第7話:剣禅一致
「どうしたら強くなれるの?」とわたしが問い、「強くあろうとしないことじゃよ」とおじいちゃんが答える。
小さい頃から何度も繰り返されてきた、この
正直、意味が分からなかった。分からなすぎて、おじいちゃんの愛弟子のお父さんにも訊いてみたことがある。
「案外、禅問答というのは、正しいかもしれないね」
――?
「たぶん、おじいちゃんは、"
「けんぜんいっち?」
「剣の技術と、禅の心を融合させ、心身を一致させることだよ。どんなに修行を積んでも、ほとんどの人はこの境地には至れない」
お父さんでも中々至れない境地なら、それはすごいことなんだろう。
「でもおじいちゃんの本当のすごさは、普段の生活のときでも、常にその状態を保てていることなんだ」
「え?常に、ってことは、起きているときずっと?」
「そう。おじいちゃんの若い頃はみんな貧しくて、道を歩いてたらいきなり襲われるなんてことも珍しくなかった。でもその境地に居続けたからこそ、不敗でいられたんだ」
「お父さんや錬司さんは、おじいちゃんの弟子だったんでしょ?だったら、その秘訣みたいなのって、教わっていないの?」
お父さんは苦笑する。
「おじいちゃん自身も説明もできないみたいなんだ。意識せずに、ただ自然にそうしているいるだけだから。あの通り、口下手だしね」
戦後直後生まれのおじいちゃんは、貧しくて小学校までしか行けていない。
「だけど、一度だけ酔ったときに教えてくれたことがある」
とお父さんが言う。
「小学生6年生の冬、おじいちゃんは、飢えて食べ物を探しに山に入ったことがあったらしい。同じくほとんど餓死寸前だった、となりの家の女の子と一緒にね」
当時は、小学生でさえ働かなければ食べていけない時代だ。
「そこで運悪く、山
――小学生で、熊と?しかも木の棒で?
想像さえしたくない
「無我夢中で戦ったけど、力の差は歴然としていた。やがておじいちゃんは熊の一撃を後頭部に受けて、意識を失いかけた。その時、不意に悟ったらしい」
「悟ったって、何を?」
「
――うーん、やっぱり分からない。
けど、小学生で熊と戦った剣道家なんて、現代にはまずいない。
おじいちゃんが現役最強を貫けた理由は、たぶんその経験値の差にあるんだろう。
だから、三年前の夏休みに錬司さんにボロ負けしたとき、わたしは迷わずおじいちゃん
80歳を迎えたおじいちゃんは、もう道場には立っていなかった。
ただ、普段から「剣禅一致」状態なら、日常生活を観察していれば何かヒントが掴めるかもしれない。
だから、わたしは日常の動きから極意を学ぼうと、わたしは必死になって、それこそ泊りこみでおじいちゃんを観察した……。
けど、一週間たっても何一つ分からなかった。
おじいちゃんの生活は、ほぼ毎日変わり映えがしなかったからだ。
早朝、朝日が昇るころに起きて、まずは竹刀の素振りを1時間ほど行う。ここまでは確かに剣士っぽい。
でもその後は、朝ごはんを食べて、公園を散歩して、お昼ご飯を食べる。そして、近所の仲間と将棋を打って、日が暮れて、テレビを見ながら夕食を食べて、8時には寝る。
つまりは、早朝の素振り以外は、ごくごく普通の老人の1日にしか見えない。
さすがに手がかりがなさ過ぎて、わたしはサラに話しかける。
「漫画なんかだと、そろそろ秘伝の書なんかをくれたりするんだけど……。わたし、どうしたらいいのかな」
「うーん。典型的な、中二病の症状だね」
……サラまで冷たい。
だけど、ちょうど二週間目の朝。
きっかけは突然訪れた。
「あなた、リンちゃん。お茶入れたわよ」
おばあちゃんが、熱々のお茶をお盆に乗せて運んで、居間に入ってきたその時。
段差につまづいたのか、不意にバランスを崩し、お茶とお盆が宙に舞った。
――あぶないっっっ!!!
そう思い、思い慌てて立ち上がった。けど、わたしができたのはそこまでだった。
その後の出来事は、まるでスローモーション映像を見ているようだった。
さっきまで座布団に座ってTVを見ていたはずのおじいちゃんが、すっと立ち上がる。
ごくごく自然に、転倒しそうになるおばあちゃんを右腕で抱きかかえると同時に、空いた左手で掴んだお盆で、
湯呑は少しテーブルの上を滑り、やがて無事静止した。
お茶は一滴もこぼれていない。
その間、一秒もなかったはずだ。
一連の動作があまりに自然すぎて、まるで何もおこらなかったようにさえ見えた。
さらに、驚きだったのが、おじいちゃんの視線が、ほとんどおばあちゃんだけに投げかけられていたことだ。 お盆と湯呑は一瞥しただけで、瞬時に落下角度を変えてしまった。
――もしかしたら、これがおじいちゃん言っていた「強くあろうとしない」ということなんだろうか。
仮に、強い力でお盆を支えれば、その反発で湯呑のバランスは崩れ、お茶はこぼれてしまう。だから、おじいちゃんは、わずかに力を加えることで、湯呑を安定させたのだ。
それができるためには、自然の物理法則自体も体得していなければならない。
まさに神業に近い。
「おじいちゃん、今のどうやったの?」
「今のって、何が?」
――おじいちゃんにとって、今のも特に意識せずにやったらしい。なんせ、無心でやっているんだから。
わたしが説明すると、ようやく思い当たったというように、こう答えてくれた。
「あらゆるものを、一部としてとらえることじゃよ。人も器もな」
そんなこと出来るんだろうか。
けど、それが強さの秘訣なら、やるしかない。
それ以降、わたしは、必死で身の回りの観察することにした。
人の動きにとどまらず、雲の動きから、木の葉が風に揺れ落ちる様子まで、あらゆるものを必死に凝視し続けた。
リンゴと、お盆、そしてお茶が落ちるときは当然動きが違う。だけど、いずれも物理法則からは逃れられない。
それは、剣の動きも一緒ではないだろうか。
脳が指令を出し、腕や肩の筋力を動かすことで、連鎖的に握っている竹刀も動かされているのだ。
相手が上級者であればあるほど、逆に剣の動きは正確になる。つまりは、予測しやすくなるはずだ。
そうなると、剣先をいなすことなど簡単だし、その軌道から外れる場所に身を置けば避けることもできる。
――まだまだ、剣禅一致への道のりは遠い。
だけど、ほんのちょっとだけ、"強くあろうとしない強さ"の輪郭を捉えられた気がした。
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