第16話 流行り病の痕跡

 エディシュとニケには別の浴室があてがわれ、灰色の服を着た使用人とおぼしき二人の女性が、着替えと浴衣をうやうやしく持ってきた。共通語コムナ・リンガは話せないようで、身振りでこれに着替えるように伝えてきた。二人の女性は入浴を手伝おうとしたが、それは断った。すると女性たちは、背を向けて浴室の入口に立った。

 

「ニケ、どうしたの? お風呂入ったら?」

 

 エディシュは浴衣よくいを身に着け、湯船に浸かりながら、気持ちよさそうに伸びをした。薄暗い石造りの浴室は上質な香油の香りに溢れており、心地良い空間を彩っていた。

 

「いえ、私は入口で見張っていますから」

 

「その人たちがいてくれるから大丈夫よ。それに、お風呂に入らないと食事が出てこないわよ」

 

 そうエディシュに言われ、ニケは浴衣に着替えると、ゆっくりと湯船に体を沈めた。

 

 ニケは全くの丸腰になることを警戒していた。ボドラーク砦の騎兵団でも、身体と衣服を清潔にすることは厳しく言い渡されていたので、風呂に入ること自体、不服はない。常に前線に立つ騎兵団に、怪我はつきものだった。身体と衣服の清潔さは、その怪我の治りを左右するものだ。そこには、はっきりとした理由があった。だが、ここで風呂に入れられる理由が、ニケにはわからなかった。

 

「……そんなに、お風呂って大事なことでしょうか?」

 

 ニケは体についた無数の傷跡に、無意識に指で触れていた。その様子を見てエディシュは口を開いた。

 

「エル・カルドは開国して間なしの頃に、流行り病が蔓延してね、人口が半分に減るくらい酷い被害が出たの。その時にローダインの学者たちが、外から入ってくる人を、清潔にさせると効果があるって言ってね。それで外からここの城内に来る人には、お風呂に入ってもらうことになったの。同じようにその頃、ローダインでも物凄い数の浴場が、あちこちにできたのよ。それは、アルドリック陛下の趣味と実益を兼ねたものだと思うけど。でも実際、それ以降は大きな流行り病が起きていないから、効果はあるんじゃない?」

 

 旅の疲れを癒すというのは方便で、実際には病の元を落とす事を期待されているようであった。それはそれで、ニケには何やら面白くなかった。

 

「随分とお詳しいですね」


 つい、口調がとげとげしくなった。


「だって、その時エル・カルドで事態の収拾にあたっていたのが、私のお父様だったから。結局、お父様も流行り病にかかって、亡くなっちゃったけど」

「そうでしたか」

 

 ニケは申し訳なさそうな表情で下を向いた。ぴりぴりとした切迫感が一気に鳴りを潜めた。

 

「気にしないで。もう昔の話だし。小さい時に父親が死んだなんて、別に珍しい話でもないでしょう? 当時は、あちこちで戦もあったんだし、戦死した人間だってたくさんいるわ」

 

 エディシュはニケに背を向け湯船から上がると、洗い場で頭から湯をかけた。


 二人が浴室から出ると、灰色の服の女性たちは着替えを手伝いだした。エディシュに用意されたのは、上質の絹の長衣で、七聖家の人々が着用するのと同じものだった。

 

 エル・カルドにおいて衣服は、七聖家の家ごとに色が決められており、第一聖家は紫、第二聖家は黒、第三聖家は黄、第四聖家は青、第五聖家は茶、第六聖家は赤、第七聖家は緑であった。もちろん家の中では何色を着ようと自由であったが、公の場では所定の色を着用することが求められた。そして、エディシュたちに渡された白は客用であり、冠婚葬祭用でもあった。

 

 エディシュは灰色の服の女性たちに、金糸で彩られた白い長衣を着せてもらった。

 

 「見て、ニケ。お姫様みたい」

 

 その上から羊毛の暖かそうな白いショールを羽織らせてもらい、くるりと回ってみせた。

 

「お姫様みたい、とは……エディシュ殿はゼーラーン家の姫君ではありませんか」

 

 呆れた顔を見せたニケもまた、金糸こそ施されてはいなかったが、エディシュと同じように絹の長衣とショールを身に着けていた。褐色の肌に、白い絹の輝きが美しく映えた。

 エディシュとニケは、灰色の服の女性たちに肌や髪を整えてもらった後、皆の集まる食堂へ向かった。

 

 食堂の前の廊下では、トーマがクラリッツァを弾いていた。トーマの周りには、ジルと下働きの者たちが集まり、音楽を楽しんでいた。そこにいる下働きの者たちは、皆同じように白いリネンのチュニックと下衣を着用している。

 

 白衣の人々を見てエディシュは、この国にはまだ流行り病への恐怖が残っているような気がした。


 下働きの者たちは、エディシュの姿を認めると使用人用の食堂へと戻って行き、ジルとトーマはエディシュたちと一緒に客用の食堂へと移動した。


 ゼーラーン卿とコンラッドは、既に打ち合わせのために出かけていた。

 

 トーマは下働きの者たちと同じ格好をしており、ジルはニケと同じ白い長衣で、足元は皆革底のサンダルだった。白い衣は、まるで清掃済みの印のようだとエディシュは思った。

 

「ジル。よく、あんたの着られる服があったわね」

「ええ、コンラッドさんが、先に言っといてくれたみたいで」

 

 兄は、こういった調整に抜かりがない。常人よりも二回りは大きな体のジルは、しばしば着るものに苦労していたが、それもちゃんと準備されていた。

 

「ただ、こんなお上品な服は、俺にはちょっと。剣も城へ入る時に預けちまったし、何か落ち着かないなあ」

 

 ジルは、着慣れない丈の長い服が気になるようで、しきりに裾を持ち上げて歩いていた。

 

「トーマも、お風呂に入った?」


「はい。さっぱりしました。以前、師匠と旅をしていた時も、ご領主の前に出るのだから、といってお風呂に入れられた事はありますけれど、新しい服まで用意されるなんて初めてです。エディシュさんも、すごくきれいですよ」


「ありがとう。そんな事言ってくれるのはトーマだけよ」

 

 吟遊詩人の誉め言葉を真に受けるなとは言われるが、トーマの言葉には、他の吟遊詩人のような浮つきは感じられない。子供の素直な感想は大事にしてやるべきだ。エディシュはトーマの頭を抱え込み、ぐりぐりと撫で回した。

 

 不意にカチャリと食堂の扉が開き、エディシュの目に、青い衣をまとった人物が映った。それと同時に、ジルとニケが、ほうと息を吐くのが聞こえた。

 

「ディラン、その服……」

 

 銀糸がふんだんに縫い込まれた深い青色の長衣は美しく、優美なエル・カルドの衣服を身に着けたその姿は、女の目から見ても腹が立つほど美しい。つい先日まで、戦場に出ていた同じ人物とは思えなかった。当たり前ではあるが、長い髪を除いてはエル・カルド人そのものだった。

 

「父の家の者が持ってきた」

「それは、お父様の? ずいぶん前の物よね。大事に取ってあったんだ」

 

 エディシュは、興味深く植物柄の刺繍が施された布地に、顔を近づけた。着ている服が変わったに過ぎないのに、エディシュは何故か別人を見ているような、妙な気持ちになった。

 

「ずいぶん重いし、動きにくい服だ」

「そりゃ、これだけ見事な刺繍なんだから。文句言わないで着てなさい。せっかく、お父様が残された服なんだから」

 

 改めて、ディランはエル・カルド人なのだと、思い知らされた気がした。

 

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