第5話:猫の幽霊
「リンちゃん!」
懐かしい声が早朝の空に響いた。
遠くから、見覚えのある、やたら
「
人口が少ないこの島では、仕事を兼務している人が多い。
「お待たせ!あれ、ちょっと背、のびた?」
「3年前に来たときからちょっと伸びて、今ちょうど160cmです」
わたしはぴんと背筋を伸ばす。
でも、185cmの錬司さんには到底届かない。
「そうか、もう19歳なんだね。髪も長くなってて、見違えたよ」
確かに、三年前はショートだった髪型は、腰近くまで下ろしたロングになっている。
「錬司さんにリベンジするために、願掛けで伸ばしてましたから」
わたしは、じっと錬司さんを見つめる。
「え? リ、リベンジってもしかして……」
錬司さんは大学時代、わたしの父と何度も剣道日本一の座を争ったライバル同士だ。そんな錬司さんに、3年前、わたしは無謀にも試合を挑んでいる。
結果は、惨敗だった。中・高と負け知らずで、調子に乗っていたわたしの自信は、ものの見事に打ち砕かれた。9敗、1分け。まさしく完敗だった。
その悔しさを忘れないため、それ以来髪を切っていない。
正直、長髪は剣道には邪魔だ。だけど鏡を見るたびに、苦い敗北の味を思い出させてくれる。自分自身への戒めのようなものだ。
「だから、ぜひ、お手合わせお願いしますね」
「あの時も、相当苦戦した気がするけど……」
それは、錬司さんのリップサービスにすぎない。
わたしはちょっと睨む。
最後の一戦、ふらふらになりながら食い下がるわたしの体調を配慮して、錬司さんは明らかに力を抜いていた。その屈辱を、わたしはまだ忘れていない。
「今回こそ、手加減なしでお願いします」
「ああ、分かったよ」
と錬司さんは真摯に答える。
「あと、ぜひ悠馬たちにも稽古をつけてあげてほしい。久しぶりリンちゃんに会えるのを、ずっと楽しみにしていたから」
元気な双子の顔が浮かび、思わずほっこりする。
軋むドアを思い切り閉め、年季の入ったミニバンが走り出す。
車窓を開けると、さわやかな風が車内に吹き込む。
やっぱり、東京とは空気が違う。眺めも最高だ。山の緑と、海の青のコントラストが美しい。
海の方から、カモメの声が聞こえる。水平線上を飛ぶカモメは、波間の白に溶けるように消えては、また姿を現す。いつまでだって見飽きない景色だ。
しばらく車が走るままに景色を楽しんでいたが、ふいに山の中腹らへんに、そそり立つ黒色の建造物が目に入った。
5階建てほどだろうか。都会では珍しくも何ともない高さだけど、ほとんどが平屋建ての島ではひどく目立って見える。
「あれって、何の建物なんですか?」
「ああ、ホテルだよ。例のアイロニクス社のプロジェクトが始動して以来、急ピッチで工事が進んでいてね」
「そうなんですね」
「島にも、外国人の来客がすごく増えた。だから、あの建物も出張者向けのホテルなんだ」
確かに、かつての三式島は、スキューバや釣り人向けののんびりとした民宿が二、三軒あっただけだ。「ホテル」と呼べるものなどなかった。
「とにかく、彼らは島に変化をもたらしたよ。いい面も、そうでない面でも……」
――ん?
地元の経済的には間違いなくいい話なはずなのに、錬司さんの表情はどこか浮かない。
「そうでない面って……」
「まあ、昔ながらの島を守りたい住人と、急増する観光客との意識のギャップはもちろんある。でも、それは仕方ないことだと思う。このままだったら高齢化で島民がいなくなってしまう危機なんだし」
――そう、噴火による全島避難以降、特に若者人口は減少し続けている。二校あった小学校も一つは廃校なったらしい。
「けど、ちょっと気になることが……」
錬司さんがそこまで言いかけたとき。
「リンねえちゃーん」「ねえちゃーん」
遠くから、二重にわたしを呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、あれ、悠馬と美紀か!?」
お寺の本堂の屋根の上で手を振る二つの人影を見て、思わず錬司さんがつぶやく。
転げ落ちたら大けがする高さなのに、二人は全く気にする様子はない。こっちに向かって、全力で両手を振っている。
「悠くん、美紀ちゃん!」
わたしは思わず歓声を上げる。
悠くんと美紀ちゃんは山野辺家の双子で、前回の来島時に一緒に合宿をした仲だ。
あのときは2年生だったから、もう小学5年生になっているはず。でも、やんちゃな性格は全く変わっていないようだ。
「危ないから本堂の屋根には登るな、って何度も言うとるんですけどね」
錬司さんは苦笑する。
「相変わらずですね」
覚えてくれていたことに嬉しくなって、わたしは窓から身を乗り出して二人に手を振った。
**********
本堂の離れに建てられた、錬司さん家のリビングで、わたしはようやく朝ごはんにありついていた。
悠くん、美紀ちゃんと、錬司さん、そして奥さんの
「リンちゃん、おかわりいる?」
「はい、頂きます!」
島でとれた魚の干物と、漬物、卵、白米とみそ汁というシンプルなご飯だけど、これが格別においしい。
「今回、いつまでうちに泊っていくん?」
大分背が伸びた悠くんが尋ねてくる。
「今日だけここに泊まらせてもらって、明日の午後から移動するつもり」
「えー、短すぎる。もっといてよ」と不満を言う。
美紀ちゃんも「短すぎる〜!!」と相乗りする。
双子だけあって、相変わらず息がぴったりだ。
「今回、リンちゃんはお仕事で来たんだから、無理いっちゃあかんよ」
夏美さんが言う。
「ま、お仕事っていってもバイトだけどね。明日からアイロニクスで働くんだ」
わたしと星の止まる場所は、研究所内に確保してくれているらしい。
「え、あのアイロニクス!?」
悠くんが、驚いたような声を上げる。
「知ってるの?」
まあ、ほとんどが知り合い同士の狭い島だ。子供たちが知っていてもおかしくはない。
……けど。悠くんの次の言葉は完全に予想外だった。
「あの、幽霊工場で、わざわざバイトすっと?」
え、ゆ、幽霊工場⁉
「そんなん、単なるうわさやろが」
そういって、夏美さんが、軽く悠くんの頭を小突く。
夏美さんは、山野辺家の跡取りで、小柄ながら豪胆な性格だ。かつて錬司さんがこの島に剣道合宿に来た時、彼女の女気に惚れて、婿養子として山野辺家に入ったらしい。
「違うって。お隣の祥子も見たって言うとるもん」
「見たって、いったい何を?」
思わずわたしが訊ねる。
単なるうわさ話だろうけど、そこに明日から泊る身としてはちょっと気になる。
「だから幽霊だって、猫の」
「猫なんて島中にいるじゃろが。迷い猫の見間違いにきまっとろうが」
「いや、違う。あの猫は光るんじゃ」
まるで自分が見てきたかのように言う悠くん。
「そりゃあ懐中電灯を当てれば光るわな」
「違う、ライトなんか使っておらんのに、全身が銀色に光るんじゃ。それに……」
――それに?
「しゃべる」
「そら、猫だってしゃべるさ。うちの境内に来る迷い猫だって、にゃーだのみゃーだの言うとるじゃないの」
「違う。
なんだか、急に怪談めいてきた。私は、ちょっとだけ背筋がひんやりするのを感じつつ、素朴な疑問を投げかける。
「でも何でその猫と、アイロニクスに関係があるって分かるの?」
「だって、あの研究所ができてからやもん。あの猫が出始めたの」
「それだけじゃ、何の根拠にもなりゃせんよ」
夏美さんが苦笑する。
わたしは、錬司さんの顔をチラ見した。
ちょっと微妙な顔をしている。
――もしかして、さっきの車での話について、考えているんだろうか?
「もう!早う朝ごはん食うて、稽古の準備をしてきんさい。ずっと、リンちゃんと稽古したかったんじゃろ?」
「そうじゃ!美紀、はよ食べんと。リンちゃん、今日しかいないんじゃから」
と急ぎでごはんを掻っ込む二人。それを優しく見つめる錬司さん。
わたしも、焼き魚をまるごと口に放り込む。
それを頭ごと噛み締めながら、わたしは気合いを入れ直す。
――さあ、リベンジの時間だ。
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