第2話 火のないところに
その日の放課後。学校も無事に終わり、晴と愛は仲良くお喋りしながら並んで歩いていた。
「……ん?なんか騒がしいね」
すると、愛の家まであと角を一つ曲がるだけというところで、近所の人たちが外で集まっているのが見えてきた。
不思議に思った愛が小走りで近づいていく。
(あれは……)
愛に置いていかれるのにも構わず少し空を見上げた晴は、もくもくと黒い煙が立ち上がるのを見た。意識してみれば、何かが燃えている匂いがするのもわかる。冷や汗を感じながら、角に消えていく愛の背中を慌てて追いかけた。
「っ!すみませ……」
そのままの勢いで角を曲がったせいで、晴は立っていた人の背中に思いきり突っ込んでしまった。咄嗟に謝りかけてすぐに、それが愛だと気づく。
「愛?」
立ち止まったまま呆然と前を見る愛の視線を追い、晴は息を呑んだ。
家が燃えている。
火事に気づいた近隣の住民が集まっているが、激しい炎に誰も近づけず、叫び声や悲鳴が飛び交うばかりだった。すでに炎は家全体を覆うほど大きく、晴のいるところまで鼻につく悪臭が漂っている。
愛が立ち止まったまま動かないのは、火事に驚いたからだと思っていた。でも違った。晴は燃え盛る家をよく見て事態を察し、血の気が引くのを自覚する。
屋根まで炎にゆらめいて見えづらいが、周囲の状況から考えるに…それは愛の家で間違いなかった。
今朝、愛の父が手を振ったベランダが見える。半分ほど焼け落ちて、丈夫な柵が熱で歪んでいた。屋根も所々崩れ始め、庭の植木は激しく燃え上がり、玄関は炎の奥にあってもう見えない。
明らかに手遅れだった。
(……ど、どうしよう)
拳をきゅっと握り締め、晴はどうにか落ち着こうと自分に言い聞かせながら改めて周囲を見回した。愛の両親の姿はない。これに深い意味がないことを祈りつつ、知り合いのおばさんに駆け寄って声をかける。
「あの、すみません。あれって愛の…北嶋さんの家ですよね」
「そ、そうね。消防には連絡したんだけど、この辺りの住宅地は入り組んでいるから、到着が遅れているみたい」
連絡したあとずっと持っていたのだろう、彼女のスマホを握る手には力が入り震えていた。
別のおばさんが晴を見つけるなり声をかける。
「私、見たの。見慣れない人が3人くらい、北嶋さんの家に入って行ったのをね。北嶋さん夫婦は追い返そうとしていたけど、無理やり家に引き戻されてた。何かトラブルでもあったのかもしれないわね」
「トラブル……?」
愛の両親は普段、トラブルとは無縁な穏やかなふたりである。その来客と火事に関係があるかは定かではないが、もしあるとすれば…
「おい、危ないぞ、君!!!」
「離れなさい!!」
「いやあああああ!!!」
一際大きな叫びが響き、晴はハッと振り向く。炎にも構わず家に飛び込もうとした愛が、男性二人に必死に引き止められていた。
「パパ!!!ママ!!!!!!!」
晴は鞄を放り出して駆け寄り、愛の正面に回り込んで肩を押さえた。
「愛、危ないよ!下がって!」
「晴!!!!!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにした愛に強い力で腕を掴まれ、晴は一瞬顔を歪める。
「どうしたらいいの!?!?パパが、ママが……」
「落ち着いて愛、まずは安全なところに……」
「パパとママを助けないと!!!!」
完全に我を失った愛の様子に圧倒され、晴は何も言えなくなってしまった。
情けない。ここまで取り乱した愛を前に、かける言葉が見つからない。頭が空っぽだ。どうすれば良いのかわからなかった。
「パパと、ママは……」
震える愛の声。晴の腕を掴む力が抜けていく。晴はその冷たい手を優しく握りしめて、炎から少しずつ離れた。
背中に浴びていた強い熱が遠のいていく。
「………」
何も言葉が出てこなかった。晴は安全なところまで火から離れ、震える親友をぎゅっと抱きしめる。
「………っ、うう……」
しゃくりあげる愛の声を聞きながら唇を噛んだ。
(私は、どうすれば………)
集まった野次馬の一角で、晴の母は炎を眺めていた。手の力が抜け、持っていたスマホがゴツンという音を立てて地面に落ちる。
画面を上にして転がったスマホには、一件のメールが表示されていた。差出人は『北嶋ボンド』。
『君には心から感謝している。どうか、晴と愛をよろしくね』
簡潔な文章の差出人から、メールが届くことはもうない。膝から崩れ落ちた晴の母──中川
その後も炎は収まることを知らず勢いを増して、かろうじて立っていた門を乗り越えそうになった。
そこにぽつりと雫が一滴。予報外れの雨が降り始め土砂降りになり、道を濃く染めた。雨は炎を鎮め、地べたに転がった晴たちの鞄を湿らせて、すでに涙でぐちゃぐちゃだった愛の頬を濡らした。
ようやく消防車が到着したときには、炎はすっかり萎んでいた。続けてパトカーと救急車が到着し、作業員が瓦礫をかき分けて中へ入っていく。
焼け跡から生きた誰かが救い出されることはなく、警察はただ首を振って帽子を脱いだ。
愛の両親が、死んだ。
愛は警察に保護され、パトカーに乗せられて行った。呆然とそれを見送った晴は、目の前の現実に押しつぶされそうになっていた。何もできなかった自分と残酷な現実。焦げて真っ黒になった現場にいのちの気配はなく、ただ重い別れが横たわっているだけだ。
涙は出ない。
晴はしばらくそこに立っていた。
いつの間にか止んだ雨が湿った匂いを残している。冷たい風が一気に秋を深めたように思えた。
晴たちの一部始終を、少し遠くからじっと伺っていた黒い外車があった。そしてそれは、火が収められるのを見届けると同時に音もなく去っていく。
誰もそれに気付くことはなかった。
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