。

 自分がこんなに潔癖な人間とは思っていなかった。

 俺は自分の人生に消えない汚点を作りたくない。

 だから、戦う。

 そんな、しょうもない理由だ。


「俺がアラディア家の当主になったら、『逃げれるときは逃げろ』を家訓に加えてやる!」


 もうそろそろご対面か?

 

 走りながらそんなことを思えば、前方から木の幹が飛んできた。

 枝じゃない。

 木が、丸っと一本。


「――ッアアア!」


 走る勢いのまま、スライディングをしてすれすれで避ける。

 俺とは反対方向へ吹っ飛んでいく木。

 そのまま地面に激突する音が後方で流れた。

 

 背筋がゾクゾクする。

 もう少し判断が遅ければ、今頃肉片になってた。

 

「モ゙ォ゙ォ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙――‼」


 鼓膜をつんざく怒号。

 恐怖に慄く間もない。

 遂にバケモノのお出ましだ。


 見たことも、聞いたこともない。

 報告した警備隊員の言う通り二足歩行の魔物。

 だが、ゴブリンと比べるまでもなく巨大。

 さらに、鬼人よりも強靭な肉体と濃密な死の気配を漂わせる異形。

 

「どっから流れ着きやがったコイツ……⁉」

 

 最初から分かっては居たけれど、どう見てもこんな場所に居ていい魔物じゃない。

 奴の近くには途中で千切れた木が一本。

 考えたくはないが、俺に飛んできた木はコイツがぶん投げて来たものらしい。

 自然現象であんなことあるわけないが、これはこれで受け入れ難い。

 

 どんな馬鹿力してんだよ全く!

 これは一発でも喰らったら、俺のペライ身体なんてペーストにされるな……。


 恐怖を打ち消すように黒翅を強く握り直す。

 腕は小刻みに震え、黒翅がカタカタと鳴く。

 

「さぁ、もう逃げらんねぇぞ……」


 自分に言い聞かせる。

 震えが簡単に収まることはない。

 自分の心臓の鼓動がやたら耳に響く。


 でも――その全てを無視して、俺は一歩前へ踏み出した。


 こうして、俺とバケモノの戦いが幕を開ける。

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