第34話 館の結界 城外の館④

 その日、フィオンは喜んでいた。ドナルの帰宅が、一日延びることになったという連絡が来たからだった。エル・カルドの政治的な混乱は予想以上で、様々な工作にかなりの時間をとられているようであった。

 

 勉強ができる。フィオンは仕事の合間に、ディランが木の板に書いた文字を何度も指でなぞり、声に出して覚えようとしていた。自分が覚えると、今度はルーイとキアランに板を渡し読み方を教えた。


 自分から言い出しただけあり三人とも覚えは早く、文字を書いた板はどんどんと増えていった。三人は、ドナルに見つからないようにと、板をそれぞれの寝台の下へ分けて隠した。

 

 三人が勉強に夢中になっているのを見て、ディランは少し館の外へ出てみることにした。剣を帯び、マントを羽織り、指輪を外すと部屋の文机に無造作に置いた。

 

 外は雪が積もっており、灰色の空からは絶えず白い雪片が舞い降りていた。出歩くのに適した天気ではなかったが、ドナルが帰って来る前に少しでも外の状況を知っておきたかった。


 試しに雪の中を一方向に歩いてみる。少し歩いて振り返ると、足跡が残っていた。結界という物がどのように作用するのか。ディランにとっては、未知のものであった。結界を調べるには足跡が頼りになるだろう。


 ひたすら一方向へ歩いていると、不意に視界が歪んだ。足下を見ると、自分の足跡が目の前に続いており、後ろを振り返ると館がすぐそばにある。

 

 (戻されたのか)

 

 もう一度、同じ方向へと歩いて行った。先ほどの足跡が途切れた場所に来ると、やはり視界が歪み、いつの間にか館の近くに移動していた。これが、結界の効果なのか。その後も、方向を変えて試してみたが、結果は同じだった。

 

 冷え切った体で館に戻り、扉を開くと、フィオンが顔色を変えて走り寄ってきた。

 

「どこへ行かれていたんですか!」

「散歩だ。心配するな」

 

「そんな格好で、死んじゃいますよ。すぐにお湯の用意をしますから」

 

 結界を調べるのに気を取られていたが、長衣の裾は雪にまみれ、手足は紫色に変わっていた。雪が降り積もった髪は館に入った途端、ぐっしょりと濡れ、水を滴らせた。桶に入れられた温かいお湯に足を漬けると、手足はすっかり元の色を取り戻した。髪を乾かし、新しく用意された服に着替えると、フィオンが香辛料を入れた熱い葡萄酒を持ってきた。ディランは暖炉の前の椅子に座ると、湯気の立つ葡萄酒を手にした。

 

「明日にはドナル様が帰ってこられます。あまり、お怒りを買うような行動は……」

 

 ディランがいなくなれば、フィオンは自分が罰を受けるのだと、恐れているようだった。

 

「これくらいはドナルも想定内だろう。それでも、結界の外へは出られないという自信があるはずだ。ドナルは私が館にいれば、それで満足するだろう」

 

「それではもう、あのようなことは」

「今度は、毛布でも被っていく。少しはましだろう」

「ディラン様!」

 

 フィオンは、やめてくれと言わんばかりに声を上げた。

 

「もう少し、確かめたいことがあるんだが」

 

 フィオンが部屋をでると、ルーイとキアランが心配そうな顔をして廊下で待っていた。フィオンは、二人の背中に手をやり、心配ないと慰めた。 

 

 翌日、ディランは部屋の掃除をするのでと言われ、応接室へと追いやられていた。退屈しのぎに部屋の中を見回していると、ふと壁にかかっている書のようなものが目に入った。初めてこの部屋へ来た時には気が付かなかったが、その書は随分と古い文字のようだった。

 

 それは麻布に地塗りをした生地に黒い絵の具のようなもので書かれており、仮止めのように板の表面に、直接鋲で打たれていた。何となく、聖剣の鞘に書かれていた文字に似ているような気もしたが、よくわからなかった。


 ディランが書の前に立ち不思議な文字を眺めていると、外から馬のいななきが聞こえた。ドナルが戻って来た。馬車はソリへと変わっていた。館に入ったドナルは真っ先に応接室へやってくると、ディランの姿を認め、満足そうな顔をした。

 

「ちゃんと大人しくしていたようだね。その書が気になるか?」

 

 ドナルは話しながらディランの後ろに立ち、同じように文字を眺めた。

 

「これは? 古い文字のようですが」

 

「これは、古歌だよ。神々の言葉とも言われている。面白いから飾っているのさ」

 

「古歌? あれは、文字にしてはならないと聞きましたが?」

 

 〈聖剣の儀〉の前日、トーマが言っていたことを思い出した。

 

「ローダインで育ったにしては、良く知っているな。その通り、口伝でのみ許されたものだ」

 

「それが、なぜ書に?」

 

 トーマは確か、どんな文字で書かれていたのかわからないと言っていた。

 

「さあ。昔、誰かが残していたんだよ。ただ、どう読むのかはわからないし、本当に古歌なのかどうかも疑わしいものだがね」

 

 ドナルは、後ろからディランの両肩に手を置き、顔を近づけた。

 

「これを、研究していた人間がいてね。君がそれほどこの書に興味を持つとは思わなかったよ」

 

 そして耳元で、甘く響く声でささやいた。

 

「このまま大人しくしているのなら、今度はこれを研究していた人間に会わせてやっても良い。ここの、地下にいるんだがね」

 

 ドナルは、しかめ面をするディランを笑いながら応接室を出ると、フィオンを伴い自室へと向かった。


 ドナルはこの館での用事を済ませると、またエル・カルドへ帰って行った。

 

 ドナルが館を去ると、館内は再び落ち着きを取り戻し、フィオンたちは勉強を再開していた。その様子を見て、ディランも結界を再度調べる事にした。

 

 初めに川から引かれているという、水道の木樋もくひに沿って歩き出した。時々、自分の足跡を振り返り、確認しながら歩いた。木樋は地面に埋め込まれ、落ち葉や雪に覆われていた。蓋に手を当ててみると、水が通っているのがはっきりとわかった。


 この結界は、水を通すということか、あるいは地下へは及ばないということか。一瞬、穴を掘ってみることも考えたが、一人で冷たい大地を掘ることは現実的でないと思い断念した。砦にいる頃ならば、人を使うことも容易であった。今は自分一人なのだ。できることは限られている。

 

 ディランはひたすら、水道の木樋をたどって歩いた。すると、川へたどりつく前に視界が歪み、館の近くまで戻されていた。何度か繰り返してみたが、やはり結果は同じだった。


 だが、ここへは馬車で入って来ているのだ。何かしら出入りする方法があるはずだ。

 

 館では、フィオンが呆れた顔で出迎えたが、今度はすでに湯桶の用意ができていた。前と同じように温かい湯に足を浸け、熱い葡萄酒を飲み、暖炉の前の椅子に腰掛けた。


 フィオンも今回は、「足が凍傷になりますよ」と穏やかに注意するだけで、他には何も言わなかった。これくらいでは、自分たちに罰を与えられることはないとわかったのだろう。

 

 『地下の住人に、会わせてやっても良い』

 

 やはり地下に誰かいるようだった。ディランはグラスに残る最後の一口を飲み干した。口の中に、ざらついた香辛料の感触が残った。

 

 結界の調査は、寒い思いをしただけに終わった。結局、ドナルの気まぐれを頼りにするしかないようだった。ドナルには嫌悪感しかないが、多少のことは飲み込むしかないだろう。ああいう男は優越感に浸らせておいた方が良い。彼が求めるのは、従順な人間だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る