第33話 共通語《コムナ・リンガ》 城外の館③
昔、バルドという吟遊詩人は言った。
『エル・カルドの言葉は、大陸の古語に似ている』
その後、バルドは次のような仮説を立てた。
『大昔、エル・カルドの言葉は大陸全土で使われていた。その後、結界により孤立したエル・カルドは、その言葉も独自に変化し、大陸でもまた、地域によって様々に変化していった。やがて昔の大国が影響を及ぼした国々では、大国の言葉が
大陸中を巡り、各地の言語に通じたバルドの意見ではあったが、吟遊詩人のたわごとと相手にする学者はいなかった。
実際にはエル・カルドの言葉と
一夜明けて、フィオンが着替えを持ち客室を訪ねると、中から何かが空を切る音が聞こえた。そっと扉を開けて中を覗くと、ディランが部屋で剣を振っていた。
フィオンは調度品が傷つかないかと冷や冷やしたが、見ているうちにその心配がないことがわかってきた。長い髪を後ろで一つに束ね、剣を振る姿は美しかった。動きに無駄はなく、様々な体勢から繰り出す剣には、寸分の迷いも狂いもなかった。
剣は野蛮だとずっと聞かされてきたが、鍛錬を積んだ人の動きというのはこれほどまでに美しいのかと、フィオンはしばらくぼんやりとその動きを目に映していた。ディランの振り向きざま、不意に目が合うと、フィオンは慌てて姿勢を正した。
「お目覚めでしたか。お召し物をお持ちしました」
「その前に、水を一杯くれるか」
フィオンは、グラスに水を入れて運んできた。ディランは首元の汗を拭きながら、盆に載せたグラスを手に取り、ぼんやりとした外の明かりにかざした。
水というものは、その場所の様々な知識を与えてくれる。フィオンが持ってきた水は、臭いも濁りもない綺麗な水だった。
「いい水だな。川の水か?」
「はい」
「このまま飲んで、大丈夫か?」
「はい。どこの村も通っていない、きれいな川ですから。僕も、そのまま飲んでお腹を壊したことはありませんよ。一応、濾過器は通してますし」
「川まで汲みに行くのは大変だろう」
「いえ、川から館まで水道を引いているんです。洗い場で汲めますよ」
フィオンは、無邪気に答える。
(村を通っていない川。川から水道を引ける距離)
ディランは水を飲みながら、頭の中の地図を頼りに少しずつ館の位置を特定していく。騎兵団では、野盗の取り締まりも頻繁に行っていたため、エル・カルドから辺境に至る地形や村は大方、頭に入っていた。昨日の午前中、馬車で引きずり回されたが、おおよその館の位置は把握できた。
グラスを片付けると、フィオンは着替えの服を寝台の上に並べ始めた。昨日と同じ、第二聖家の長衣であった。
「また長衣か。ドナルのいない時はいいんじゃないか?」
ディランは、うんざりとした表情をした。
「申し訳ありません。ドナル様のご命令で」
「お前が謝る必要はない。七聖家らしい格好をしろということだろう」
ディランは、並べられた服を次々と頭から被った。
「長衣はお嫌いですか?」
「動きにくい」
直接の理由はそれだけだったが、大の大人が着るものをあれこれ指図されるというのも、正直気分の良いものではなかった。子供のままごとにつきあわされているような気分だった。自身は、さほど着る物に関心はなかったので、ドナルの執着心が理解できずにいた。
フィオンは、ディランを椅子に座らせると、束ねていた髪をほぐし、丁寧に櫛を入れ始めた。ディランは面倒くさそうな顔をしているが、フィオンはこの作業が気に入っていた。僅かに湿り気を帯びた長い髪を手に取り、ところどころ引っ掛かりのある箇所を指でほぐしては櫛を入れた。やがて黒い滝のような輝きが、背中一面に広がった。
髪を梳かしながら盗み見るその姿は、ため息が出るような美しさだった。フィオンの目には、この客人には優雅な長衣が似合っていると思ったのだが、本人はあまり関心がなさそうな様子だった。
「ディラン様がおられた所では、こういったものは、あまり好まれないのでしょうか。七聖家の皆さんは、普段からこういう服をお召しになられていますよ」
『皆さん』と言われて約一名、例外がいるような気がしたが、そのシルヴァでさえ記憶にある限り、灰色の服を着ていたことはなかったような気がする。シルヴァの第六聖家は、赤を基調とした色を身に着けている。どれほど汚い格好をしていても、おそらくそれは変わらなかった。もっとも、彼の服の色など気にした事もなかったので定かではないが。
「ローダインで、こういった服を着るのは文官か神官だけだ」
「外の世界は、エル・カルドとは違うのですね。私は外の世界の方とは、今まで話をしたことがありませんでした。言葉もわかりませんので」
〈外の世界〉エル・カルドから結界が無くなった今も、エル・カルド人の意識は、以前とあまり変わっていないようだった。例え結界がなくなっても、様々な壁が、まるで結界のように外の世界とエル・カルドを隔てていた。言葉もまた、その一つだった。
「そういえば、ここの主人は
「はい。ドナル様は、そのような言葉を話す必要は無いとおっしゃって」
「ここの人間は、皆そうなのか?」
「はい。皆エル・カルドの言葉しか話せません。あの……ディラン様はエル・カルドの言葉で話すのは、お嫌ですか?」
「嫌な訳ではないが、普段使っていないから、やはり疲れるな」
ディランは椅子から立ち上がると、軽く腕を回した。フィオンは、その様子をみながら陶製の洗面器に水差しから水を注ぎ、木製の台に置いた。
「では、私が
ディランは洗面器に手を入れ、顔を洗うと、水を滴らせながら顔を上げた。フィオンは、素早くリネンを手渡した。
「……話せるようになるって、どうするつもりなんだ?」
「あの、教えて……もらえませんか?」
「私が教えるのか?」
顔を拭きながら、ディランは眉を寄せた。
「だめでしょうか?」
フィオンの突然の申し出に、ディランは違和感を覚えた。この少年は、ドナルに何か言われたのではないか。
「ここに、それほど長居をするつもりはない。明日、いなくなるかもしれない」
「それでも構いません。少しだけでも教えていただければ。……すみません。本当は自分のためです。ドナル様には
フィオンの、らしからぬ強引さに確信した。この少年は見張りだ。ドナルから何か理由をつけて、側で見張るように言われたのだろう。ただし
「私は構わない。だが、ここの主人はどうする? ドナルは
「そのことですが、できれば内密に。ドナル様が、いらっしゃらない時だけで結構ですから。仕事の手が空いた時とか、夜に仕事が終わってからとか」
「私はいつでも構わない。どうせ、他に大してすることもない」
「あと、教わったことを、ルーイやキアランにも教えて良いでしょうか?」
「好きにすればいい。だが、みんな一度に勉強して、ここの主人にばれないか?」
「大丈夫です。ドナル様の気性は、みな存じておりますから。わざわざ怒りを買うようなことは申しません」
「それならいい」
「ありがとうございます」
フィオンは洗面器の水を窓から捨てると、ほっとした表情で部屋を辞した。おそらく、言いつけを果たす事ができたのだろう。
騙し合いは、既に始まっているようだった。
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