第30話:アルファ波とベータ波

 夢華の悲鳴が聞こえた。

 それまで集中していた、わたしたち全員の視線が彼女に集まる。


 ――あの夢華がこんな声を出すなんて、よっぽどの一大事なんじゃ?


「ど、どうしたの?」

 恐る恐る、わたしが聞く。


「こ、これ……」

 夢華が自分のアバターの顔に止まった、黒い何かを指さした。


 それは――ゴキブリだった。しかも、かなり巨大な。


「へ?」

 拍子抜けするわたしたち。


 確かに、島のゴキブリは、東京よりサイズが一回り大きい。

 それが、アバター越しとはいえ、顔に止まったら、一般人なら驚くのは無理もない。


 でも今まで微塵も動揺を見せたことのなかったクールビューティー夢華が、まさかこんなに騒ぐなんて……。


 これもやっぱり、飲み干した白酒の影響なのだろうか?

 

 夢華はキャーキャー叫びながら、駄々っ子のようにその場でぴょんぴょん飛び跳ねる。夢華には悪いけど、正直、可愛すぎて誰も助けようとしない。


 すると、ここで奇妙なことが起こった。


 何と、夢華本人のだ。

 夢華の横で、いっしょにぴょんぴょん跳ねている。


 「何で?」

 私たちは唖然として双子のように動く二人を見つめる。


 結局、夢華はゴキブリから逃れるように駆け出し、仏像の後ろに隠れてしまった。アバターと一緒に。


 その様子を見守ていた十萌さんが、驚きを隠さず呟く。

「さっきの夢華の脳波伝達率、60%を超えてた……」


 ――え?


「信じられない。エリー以上だ」

 とカイも言う。


 ――どういうこと?

 

 みんなの頭に疑問符が浮かぶ。

 

 座禅でフローの状態になったところまでは、伝達率は25%くらいだったはずだ。

 それが何で、一気に数値が跳ね上がったんだろうか。


 **********


 ゴキブリは、結局あっさりと悠くんが捕まえ、窓から外に逃がした。

 こんなこと、島の子にとって日常茶飯事だ。


「それにしても、夢華おねえちゃんにも、弱点があるんだね」

 いたずらっぽいの笑顔を向ける。


 ……数分後。


 夢華がゼイゼイいいながら戻ってきた。

 自分だけでなく、アバターまであんなに動かしたんだから無理もない。


「さっき、どうやってアバターを動かしてたか、覚えてる?」

「お、覚えてないわよ。必死だったんだから」


 ――つまり、全く意識をしていなかった。


 モニターを食らいつくように見ていた、十萌さんが興奮した声を上げた。


「面白い、面白いわ!」

 何かリケジョ魂にひっかかる発見があったらしい。


「みんな、こっちを見て」

 そういうと、小型プロジェクターと立体式スクリーンを使って、自分が見ていたモニターの画面を投影する。そこには、左右に二つの脳波のグラフが映っていた。


「これ、縦軸が脳波の強さで、横軸が時間なんだけど、リンちゃん、これ見て、気づくことある?」十萌さんが聞いてくる。


「え、わ、わたし?」


 ――こういう問題、苦手なんだよなぁ。


 仕方なしにわたしは、グラフを凝視する。

 それは、右に向かって緩やかに伸びてき、ある地点で突如高まっている。


「なんか、二つとも似ている気はしますけど……」

 わたしは恐る恐る言う。


「そうなのよ。波形がそっくりなの」


「これって、誰の脳波なの?」

 と夢華が訊く。

 

「左が、リンちゃんが初めてエリーと対戦をしたときの脳波。そして、右がさっきの夢華のものよ」

 わたしと夢華は思わず顔を見合わせる。


「この緩やかなところがフロー、そして急激に伸びたところがゾーンの特徴を示している」


 なるほど、夢華の場合、はじめ座禅をしているとき緩やかに脳波が伸びていて、ゴキブリを見た瞬間、一気に脳波が強まったということか。


 錬司さんが横から聞く。

「急激に脳波の量が増えたとき、脳波の種類にも変化があったんですか?」


 十萌さんは頷く。

「リラックスしたときにでるαアルファ波は減っているわ。ただ、反対に緊張や恐怖を感じたときにでるβベータ波が一気に増加した。だから、結果的には脳波の総量が増えたんです」


 ――どんだけゴキブリが怖かったんだろう。

 とわたしは心の中で突っ込む。


 夢華が聞く。気恥ずかしさもあってか、口調が挑戦的だ。


「でも、怒ったり怖がったりすることなんて、誰にでもあるはずよ。なんで、あの時に限って、急に脳波の伝達率が跳ね上がったの?」


「そこなのよね。単に怒りや恐怖で感情が昂っただけでは、ゾーンには入れない。


 モニターが切り替わり、今度は画面の左半分が、エリーと対戦していた時のわたしの映像が移り替わり、右側にはわたしの脳波らしき図が映し出される。


 みんなの注目が集まる。


 ゲームの序盤、わたしは一方的にエリ―に押されている。

 脳波は一定の範囲で、上がったり下がったりしている。


「この時点での脳波状態は、通常の範囲内ね。ゾーンでもないし、フローでもないわ」

 十萌さんが解説する。


「ここからよ。脳波がいきなりフロー状態になったのは」

 映像を一時停止する。


 VRヘッドセットをかぶったわたしの頭が、ふと宙を見つめるように上を向いた。


 ――あ。

「そう、このときトンボの羽音が聞こえてきた。それで、気持ちが一旦落ち着いたの」


「このタイミングで、フローに入ったの。つまりリラックスした、αアルファ波が増加した状態ね」


 ――確かに。あの直後、自分自身を俯瞰してみえるような感覚になった気がする。


 エリーがも思い出したように言う。

「わたしが猫のアバターダイアナを始めて動かしたときも蝶々を見たわ。思えばあればフローに入るきっかけだったのね」


 十萌さんが、映像を進める。

「そしてその直後、一気にβベータ波が増加し、一気にゾーンに入ったの。この時、どんなことを考えてた?」


 わたしは改めて思い出す。

「確かこの時、エリーとの過去が頭に浮かんで、何だか気持ちが一気に昂っちゃって……」


 ただ、単に気持ちが昂ったことなら、試合中何度もあった。

 でも、ゾーンに入れたのはわずか2回だけだ。


「もしかして、順序の問題なのかもしれないわ」


 ――順序?


「普段の状態で、いきなり感情が昂ぶったとしても、ゾーンには至れない。まずはフローになった後、そこから一気に感情の波が高まることで、ゾーンに入れるってこと」


 わたしは再び思い出していた。

 ドラゴンボールで、孫悟空がスーパーサイヤ人になった瞬間のことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る