第4話 その眼が捉えたもの
「おはよう…」
次の日、金曜日の朝。眠れずに大きな隈を作って、晴が2階の自室から1階のリビングへ降りてきた。
「おはよう」
キッチンにいた栞里は挨拶を返してから、テーブルについた晴を心配そうに見つめる。
昨日、病院から愛がいなくなった。栞里はその連絡を受けたとき、火事の日から感じていた悪い予感が当たっていることを悟った。亡くなった愛の父──北嶋ボンドをきっかけに、コワの脅威が迫っているのだ。
となると、晴にも危険が及ぶ可能性が高い。栞里はなんとしても晴を守りたかった。それはボンドの願いでもある。何度も読み返したボンドからのメールを思い出しながら、穏やかな口調で晴に声をかけた。
「……晴、今日は学校休んだら?」
晴は驚いて栞里の顔を見つめた。栞里が欠席を促すのは初めてのことである。晴の困惑する気持ちを感じ取り、栞里は微笑んで続けた。
「火事といい、愛ちゃんのことといい…少し、物騒だしね。晴もショックだっただろうし、家で落ち着く日があってもいいと思うの」
「……わかった」
晴は素直に頷いた。自分が少なからずすり減っているのは自覚している。母にも心配をかけているようだし、休みを取ることも必要だ。
正直何も喉を通らないほどに憔悴していたが、とりあえずテーブルについて朝食と向き合う。
栞里は晴が家に留まってくれることにほっとした。焦りと緊張で落ち着かない心臓の音を感じながら、夫の祐輔が使った食器の片付けをする。祐輔は晴の様子を心配しつつも、すでに仕事に出ていった。
栞里の胸はざわついていた。晴や夫に何も悟られないうちに事を済ませたい。すべては娘を巻き込まないためにしてきたことであり、それがボンドと交わした約束なのだから。
その日の昼過ぎ。栞里は買い物に行くために家を出て、神妙な面持ちで歩みを進めていた。
しばらく歩くと、簡易的な柵とブルーシートにぐるりと覆われた場所──北嶋家の跡地が見えてくる。自然と栞里の歩みは止まった。ブルーシートの下から、黒く焦げた地面が見え隠れしている。
亡くなった北嶋夫妻──北嶋ボンドと北嶋芙美は、栞里に秘密の全てを託してこの世を去った。残された栞里は途方に暮れてしまっていた。1人で抱えるには重すぎる。
(もう2人はいないし、このお家も…ないんだ)
栞里は孤独に押しつぶされそうだった。夫婦と共有していた秘密は、晴にはもちろん祐輔にも話していない。
愛のことは心配だが、どうすることもできない。今はただ晴を守ることが自分の役目だ。栞里は必死に自分に言い聞かせた。
すると、突然後ろから声が響いた。
「ねぇ、この家がどうかしたの?」
栞里はビクッと肩を震わせて驚く。恐る恐る振り返ると、黒スーツに身を包んだスラリと背の高い男が立っていた。
「初めまして。君は中川栞里だね」
声の主──ロユンは、興味深そうに栞里を見据えている。栞里はごくりと息を呑んだ。名前を知られている上に、この見慣れない顔。ただならぬ人物だと一目で分かったからだ。
「あなたは、もしかして…」
「僕はコワから来たんだ」
(……コワ!!!)
栞里が微かに反応して青ざめる。それを見たロユンは、口元が緩むのを我慢できなかった。
(やっぱり、こいつは何か知っているようだ)
「聞きたいんだけど、先日火事で死んだ夫婦が何者か、君は知っているんじゃないかい?」
「……」
栞里は冷や汗を流しつつも沈黙を貫いた。面白そうにその様子を眺めながらロユンが続ける。
「答えないなら質問を変えようか。君の娘の中川晴だけど、あれは本当に君の娘かい?」
栞里の顔色が変わる。
「中川晴は今日、学校に行ってないらしいじゃないか。彼女を外に出さないのは、コワからの脅威を恐れたからだろう。北嶋愛が姿を消したと聞いて焦ったんじゃないかい?あと、彼女が悩んでいるという色の違う髪は、もしかしたらただの白髪じゃなくて…」
「もういい、やめて!!」
栞里は思わずロユンの言葉を遮った。ロユンは黙って栞里を見つめている。目の前の男にどこまで知られているのかと恐ろしくなり、栞里の頰を汗が伝った。
「……晴をどうするつもり?」
絞り出された小さな声に、ロユンはにっこりと微笑む。
「あるべき場所に連れて行くだけさ。僕を娘さんに会わせてくれないかい?」
穏やかな口調であったが、有無を言わさぬ迫力があった。さらに、ロユンの背後から体を覗かせた男たちがギラギラと睨みをきかせている。栞里は頷くしかなかった。
「さあ、行くよ」
男に手を掴まれて連行される。恐怖と絶望の中、栞里は黒い地面を振り返って祈った。
(どうか、私たちの娘が無事でいられますように…!)
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