第17話 詠唱と古歌

 突然、家に戻っていたシルヴァが、青い顔をしてやってきた。シルヴァもまた、風呂に入れられたのだろう。すっかり小綺麗になり、自分の家の色である、濃いエンジ色のチュニックへと着替えていた。

 

「おー。ここは、何か楽しそうだな。俺も、こっちに泊まろうかな」

「何いってんの。あんたは、家に帰んなさいよ……ってどうしたの? 顔色悪いわよ」


「忘れてた」

「忘れてたって、なにを?」


「詠唱。〈聖剣の儀〉の時に唱えるやつ」

「何それ?」

 

 エディシュは首をかしげた。

 

「この前の時は、覚えるのに朝から晩までしごかれて五日かかったんだ。今回、あと一日しかない。何のために、早く帰ってきてたのか忘れてた。お前らを迎えに行ってる場合じゃなかった」

 

 シルヴァは呆然と立ち尽くしていた。

 

「何かわからないけど、一回覚えたものなら今度は思い出すだけでしょう?」

「それが、そうでもない。全く意味のわからん言葉だし、まるっきり忘れてる」


「書き付けとかないの?」

「口伝で、文字に残しちゃ駄目だって言われてる」


「じゃあ、誰か知ってる人に教わってきなさいよ。ここへ来ても、どうにもならないでしょう」


「さっきまで、教わってたんだよ。七聖家の会合があるから、もう帰れって言われて……明日までに、覚えられる気がしない」

 

 シルヴァは頭を抱えて座り込んだ。

 

「そんなこと、あたしたちに言われても……ディラン、何か知ってる?」


「いや。もう、口だけ動かしておけばいいだろう」

 

 シルヴァは、立ち上がるとディランに詰め寄った。

 

「お前、よくそんな事が言えるな。俺のせいで、ウィラード殿下の〈聖剣の儀〉が失敗したらどうするんだ」


「お前の詠唱に、そんな効果があるのか? ただの儀式だろう」

 

 ディランは冷やかに言い放った。意味すらわからない詠唱に、特別な効果があるとは思えなかった。

 

「何の根拠があってそんなことを。無責任なことを言うなよ」

「無責任は、覚えていないお前だろう」


「ああ、もう。あんたたち、うるさい。結局、シルヴァが覚えれば済む話でしょう? 何で、そんなに覚えられないのよ」


「お前ら、知らないからそんなこと言えるんだ」

 

 シルヴァはがっくりと肩を落とし、うつむいた。

 

「だって、知らないんだもん。じゃあ、どんなのか覚えてるとこやってみなさいよ」

 

 エディシュに促され、シルヴァはようやく覚えた詠唱の一節を唱えてみた。聴く限りその言葉には、今の共通語コムナ・リンガとは何の繋がりも感じられなかった。

 

「ごめん、シルヴァ。あたし、舐めてたわ。これは無理。あんた、よく前回覚えたわね」


「だろ? これが全部で、十節もあるんだぜ」

 

 涙目になるシルヴァの背後から、トーマが声をかけた。

 

「あの、シルヴァさん。もしかして、その詠唱ってこんなのですか?」

 

 突然、クラリッツァの音が始まり、トーマが声変わりで出ない声を振り絞って歌いだした。

 

「……トーマ。これは……」

 

 シルヴァの知らない旋律はついているものの、紛れもなく〈聖剣の儀〉の詠唱であった。トーマは途中で咳き込み、これ以上歌うことは断念した。

 

「ごめんなさい。これ以上は声が出ません。古歌にあるものですね。師匠に教わりました」


「へえ、これって古歌なの。エル・カルドの言葉って、大陸の古語に近いって聞いたことがあるけど、古歌っていうのはまた別なの?」


「古歌は、もっと古い時代のものだそうです。いつのものかわからないくらい。神様の言葉なんじゃないかっていう人もいるそうです。これもやっぱり文字にしてはいけないと言われました。といっても、どんな文字で書かれていたのか、よく知らないのですけど」


「……トーマ。……お前は神か。そうだ。メシが済んだら、俺の家に来て教えてくれ。何なら家に泊まれよ」

 

 先ほどまでとは打って変わって、シルヴァの顔は明るくなっていた。

 

「いいんですか?」


「俺と親父しかいないから気兼ねすんな。じゃあ、俺もメシ食いに帰るわ。うちの家は城から二番目だから。持ってるぜ」

 

 足早にシルヴァは帰って行った。

 

「落ち着きのない奴だな」

 

 ディランは呆れて窓際の椅子に座り、外を眺めた。

 

「トーマを連れてきて良かった。あんた、すごいわね。本当に色々なことを教わったのね」

 

 エディシュの言葉を聞いてトーマの心には、嬉しさと後ろめたさが混じった。師匠から教わった歌、言葉、知識。自分はその価値をどれだけ理解しているのだろうか。


 

 ゼーラーン卿とコンラッドが打ち合わせから戻ってくると、通訳のミッダが食事の開始を告げにきた。ジルとニケは、別室にある使用人たちの食堂へ行こうとしたが、コンラッドに諭されて、渋々客用のテーブルに着いた。

 

 (これ、食った気しないやつだ)

 

 ジルとニケは、顔を見合わせたが、雇い主の意向には逆らえなかった。トーマは、何の躊躇ちゅうちょもなく席に着いていた。灰色の服を着た人々が、次々と銀器や皿に入った料理を運んでくる。

 

 こういう時、育ちの違いを実感する。灰色の服を着た人々が、後ろにぴったりと控え、客人の一挙手一投足を見守った。ジルにとって、ここでの食事は拷問でしかなかった。前に座るニケもまた、心なしかいつもより小さく見える。

 

 ちらりとトーマの方を見ると、こちらは平然としていた。吟遊詩人は、高貴な身分の者との会食も多いのだろうか。これもまた、師匠の教育の賜物だろう。ジルは自分の存在が、少し心もとなくなった。

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