第10話 借主も遂に巣立った

 鍼灸師は軽く一回りも年下である。親子ですかと言われたこともある。お互い自閉気質なので、ほとんど会話もない。借主に対してだけではない。患者にも無愛想で慇懃無礼なところがある元アスリートだ。固定の患者は彼の施術の確かさに重きをおいて通院している。全てにおいてストイックで、常に彼なりの正当な理由で機嫌が悪いかひどく怒っていた。例えばトイレが汚いとか荷物が散乱して自分の荷物を置く場所がないとか最もな理由ばかりだ。しかし、出ていけとは言わなかった。それもこれも週末の食事の差し入れを天秤にかけて計算していた。手作りの食事がコンビニ弁当に変わった頃、駐車場の使用を厳密に抗議した。すると借主は思いもよらず大量の画材を片付けて、出る段取りを始めた。使うなと言ってない。営業時間以外は使っていい。わかるかと言ってみたが借主は故障したトイレをそのままに跡形もなく出てしまった。その後、数週間して鳥の巣が残った換気扇の掃除ができていないとクレームを入れてみたが息子が行方不明になったという理由で放置された。治療室で施術しながらもう一人の彼が心の声を代弁した。小さな子どもの声だった。前みたいに食事を作ったりして、二階に戻って来るよね。前ほど頻繁には来ないと元借主は答えた。

 借主が出るのを待っていたかのように、何もかもが全て変わった。まず、引越しの直前に施術を受けに来た老人の軽トラが捜索ミスで鍼灸院のフェンスに激突した。軽トラは浅いドブ川に突っ込んだ形でフェンスは支柱ごと歪んだが、老人に怪我はなかった。数日後には真新しいフェンスが設置された。そのまた数ヶ月前に鍼灸師は診療所の蛍光灯をLEDに器具ごと変えた。アトリエの蛍光灯も切れたので借主はLEDを入れたが点灯しなかった。会話がないので器具が古すぎて対応していないことを後から知った。兎に角、10年以上冷たい白だった灯が外からみて黄色味を帯びた暖色系に変わった。そして、10年の節目のためか大家が外壁塗装を施した。錆びた階段の手すりも借主が壁紙シートで体裁を施したアトリエのドアも塗装し直された。足場を組むためにしばらくアトリエは使えないとメールがきた。それらは敷地内のことだが、なんと隣のパチンコ屋があっという間に解体された。窓から見慣れた巨大な円柱の広告塔も跡形もなくなった。

 鍼灸師は以前のように脱兎の如くアトリエを逃げ出すこともしない。むしろ動けないでいる。壊れたブラインドを透け感のある明るいシールドに変えた。テレビとソファーを置いて昼休みはゆっくりとコーヒータイムをそこで過ごした。何が彼を重苦しくそこに留めているのか。疲れかくる怠慢か。単調な日々からくる倦怠感か。柔らかな光からくる微睡か。彼は知るべきである。元借主もかつてそこにそのようにいたことを。鍼灸師は新しい風景と共にそこに取り残されるべき存在だ。忘れないで。

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