第8話:ゾーン

「道理で、強くなったはずだ」

 錬司さんはそう言いながら、面紐をキュっと結ぶ。


「しかも、太刀筋も格段に早くなっている」


 力で勝る錬司さんに立ち向かうには、スピードしかない。


 お父さんに頼みこんで買ってもらった、鉛入りの竹刀。

 通常の数倍の重さのその竹刀で素振りをすることが、この三年間のわたしの朝の日課になっていた。


 錬司さんは、私の前に対峙し、一度正中線の構えを取る。

「今回は、最初から全力でいかせてもらうよ」


 今度の審判は、悠くんだ。

「はじめ!」

 の声とともに、錬司さんに剣先がゆらりと動く。


 空気が一段重くなり、胴を大きく開けた上段の構えに移行する。

 錬司さんの最も得意とする、一撃必殺の上段の構え。


 額に汗が伝う。

 さっきの悠くんと同じ構えなのに、迫力が全く違う。


 じりじりと錬司さんが間合いを詰めてくる。

 緊張で、息が苦しくなる。


 わたしは一歩下がる。悠くんのときのように、体ごと避ける余裕はない。面への一撃が振り下ろされた瞬間、逆小手を狙うしかない。


 ――技の「起こり」を見極めろ。

 私は自分に言い聞かせる。


「起こり」とは動き出しの起点のことだ。

 そこさえ見切れれば、次の動きを予測できる。


 本当にわずかだが、錬司さんの左肩が動いたのを感じた。


 来る!

 わたしは軌道を読み、逆小手の位置を予測し、小手を繰り出す。


 ――が。

 上段からわたしの面に向かって、垂直に振り下ろされるはずの一撃はそこには来なかった。錬司さんの剣戟の軌道が突如右に揺らぎ、その竹刀に私の右小手に吸い付くように叩きつけられる。


 ぱぁん!

 という乾いた音が響き、私は右手に鋭い衝撃を感じた。

 思わず竹刀を落とす。


「小手一本!」

 悠くんの声が響く。


 完全にやられた。通常、相手の面を狙うはずの上段の構えから、わたしの狙いを察し、途中で軌道を変え、逆に私の小手を奪いに来たのだ。


 ――後の先。

 相手が攻撃を仕掛けてくるのを待ち、その動きを見極めてから対処する、極めて高度な技だ。


 経験が違いすぎる。

 読み合いでは、到底勝てない。


「もう一本、お願いします」

 わたしは錬司さんに頼む。


「もちろん」


 通常、剣道の試合は二本先取をした方が勝ちだ。

 

ただ、おじいちゃんはこうも言っていた。

「真剣の死合いに、二本目などないよ」


 実際、さっきの戦いが真剣だったら、私の右腕はとっくに切断され、出血死寸前だろう。

 

 ―――わたしは、まだまだ甘すぎる。

 あれから本気で修行してきたはずだった。でもそれはスポーツという枠の中のことだった。


 こんなんじゃだめだ。

 これじゃ、現実世界において、誰も護ることができない。


 思い出したくない過去が、再び脳裏によぎる。

 幼い少女を護り切れなかったトラウマに支配されそうになる。


 わたしは頭を振りそれを振り払おうとする。


 「剣禅一致の境地」

 無心で体が動く、その領域。

 

 そこに至らなければならない。

 でも、こんなにも雑念にあふれてしまっているのに、一体どうやって?


 「ごめんなさい。ちょっと、心を整えさせてください」


 そう練司さんに言い、わたしは面を外し、面手拭を緩める。

 初夏のさわやかな風が頬を撫でる。


 目を閉じ、自分の呼吸に集中する。

 視界がなくなることで、逆に見えてくるものもある。


 さっきまで無音に感じられていた世界に、音が入りこんでくる。

 

「みーん、みーん、みーん、みーん」

 道場の外から、蝉の声が聞こえる。


 さらに神経を研ぎ澄ませる。

 一匹に思えた蝉の声が、合唱だったと気付く。

 

「みーん、みーん、みーーん、みーーーーん。みーーーーーーん」

 そおうちの一匹の声が、徐々に間隔が開いていく。

 

 「み………」

 突如、鳴き声が途切れる。


 声を枯らしたのか。それとも、三式島の大いなる自然に還ったのだろうか。


 わたしは不意に、おじいちゃんの言葉を思い出した。

「万物は大きなものの一部であり、己もまたその一部にすぎない」


 わたしは、ゆっくりと目を開く。


 開け放たれた本堂の窓から、光が差している。

 葉がひとひら舞い降りてきて、光に溶けたように見えた。

  

 わたしはようやく動き出す。

 ゆっくりとした動作で、ふたたび面を付け始める。

 

 ずっと動かなかったわたしを、ただ見守っていてくれた錬司さんが、声をかけてくる。

 「では、始めようか」

 

 わたしは、静かに答える。

 「はい」


 わたしたちは、再び正眼の構えを取る。


 「二本目、始め!」

 悠くんが声を張り上げる。


 再び、錬司さんを上段の構え取る。


 私は、深く深呼吸をし、目を細める。

 視界が狭まることで、逆に見えてくるものもある。


 ――部分を見るな。全体を見ろ。

 わたしは、自分自身に言い聞かせる。 


 さっき、錬司さんのわずかな肩の動きから、上段面を察知した。

 

 だけど、見るべきところは「肩」という部分ではなかった。

 錬司さんの身体全体であり、その思考そのものだ。


 わたしは一歩前に進んだ。

 錬司さんも一歩詰める。


 錬司さんの必中の領域に入る。

 リーチで劣る私の領域には半歩足りない。


 錬司さんが、動いた。

 上段からの変位小手打ち。1本目と同じ軌道だ。

 このままでは、斬られる。


 そのとき、不思議な感覚が私を貫いた。

 意識が体と離れたように感じたのだ。

 まるで幽体離脱のように、斜め上から、自分自身の身体を見つめるような感触だった。


 錬司さんの竹刀の軌道を見極められたわけではない。

 ただただ、体が自然に動いていた。


 右小手をわたしの脳が、右腕を離すように指令を下す。

 あるはずの空間から小手が消え、錬司さんの一撃は空を切る。

 

 次の瞬間、左手だけで握られた私の竹刀は、錬司さんの頭部に叩き込まれていた。


 一瞬、静寂が走る。


 ――え、わたし、今、面を打ったの?


「リンちゃん、一本?」

 悠くんの声が遅れて響いた。

 不意には何が起こったか、良く分からなかったらしい。


「え、パパが一本取られたの?初めて見た!」

 美紀ちゃんも思わず声を上げる。


「――あ、いや」

 たぶん、正式な試合だと一本とは認められないはずだ。


 面があたった瞬間の衝撃にわずかに違和感があったからだ。おそらく、小手をよけられた瞬間、首をひねることで直撃を避けていたはずだ。


 ただ、錬司さんは静かに言う。

「今のは一本だよ。少なくても、実戦ではね」


 互いに礼をすませ、わたしと錬司さんは防具を取る。

 ここにきて汗が一気に噴き出してきた。


 錬司さんが訊ねてくる。

「さっきの動き、意識していた?」


「覚えてない、です」

 気が付くと、右手が離れ、左手一本で面を打っていた。


 私自身は、勝手に動いている自分の身体を、斜め上から見ている感じだった。


「たぶん、ゾーンに入ってたんだね」

「ゾーン……?」


「剣道だけじゃなく、他の競技でも、意識せずに反射的に体が動いている状態になることがある。それをゾーンと呼ぶんだよ」


 教師らしく、錬司さんが解説してくれる。


 「ゾーンに入るのは、プロスポーツ選手でも難しいんだ。実際、経験できたのは生涯で何回か、と言う人も大勢いる」


 ――え、ほんと!?

 

 思わず調子に乗りそうになった自分を、慌てて戒める。


 おじいちゃんは、小学生のときにこれができていたはずだ。

ここはまだ、最強への道のスタート地点にすぎない。

 

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