衝動 —つないだ手—

ゆかり

第1話 

 「はなしてっ! は、な、し、てっ!」

 航太こうたが繋いだ手を離せと暴れる。だが、離すわけにはいかない。数日前もこのスーパーで迷子にしたばかりだ。

 迷子センターの人達はいつも親切で優しい。例え心の中で『また貴方ですか』と思っていても。

 何より怖いのは連れ去りや誘拐。ケガや事故。一人でスーパーを出て車道に出たらと思うとゾッとする。

 もしも今、航太が死んでしまったら私は生きていけない、きっと。



  私は疲れていたのだと思う。多分。



 外では走り回る航太。家に帰ればおもちゃ箱をひっくり返し、バラまいて、そのくせ玩具には目もくれず、触ってほしくないものばかりに興味を示す。

 リモコンを開けて電池を舐める。食卓に手を伸ばし無理に引っ張って調味料をまき散らす。

 片付けが追い付かない。洗濯物が干せない。畳めない。夕食の支度が間に合わない。

 帰宅した夫の目が冷たい。口では

「子供がいるんだから仕方がないよ。俺なら大丈夫、大丈夫」

 と言いながら、視線を合わさないまま何処かへ消える。お風呂場だったり、コンビニだったり。

 毎日、けれど、こんなことは長い人生の中ではほんの僅かな間の事だと思う。

 共働きしながら複数の子供を育てているお母さんだって沢山いる。専業主婦の私が音を上げててはあまりに情けない。



 でも、私は自分で思う以上に疲れていたらしい。



 最近、航太が夜泣きをするようになった。母親の疲れた様子が航太を不安にしているのかもしれない。

 深夜に大声で泣くから近所迷惑になる。夫も不機嫌そうに寝返りをうつ。

『お願い。泣き止んで。お願い』私は大事な大事な航太を抱きしめる。命より大切なのに、ふと、泣き止まぬ航太のその首に手を掛けそうになる。ゾッとする。


 航太の夜泣きが近所で噂になっている。虐待も疑われている気配だ。

 私は本当にダメな母親だ。他の誰もが難なくやってのける事がどうして出来ないのだろう。可愛い航太が時々、憎らしく見えてしまう。



 そうして私は、いつの間にか気を失うように眠ってしまったのだ。

 どのくらい眠っていたのだろう? けたたましいサイレンの音で目が覚めた。

「航太っ? 航太は?」

 しまった。航太から目を離して眠ってしまった。あのサイレンの音は、まさか……。

 嫌な予感に私は飛び起きた。


 外が騒がしい。

 私は恐る恐るベランダに出てみた。ここはマンションの五階。万が一、ベランダから落ちたら助からない。しかし手すりの間隔は狭く高さもある。子供の背丈で落ちるような事は無い。無いのだが、恐ろしい事にベランダにはいつもは畳んであるはずの椅子が広げて置かれてあった。横にプラスチックの洗濯籠が逆さまにして置いてある。

 そして何より、ベランダの下に人だがりが見える。誰かがこちらを指差して叫んでいる。赤いパトライト。救急車。恐ろしくて私は覗き込むことが出来ない。


 そして玄関のインターホンが鳴る。航太の姿は見えない。

「母親がベランダから落としたそうよ」

「前から虐待してたんじゃない?」

 近所の人たちのヒソヒソ話が聞こえる。

 ドアを開けると警官が私の腕を掴む。違う! 私は落としてなんかいない。ただ、どうしようもなく眠たくてうっかり眠ってしまっただけ。でもそれより何より航太は? 航太は無事なの? まさか死んでしまったのっ? 

 「航太は!? 航太は!?」

 そう叫ぶ私の腕を掴んだまま警官が私を呼ぶ。

「まぁま?」


 金縛りのように体が重い。頭の中がグルグルして目が開かない。それでもこじ開けるように目を開くと、そこには航太の顔があった。

 ああ、夢だったのだ。私はダメな母親で睡魔に負けて寝てしまったけれど、航太は無事だった。ああ、良かった。本当に良かった。重い頭をまわしてベランダを見るとちゃんと鍵が掛かっている。悪夢を見たのだ。

 私は航太を抱きしめる。


 眠っていたのはほんの数分だったようだ。だが、もう夕刻。洗濯物を畳んで夕食の支度をしないと夫の帰りに間に合わない。風呂掃除もまだだ。

 そう思って立ち上がった私の目に映ったのは、ぶちまけられた小麦粉と粉まみれの洗濯物。そういえば航太も粉まみれだ。

 航太の無事が嬉しいのか、この惨状が悲しいのか、悪夢の後遺症か。私は泣いた。子供の頃のように嗚咽して泣いた。

 航太は心配そうに私に張り付き顔を寄せたり、髪をなでたりしてくれる。優しい良い子だ。ダメなのは私だ。今の私には自分の感情が判らない。


 何も片付かないまま、夫が帰宅する。

 夫は部屋の中を一目見るなり、ただ、ため息をついた。何も言わず、表情も変えずぶちまけられた小麦粉を掃除し始める。航太にも目を向けない。もちろん、私の事も見ない。

 私は突然、訳のわからない衝動に駆られ、床を拭いている夫の背中目掛けて包丁を振り上げる。



 そうして、また目が覚める。

 病室の天井が見える。どうやら今度こそ本当に目が覚めたようだ。

 ここに入院して十日ほどになる。自転車で走っているときに、路肩駐車の車のドアが突然開いて激突。そのまま手術入院になった。当然、ドアを開けた車側の過失で入院費などはそちら持ちだが、痛みはこちら持ちだ。


「息子さんが来られてましたよ。お茶を買いに行くってちょっと出ていかれましたけど、直ぐお戻りになるそうです」

 穏やかな笑顔の看護師さんがそう言って薬を置いていく。夢の中のサイレンは、この病院の救急車の音だったのかもしれない。


 上半身を起こし、私は手鏡を覗き込む。すっかり年を取ったその顔で笑顔を作ってみる。

「なにしてるん?」

 お茶を手に航太が笑いながら立っている。

「おやじも後で来るって。来週転院だから、その説明とか手続きとかあるらしい」

「そっか。まだ家には帰れないのね」

「大事をとって。って事らしいよ。転院先の病院はリハビリ施設も充実してるから。そこで二週間ほど様子見て退院OKって事にになれば家に帰れるそうだよ」

「迷惑かけるわね」

「迷惑って事はないよ。僕ももう立派な大人だからね。母親が居なくても何も困る事はないけど、おやじはちょっとダメだな、あれは。結構参ってたよ」

「あはは。そっか。まあ、でもこれからはお互い年だし、いつ何があるか判らないんだから、良い経験かもね」

「そうだな」


 知らない人が見たら平和な普通の家族だろうな、と思う。きっと何処の家庭もそうなのだ。あの夢の中のような出来事がいつ起きてもおかしくはない普通の家庭。

 何事もなく穏やかでいられたのはたまたま運が良かっただけの事。


 いや?

 本当はこちらの方が夢なのかもしれない。

 次に目を覚ました時に見えるのが独房の天井だったとしても、そんな自分が私の中に存在しているのもまた確かなのだ。

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衝動 —つないだ手— ゆかり @Biwanohotori

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