第46話 木蔦の薬 城外の館⑥
翌朝、ドナルはエル・カルドへと帰って行った。ディランは、寝台を整えるフィオンの動きが、いつもと違うことに気が付いた。
「フィオン、どうした。具合が悪いんじゃないか?」
「いえ、何でもありません」
何でもないと口では言っているが、体を庇うような動きはぎこちなかった。
「何でもない、ということはないだろう。背中をどうした」
「いえ、本当に……」
「フィオン!」
この人の目は誤魔化せない。フィオンは、観念してディランに背を向けると、灰色の上着と白いシャツを背中から滑らせた。フィオンの白い華奢な背中には、鞭で打たれた生々しい跡があった。鞭の跡は一箇所ではなく、以前に打たれたであろう跡が、いくつも残っていた。
「……ドナルか」
フィオンは、小さく頷いた。
「薬と包帯は、どこにある」
「食堂の棚に……でも」
フィオンが言い終わる前に、ディランは部屋を出て行くと、薬箱を手にすぐに戻ってきた。薬箱を開け、陶器の入れ物を取り出し、中身を確認する。いくつかある薬の中から、小麦草で作った傷薬を取り出した。
薬の入った陶器の入れ物には見覚えがあった。恐らく、グレインネが作ったものだろう。
フィオンを椅子に座らせると、手にとった傷薬を背中の傷にそっと塗り込んだ。フィオンは小さな悲鳴をあげ、身を固くした。ディランは、フィオンの背中に清潔な布を当て、上から包帯を巻いていった。慣れた手つきで包帯を巻き終えると、寝台にうつ伏せに寝かせた。首筋に手を当ててみたが、熱はなさそうだった。
「なぜ、打たれた? 使用人を鞭で打つ事は禁じられているはずだ」
もちろん、それが守られていない場合が多いことは、ディランも承知の上であった。実際、辺境の砦では、そういったことから逃れてきた人間が多くいた。
「昨日、ルーイが手違いを……あの子たちは、まだ小さいので……私が代わりに」
「いつも、そうなのか?」
「私が、そうしてくれと……あの子たちには……こんな事は……」
フィオンは、替えたばかりの敷布を握りしめた。
「お前たちの親は、承知しているのか?」
「私どもに、親はおりません。私たちは、皆……孤児院から引き取られて、働いているので」
『孤児院』と聞いて、シルヴァとマイソール卿が何かを話していた事を思い出した。内密の話のようだったので、あえて聞きはしなかった。何か関係があるのかとも思ったが、今更確かめようもない。どちらにしても今の状況は、彼らにとって良いものではないだろう。
「いえ、ここは……そんなに……悪い場所ではありません。確かに時々……こんな風に打たれることもありますが、食事も……ちゃんと食べさせてもらえます。着るものも……住むところもあります。
そうやって、気まぐれに癇癪と優しさを交互に出して、相手を支配するのがドナルのやり方なのだろう。端から見ているとおかしな事も、時々優しくされる当人は気づかない。ましてや、親のいない年若い者であれば……。
「その癇癪は私のせいか。昨日、ドナルを怒らせたからな。あれでも頑張って、大人しくやられたつもりだったんだが。こんな事になるのなら、いっそのこと袋叩きにした方が良かったのかもしれないな」
「そんな……恐ろしい事は言わないで下さい。それにもし……ドナル様を怒らせて……孤児院が無くなってしまったら…………今、いる子たちが困ります」
「彼に、どう言われているのか知らないが、ドナルにそんな権限はない」
「……本当……ですか?」
フィオンは、信じられないという顔をした。
「七聖家は基本的に合議制だ。ドナルがいくら孤児院を潰すといっても、他の聖家の人間が反対すれば、決まることはない」
「でも……ドナル様が……」
「ドナルの言った事は、いったん忘れろ。孤児院は、簡単には無くならない」
フィオンは固まったまま動かなくなった。ディランの言葉が受け入れられないようであった。
「私は書斎に行ってくる。今日はそのまま寝ていろ」
ディランが部屋を出ると、廊下でルーイとキアランが、フィオンを捜していた。
「お前たち。ちょっと頼まれてくれるか?」
ディランの頼みに、二人はぱっと顔を明るくして、館の外へと飛び出して行った。
ディランは二階へ行き、書斎の鍵を開けると、懐から一枚の書面を取り出した。この館の見取り図だった。そこへ昨日入った地下室を書き加え、必要な部分は、ほぼ完成した。
見取り図を手に取り、柔らかな椅子にもたれて眺めていると、書棚にある一冊の書物が目に入った。エル・カルドの法律書だった。今度はそれを手に取り、ぱらぱらとめくり目を通した。最後のページには、第三聖家の伯父リアムの名が記されていた。
あらゆる物事に、網の目のように法律が張り巡らされたローダインとは違い、エル・カルドの法は実に簡素だった。例外的なことがあると、それらは全て七聖家の会合において、多数決で決められることになっていた。
常に、様々な国や地方から人が流入してくるローダインと違い、少数の固定化された人々の間では、細々とした取り決めは法よりも慣習で決まることが多いのだろう。
このような仕組みでは、自浄作用が働くことはまず無い。基本的に七聖家の人間が罰を受ける事は無いだろう。例え、ドナルがローダインを裏切ろうが、年若い使用人を鞭で打とうが、エル・カルド内で彼が罰せられることは恐らく無い。
特にドナルは、今の七聖家の会合では、唯一の〈
魔道符が、あの老人の手によって作られていることは、はっきりした。あとは、フォローゼルの誰と繋がっているのか、確認したいところだった。
ディランがこの館に来てから、まだ一度も客人は訪れていない。だが、雪が溶けて、フォローゼルとの国境が開かれれば、人の往来も始まる。そうすればおそらく……。もうしばらくは大人しく、ドナルのいいなりになっておく必要がありそうだった。
◇ ◇
フィオンが目を覚ますと、部屋には誰もいなかった。いつの間にか、眠ってしまったようだった。
(お客様の寝台で……)
フィオンは、慌てて飛び起きると、シャツと上着を急いで身に着けた。昨夜は、痛みであまり眠れなかったとは言え、あまりの失態だった。
廊下に出ると、応接室から賑やかな声が聞こえてくる。
「ディラン様。これでいいですか?」
「ルーイ。重ねると乾かないぞ。もう少し離せ」
「ディラン様。これも、洗ってきます」
「待て、キアラン。そんなにたくさん、どうするつもりだ。薬屋でも開く気か。半分捨ててこい」
「嫌です。全部、薬にします」
(薬?)
フィオンは、そっと応接室の扉を開けた。
「フィオン!」
ルーイとキアランは
「ケガは、大丈夫?」
キアランが、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「うん、大丈夫。……ディラン様、申し訳ありません」
「もう、いいのか?」
「はい。……あの……これは?」
応接室の中は、
「木蔦の葉だ。薬箱にあったのは小麦草の薬だった。小さな傷ならあれでいいが、その傷なら木蔦の薬の方がいい。心配しなくても、砦で兵士たちも使っていた物だ」
「これ、全部薬にして、フィオンにあげる」
キアランは、うれしそうに籠いっぱいの木蔦の葉を見せた。
「だから、採りすぎだ。捨ててこい」
「嫌です。たくさん塗って、早く治って欲しいんです」
「たくさん塗っても一緒だ」
「……」
キアランは、この世の終わりのような顔をした。
「じゃあ、今のが乾いてからだ。それでいいな」
キアランは、大事そうに抱えていた籠を、応接室の角に置いた。
「あの……ありがとうござ……」
「もっと筵を取ってきます!」
ルーイが、フィオンの後ろを走り抜けた。
「廊下を走るな!」
フィオンは、ルーイとキアランの様子を見て、二人が、孤児院にいた時の元気さを取り戻していることに驚いた。
風がガタガタと、館の窓を揺らし始めた。
「吹雪になる。ドナルは、しばらく来ないだろう。今のうちに休んでおけ」
ディランの言葉通り、吹雪は数日続いた。館は白い闇に包まれ、世界から切り離された穏やかな時を過ごした。
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