第9話 火事と気管挿管

 嫌な気分だった。すり鉢状の池で溺れてもがいている感じだった。不安と焦りとそして毎日酷く疲れていた。再就職から1年が経過して流石に家に戻ってきた。寝たきりの息子にクッションのよいベッドをあてがって、同じ和室の冷たい畳の上に古い寝具を掻き集めて、着の身着のまま寝ていた。その頃は死ぬまでに高級マットレスのベッドで毎日寝起きしたいと願っていた。しかし、現実は朝になると薄い寝具がずれて、畳に雑魚寝している格好だった。少しでも熟睡できる場所を求めて、キッチンカウンターの真下にベットを設置した。カウンターにはコンセントが取り付けられていた。触れないように、隙間に落ちた寝具をベッドの上に引っ張り上げて就寝していた。その日は抵抗出来ないほどの極度の疲れを感じていた。寝具が乱雑に隙間に詰まっていたが、兎に角寝込んでしまった。明け方、何かの気配ではっと目が覚めた。見ると足元のカウンターとベッドの隙間から今まさに着火した炎が火柱となって立ち上がるところだった。息子の名を叫びながら反対のシンク側に回って蛇口をカウンターに回し向けて水を流した。そして食器を浸け置きしていた洗い桶をひっくり返し、桶を掴むと台所奥のバスタブから水を汲んではカウンター向こうの火元にかけた。何度も何度もかけた。その間、息子の名を叫び続けていた。普段、横になったまま動けない息子は手助けにならないと思いながら。気がつくと息子が布団を外に運び出していた。水かけてと叫んだのだがこれ以上燃えないようにと言って運び出していた。突然、家中が真っ暗になった。まだ、夜は明けていなかったのだ。暗闇に炎が見えて狂ったように水をかけ続けていた。炎が消えてもまだ水をかけ続けた。燻っているかもしれないと思った。次の瞬間炎がまた立ち上った。後で知ったが火災でブレーカーが落ちたので一度鎮火した。息子が暗くなったという理由でブレーカーを上げたので、再び通電し再燃した。最後はブレーカーが焼け焦げて火は消えた。この頃、ようやっと夫が2階から降りてきて、息子と一緒に燃えたマットレスやベッドの木枠を運び出していた。鎮火を確認するため、早朝6時頃消防車を要請した。救急車も呼ばれて鼻や口に煤がついていないか調べられた。鼻をかんでうがいをすませたことを話すと総合病院に搬送された。そして癒着してからでは死に至ると説明され、熱傷による気管閉塞を防ぐため気管挿菅された。幸い息子は吸い込んでいなかったので、夫と共に自宅に残された。呼吸そのものが止まらないよう麻酔は浅い。翌朝、深夜スタッフが一人でバタバタと対応している足音で覚醒した。苦しい。中学生の頃、大学病院の歯学部で矯正器具の型取りをした。セメントを盛った器具が口の中に押し込まれ、奥の方で敏感な喉に接触した。耐えきれず吐き出して看護士を慌てさせた。結局、やり直しだ。その時学んだ呼吸法を試し、簡単な童謡の歌詞をぐるぐる頭の中でくりかえした。しばらく辛抱したが気づいてくれそうもない。意を決して、手足は拘束されていたが腹筋で起き上がり、拘束された右手で抜管した。わっと言ってどこからか他のスタッフもベッドに集まってきた。犯罪でも犯したように取り囲んで、もう一度挿菅し直すという。頭の中で何かが切れた。ベットの上からスタッフ一同にぐるりと枯れた声で叫んだ。仕事だからってやってんじゃないよ。火事を出したのは悪かった。でも、10時間頑張りました。もう、いいです。夫が呼ばれたので承諾したら今度こそ離婚すると本気で言った。普段寝たきりの息子が来てくれたので、どうしたらいい?と尋ねると麻酔をちゃんとかけてもらうのがいいとまともな返答が返ってきた。結局、医師が呼ばれて判断が委ねられた。再度の気管挿入は中止になったが、理由は忘れた。先程の修羅場が嘘のようにイケメンの若い医者が涼しげに語りかけてきた。こんな長髪のイケてる医者を勝ち組にするために患者は憐れまれ、痛めつけられていると思うと腹が立った。家がそのままだろうと思ったので病室から携帯で工務店に相談した。帰宅すると工務店の社長やスタッフが水浸しの部屋を黙々と片付けてくれていた。夫はどうせリホームの金目当てだという風に尊大な態度で、お礼の言葉もなかった。後日の打ち合わせで工務店も昔、天ぷら油に引火して事務所にも延焼したことがあり、それ以来火事があると奉仕活動に出ているという話を聞かされた。熱は天上まで達し、塩ビの照明カバーが溶けて変形していた。増改築した時のT工務店のご主人が跡継ぎ息子にそんなやり方じゃ儲けがないと非難されながら何度もニス塗りしてくれた厚板が救ってくれた。カウンターの突き出しとなってコンセントから立ち上がる炎をブロックしてくれたのだ。カウンターの目隠しに半分降りていたスクリーンは購入した時、何故か不燃の物を選んでいた。結果、炎の先端の熱は天井に届いたが、延焼するのは遅れて床とカウンターの焼け焦げが一番ひどかった。床の張り替えまでリホームできずに息子の勇姿を思い出として焦げ付かせている。

 

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