第2話 アレスル《選ばれし者》
バルドは静かに口を開いた。穏やかで心に響く声は、霧に沈む空気を軽やかにした。
「彼女の名前は『セクア』。やはりエル・カルド人で、見たことのない人たちが馬に乗って現れたので、外の様子を見に来たそうです」
その言葉に、アルドリックは驚嘆を隠せず、目の前の女性へと視線を注いだ。
かすかに届く陽の光が彼の瞳に映え、そこには少年のような驚きが浮かんでいる。
「……エル・カルド人。本当にいたんだ」
呟きは吐息に紛れて消えたが、確かに誰もが耳にした。
ふと、鼻腔を刺す匂いにアルドリックは眉を寄せる。
「じゃあ、この匂いは……」
「恐らくフォローゼルかと」
バルドが答えると同時に、アルドリックとゼーラーンは視線を上げた。
霧とも煙ともつかぬ薄灰のものが、空にたなびき、太陽の輪郭すら曖昧にしていた。
アルドリックの舌打ちは、湿った空気に鋭く響いた。
「バルド。彼女に、こう伝えてくれないか? 私はローダインの王で、エル・カルドのために手助けをしたいと。今、部下たちが様子を見に行っているので、戻ったらエル・カルドに連れて行って欲しいと」
「陛下、この人数で行くのは危険かと。一旦、陣に戻り……」
ゼーラーンの声には、いつもの冷静さがあった。だがその裏に、焦燥の影が濃く滲む。
この場にいるのは選び抜かれた兵ばかりではあるが、何かひとつ綻べば脆い――彼はそれをよく知っていた。
「そうだね。でもまずはエル・カルドの様子を確認しないと。自分の目で見てみないと、判断がつかないよ」
アルドリックの声音は柔らかくも揺るぎなく、バルドに通訳を促す仕草は王というより普通の青年のようだった。
バルドは地面に棒を走らせ、粗い地図を描き、時に文字を刻みながら言葉を伝えていった。
そのやり取りは長く続き、ようやくセクアの瞳に理解の光が宿る。
彼女はアルドリックの前へ進み出ると、すっと身を折り、深々と礼をした。
その所作の清らかさに、一同は息を呑んだ。少なくとも敵意はない――そう感じられた瞬間だった。
やがて、セクアの膝が崩れ落ちる。張り詰めていた糸がぷつりと切れ、力なく地面へ座り込んだ。
慌ててアルドリックは駆け寄り、ひざまずいてその手を取った。
――池に浮かぶ月のように冷たい。
彼は小さく息を呑む。白い指は透き通り、温もりを失っていた。
衣の青い絹には、金糸の刺繍が森の薄明りを受けて煌めき、左手薬指には孔雀石の指輪が妖しく輝いている。
その姿は高貴そのものであったが、それほどの身分の女が供もなく一人で現れたことは不可解でならなかった。
火を起こすことはできない。アルドリックは自らのマントを外し、地に敷いてセクアを座らせた。革袋の水を差し出すと、彼女は戸惑いながらも口をつけ、喉を潤した。
ほうっと長い息を吐き、凍った頬にかすかな赤みが戻る。その安堵の表情に、場の空気が緩む。
アルドリックがその姿を見守っていると、不意にゼーラーンが彼の腕をつかんだ。
鋭く引き離し、低い声で告げる。
「陛下。あの御婦人の左手をご覧になられましたか? 指輪の持つ意味が我々と同じであるなら、あの方は既婚者です」
間髪入れず続けた。
「それから陛下御自身、二歳になる皇子の父親であることをお忘れなきよう。ことと次第によっては、レダ様に……」
妃の名を出され、アルドリックの頬に熱が走る。
胸を叩くような羞恥と現実感が、一気に彼を縛りつけた。
「ち、違うよ。そんなんじゃないって。バルド! その人に、エル・カルドの王様ってどんな人か聞いて!」
慌てて言い訳する王を、ゼーラーンは冷めた目で見た。
美しさが国を乱すこともある――その予感は彼自身も拭えなかった。
だが一方で、バルドとセクアのやり取りは次第に滑らかさを増していた。
長旅で培った語学の才が発揮され、彼は異国の音を自在に拾い上げ、形を与えていく。
吟遊詩人として世界を渡り歩いてきたその蓄積が、今まさに生きていた。
ゼーラーンは思い出す。バルドは毎年冬になると都に現れ、彼の屋敷に滞在するのが習わしだった。
我が子らが幼い頃には、その訪れを楽しみにしていたものだ。
あの気まぐれな男が、今は王と国の命を繋ぐ要となっている――その事実に感嘆せざるを得なかった。
やがてセクアは外套の下から長剣を取り出し、低い声でバルドに何事かを語った。
金属の鈍い光が走り、ゼーラーンの背筋に冷たいものが走る。
彼女が剣を帯びていたことに気付けなかった己の迂闊さに、胸の奥で怒りが燻った。
――その美貌に、己すら惑わされていた。
バルドが立ち上がり、報告する。
「彼女の話では、エル・カルドに王はいません。代わりに七聖家といわれる人々が、話し合いで様々なことを決めているそうです」
「七聖家……」アルドリックの声が小さくこだまする。
「七聖家には、それぞれ聖剣が一振ずつ与えられているそうです。そして、その剣に選ばれた者は〈
その瞬間、セクアは柄を握り、ゆるりと剣を抜いた。
清冽な音が冷気を震わせ、剣身に宿る光が霧を押しのける。
神に授けられたかのような輝きが、周囲を一瞬にして神域へ変えた。
剣の柄には大粒の孔雀石が嵌め込まれ、材質は誰も見たことのない異質なものだった。
――アルドリックは、ただ圧倒された。
(これが、エル・カルドの聖剣……)
疑いはある。だが目の前にある事実が、それを凌駕していた。
その時、遠くから蹄の響きが重く伝わってきた。
二人の兵が戻り、息を弾ませながら報告する。
「陛下。やはりエル・カルドの町が姿を現しました。それからフォローゼルの攻撃も。すでに退却したようですが、被害も出ているようです。我々は姿を見せぬ方が良いかと思い、遠目でしか確認しておりませんので、詳しいことはわかりかねます」
アルドリックは兵らの判断を褒め、労をねぎらった。
兵らがセクアに気づいた途端、顔を赤らめ、視線を落とす。その反応を見て、アルドリックは悟る。
胸を占めていた浮つきが消え、冷静な為政者の思考が戻ってくるのを。
彼はセクアの前に膝をつき、差し出した手に静かに願いを込めた。
「……エル・カルドを、案内してくれますか?」
言葉は通じずとも、瞳は雄弁に響き合う。
セクアは赤い花弁のような唇をわずかに開き、アルドリックの手を取った。
フェンリスの馬に彼女を乗せ、手綱を預けると、一行は霧の奥へと進み出した。
――『迷いの森』を抜け、まだ見ぬ町へ。
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