エル・カルド(失われた聖剣)

夜田 眠依

序章 伝説の国

第1話 霧に潜む伝承

 ――〈エル・カルド〉。古の言葉で「七つの剣」を意味すると伝えられるその国は、千年のあいだ魔道とともに封じられていた――人々はそう語り継いできた。


 森は深い霧に沈んでいた。秋の終わり、広葉樹は葉を失い、黒々とした針葉樹の梢が無言で空を覆う。冷気は肌にまとわりつき、湿った地面からは落ち葉の匂いが絶え間なく立ちのぼった。


 音を吸い込むような霧の底で、六騎の馬がゆっくりと進む。白く解ける吐息、沈む蹄の感触――旅人に扮した五人と、本物の吟遊詩人ひとり。その影は音を殺し、闇と同化していた。


 若い男が、馬上で湿った金の長髪をかき上げた。視界を探るように首をめぐらせ、囁く。


「真っ白で何も見えないな。ヴォルフ、どこだ?」


「陛下、すぐ前におります。この辺りは“迷いの森”と呼ばれておりますゆえ、くれぐれもお離れなきように」


 応じたのはヴォルフ・ゼーラーン。白髪の混じる長い金髪が霧に揺れ、厚い髭と鋭い眼差しがその顔を刻む。幾度も修羅場を越えてきた将の気配が、全身から滲み出ていた。


「以前ここでフォローゼル軍と遭遇しましたが……戦になりませんでした。互いに霧に惑わされ、ただ彷徨うばかりでした」


 馬の揺れに合わせ、ゼーラーンの背に長い髪が流れる。


「中には、フォローゼルの兵士と手を取り合い、共に森を出てきた者もいる始末」


「人間、いざとなれば敵とだって協力できるってことだよ。なのに、何で戦なんかするのかな」


 若者――ローダイン皇帝アルドリックの声には、軽やかな響きと、抑えきれない若さがにじんでいた。ゼーラーンはわずかに顔をしかめる。


 ローダインは大陸西方の強国。アルドリックは近隣三大国を束ね、若くして皇帝に推戴された男である。西を平らげ、南の商業都市を掌握した覇業の只中――そのはずが、今は霧の森で旅人に化けている。


「『エル・カルドを見つけるのは我がローダイン軍が先、フォローゼルを蹴散らせ』と仰せになったのは、ほかでもない陛下でございましょう。そのせいで散々な目に遭ったのは我が軍です。だいたい今回も、陛下自ら危険を冒す必要はなかったのではありませんか? しかもこんな妙な変装までして」


 ゼーラーンは、軍の天幕で、子供のように嬉々として旅装を配っていた皇帝の姿を思い出し、深い皺を眉間に寄せた。


「だって、千年封じられていたはずのエル・カルドの町が姿を現したっていうんだよ。本当なら、早く見てみたいし」


「――そろそろ、その軽々しい言動をお改めください。陛下はもう一国の王ではないのですぞ」


 そのやり取りを遮るように、羽根飾りの帽子をかぶった吟遊詩人が馬を寄せてきた。


「何をおっしゃいます、ヴォルフ様。それこそ陛下の隠れ蓑。切れ者などと見抜かれたら命が危うくなるかもしれません」


「……バルド。何でお前までついてきたんだ」


 不機嫌に睨みつけるゼーラーン。吟遊詩人バルドは悪びれもせず肩をすくめた。


「いやいや、霧に封じられた伝説の町とあらば、行かずにおられましょうか。吟遊詩人は伝承と古歌に通じるもの。もしエル・カルドが見つかれば、学者どもよりお役に立てますとも」


「そんなものは、本当に見つかってからでいい」


「いえいえ、初めから携わってこそ『知る』醍醐味があるのです」


 ゼーラーンは唇を結び、眉間に深い影を刻んだまま黙した。対してバルドの瞳には好奇心の光が絶えない。未知に飛び込み、只中で唄を紡ぐ――それこそが彼の生き方だった。


 そんな二人を見て、アルドリックはふっと笑った。


「まあ、いいじゃないか。こんな時だ。誰が役に立つかなんてわからない。フォローゼルを相手にするのとはわけが違う」


 彼の胸裏に去来するのは、不意に浮かぶ不安。東の新興国フォローゼル。その先鋒には王妹イリス――若き女将軍が立っている。苛烈な行動を繰り返す彼女の姿は、アルドリックに言葉にならぬ焦燥をもたらしていた。


 エル・カルド。封印とともに失われた国。その扉が開けば、魔道は再び世に溢れ出す。もしイリスがそれを手にすれば、大陸の均衡は砕けるだろう。


 ――もっとも、本当に存在するかは誰も知らない。古い書には「そこに住む者は孔雀色の瞳を持つ」とあったが、長らく物語だと笑われてきた。


 進み続ける一行の先頭で、ゼーラーンが不意に馬を止めた。


「……煙か。きな臭いな」


「お前たち、様子を見てこい。フェンリスは儂とここで陛下を守れ」


 二人の兵が駆けて森の奥に消える。残る空気は重く、馬の鼻息と滴る水音が鋭く響く。ゼーラーンは馬を降り、剣を抜いた。フェンリスもまた穏やかな笑みのまま剣を構える。


 張りつめる気配。アルドリックの前に立ち、ゼーラーンは霧のざわめきを探る。そこへ、バルドは馬を降り、悠々と楽器クラリッツァを抱えた。


「やめろ! バルド。敵に見つかったらどうする!」


 怒声を無視し、バルドは弦を鳴らした。


「待っている間、暇じゃないですか。それに、まさか陛下が音楽を聴いているとは敵も思わないでしょう。心配ご無用。私の歌に惹かれて来るのは、ユニコーンか美女と相場が決まってます」


「そんなもの! どこの昔話だ! 勝手に己の話にするな、このホラ吹きめ!」


 憤然とするゼーラーンを横目に、アルドリックは馬を繋ぎ、バルドの傍らに腰を下ろした。


「……そうだね。見つかったら、その時考えよう」


「陛下!」


 ゼーラーンの血管が浮き立つ。だがバルドは構わず歌を紡いだ。


「眠れ、眠れ、森の中で、目覚めるのは時の彼方。

 眠れ、眠れ、時の中で、再び会うは終わりの時。

 眠れ、眠れ、夢の中で、私の歌が聴こえたなら。

 眠れ、眠れ、あなたの、いましめが解き放たれる、その時まで」


 それは大陸の誰もが幼き日に聞いた古い子守唄。霧の森に柔らかく響き、木々はざわめきを止め、馬すら瞳を閉じて耳を澄ませる。


「……歌というものは、訳がわからん。一体何を言いたいのやら」


「武人というのはすぐ意味を知りたがる。悪い癖ですよ。言葉のわからぬ馬ですら心地よさそうに聴いているではありませんか」


 ゼーラーンは納得できぬ顔で馬を一瞥する。だが次の瞬間、鋭く顔を上げ、剣を構え直した。


「誰か来る」


 落ち葉を踏む軽い足音。霧を裂くように現れたのは――月の女神ルーナ・イシュティエを思わせる黒髪の若い女。深い青の長衣にフード付きの外套をまとい、怯えを浮かべた瞳がゼーラーンの剣を見た。


 アルドリックは素早く駆け寄り、両手を広げて武器を持たぬことを示し、ゼーラーンを下がらせる。


 その刹那、彼の胸を雷のような衝撃が貫いた。月光のような肌、けぶる睫毛、切れ長の瞳――孔雀色の光。伝承にしかなかったはずの瞳が、目の前にあった。


「……エル・カルド人?」


 息を呑むような呟きに、彼女は何事かを口にした。意味は通じない。困惑するアルドリックの背に、バルドが歩み寄る。


 吟遊詩人は自らの胸を指差し、ゆっくりと言った。


「バ・ル・ド」


 女は目を見開き、自らを指して告げる。


「セクア」


 その名に、バルドはにっこり笑い、地に絵を描き、身振りを添えて言葉を繋ぐ。霧の森に、慎ましい対話が芽生えた。


 やがて彼は驚くほどの速さで言葉の構造を掴み、セクアとのやり取りは滑らかに変わっていく。孔雀色の瞳がぱっと開き、花のような笑みが浮かんだ。


 そしてようやく、バルドはアルドリックを振り返る。


「陛下、エル・カルドの言葉は大陸の古語に非常に近い。つまり我々は――思っていたより近しい存在なのです」

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