ジャガーノート
「ハイデン、これはアンタがルシアに飲ませてた水筒だ。どうして同じ匂いがする?」
「…………」
「もっと分かりやすく言ってやろうか? 俺はこの前、酩酊した男にぶん殴られたんだよ。ただのゴロツキの筈なのに、訓練された騎士団員ですらぶっ飛ばしちまう男で、そいつは熟れた果実みたいな甘ったるい匂いを漂わせてた」
言いながら俺は、あの怪物染みた人狼の動きを思い出す。ルシアのオドが年相応を遥かに上回っているという証言もだ。
それを探る為に今日、俺は敢えてルシアに接触した。別れの挨拶を装って抱き着いて、ハルナが感じていたという匂いを確かめた。
「アンタは未だに研究を続けてる。オドを増幅させる薬だ」
それがこの街に蔓延る麻薬の真相であり、
「ただし致命的な副作用がある。服用を続けてると意識が混濁するか、或いは暴力的になるか……少なくともあの様子を見る限り、マトモなもんじゃないんだろうな」
それが狂戦士の正体であり、
「だからアンタはこの居留区を実験場に選んだんだ。教師と言う身分を隠れ蓑にして、薬の効果を人で試す為に」
それが神隠しの実態であった。
オーラムさんが言っていたことだ。居留区のゴロツキが消えたところで日常茶飯事だと。
だったら孤児院の子供をターゲットに定めたところで、さしたる差異はない。
そしてルシア自身にも少なからず、副作用の影響が現れつつあることには肝を冷やした。
理不尽な虐めに「やめて」とも言えぬほどに気弱だった筈の少女が、自信という領域を飛び越え、口よりも先に暴力が出始めている。
「ハイデン、大人しく投降しろ」
だからこそ一刻も早く、この馬鹿げた人体実験を終わらせなければいけない。
「俺はアンタを大々的に捕まえたくはない。人知れず、ひっそりと自首してくれればいい」
そうでなければルシアが悲しむと思った。
ここ何日か教えていただけでも分かる。彼女は何かを学ぶということに真摯で、師をこれ以上ないくらいに尊敬してくれる。
そんな彼女を失望させてほしくなかった。たとえ利用されていただけとは言え、それによって彼女は学びを得たんだから、その信頼をこれ以上踏みにじってほしくはない。
「……結局は憶測ではありませんか。私が危険な薬を作っているなどとは」
しかしハイデンは飽くまでも認めず、その視線をくつくつと沸き立つフラスコへと向ける。
「そんなに気になるのなら――確かめてみればよろしいのでは?」
「え?」
「これを飲んで確かめるのです。貴方の言う通り、これがオド増幅剤であれば私がクロ。そうでなければシロ。単純明快な答えでしょう?」
「っ……!」
言って火を吹き消すハイデン。煮立っていた紫の液体は、もくもくと甘い匂いを放っている。
確かにその通りだった。冷めるまで時間はかかるであろうが、単純明快という意味ではこれ以上ない。
が、同時に思ったのは、もしもこれがフェイクで――いや、フェイクであったならまだマシだ。仮に俺に飲ませる前提のものだったとしたらどうだ?
ハイデンは何時からか俺の正体を知っていた。俺は一言も口にしていないのに、日中に会った時に『シアトラ村』のことを知っていた様子から、備えはあったと考えるのが当然だ。
すなわち毒の可能性がある。
俺をここで飲ませて、或いは嗅ぐだけでも致命傷になり得るものとか。
それを思うと……容易に「はい」とは頷けない。俺がここで倒れてしまえば、真実が永遠の闇に葬られてしまうかもってと思うと――
「スタンレー――今しがた考えたな?」
そんなことを考えていた最中、ハイデンの態度が豹変する。
「もしもこれが毒だったらどうしようと――後のことを考えたな?」
見下すような物言いに、ゾクリと背筋が凍り付いた。
ほんのわずかな間が失態であったことに気付いてしまった。
「もしも近くに仲間がいるのなら、これの中身が毒であるかなど関係ない。奪った証拠を調べさせるにせよ、最悪自分が飲むにせよ、後のことなどどうにでもなる筈なのに」
「――――」
「愚かなことだ。一人で現れたからまさかとは思ったが……なるほど。元騎士団長というものは、予想以上に人望がないらしい」
「っ! ハイデン!!」
すかさず俺は前へと飛び出し、掴みかかろうとする。
激昂したからじゃない。嫌な予感がしたのだ。
一刻も早くにコイツを取り押さえないと、事態が急変してしまうような気がして。
「ジャガーノート――そいつを叩き潰せ」
結果として、予感は的中する。
部屋の外から飛び込んできたソレは、放たれた弾丸のように素早く、大砲のような衝撃をもたらした。
直撃した床板が見るも無残に砕けて、大きな空洞から階下の様子が伺える。
俺もあと一瞬飛び退くのが遅れていれば、バラバラになっていたことだろう。
「HUU……GRRRRRRRRR……」
「こ、こいつは!」
開いた口からは鋭い犬歯と、だらだらと零れ落ちる唾液が怪しげな光を放っている。どれだけ長い間洗毛をしていないのか、固まり切った体毛が赤黒く染まっている。
それでいて目は酷く虚ろで、焦点がこれっぽっちも合っていない。首が前後左右に忙しなく動いていて、壊れた機械仕掛けを思わせる。
そして何よりも――充満する甘い匂いだ。
前よりも更にキツイ。こうして相対しているだけでも鼻が曲がりそうだった。
「貴様の言う通り、私の実験はまだまだ途中経過にある」
そんな人狼の傍に立ったハイデンが言う。
「どういった人物に、どれだけ与えると、どんな効果をもたらすか……何もかもが手探りと言っても過言ではない。とにかくサンプルが不足しているのだ」
「サンプル、だと?」
「子供、成人、年寄り。体重、身長、筋肉量。健康なのか、持病を持っているのか、精神面はどうか等々……あらゆることを考慮しなければ、万人にとっての秘薬とはなり得ない」
と、彼は考えこむように、皺くちゃの指を額に当てる。
「その中でこの男は面白い副産物だった。酒による酩酊状態の中で飲ませてやると、意識レベルが低下して、一種の催眠状態に陥った。その状態を維持し続けた結果、今では私の言うことを忠実に聞いてくれる」
「っ!?」
「もっともこれは私の望む到達点ではない。飽くまで私のオドを取り戻す薬が最終目標ではあるが……火の粉を振り払うには丁度いいとは思わないか? なぁスタンレー?」
「OAAAAAAAAAAA!!」
ハイデンの邪悪な笑みに応じるかのように、雄叫びを上げる人狼。
その姿にもはや理性は欠片も感じない。しかし衰え切った俺でさえもハッキリと分かるくらいに、ほとばしるオドの奔流がビリビリと感じ取れる。
「GOA!!」
「くっ!!」
ぶんと振るわれる右手を、俺はかろうじて屈んで避ける。
続く左手による振り下ろしを、飛び退いて尻餅をつく。
首筋を狙って噛み付こうとする歯を、ゴロゴロと横に転がってやり過ごす。
「OOOOOAAAAAAAA!!」
「はぁっ……はぁっ……」
防戦一方。とにかく逃げ回ることしかできなかった。
爪先が頬を掠る度に走馬燈が見える。チーズのように切り裂かれる家具を見る度に背筋が凍り付く。その緊張感に呼吸が乱れ、脂汗がぶわっと湧き出る。
――このままじゃマズイ!
警鐘を鳴らす脳に諸手を上げるも、どうしろと言うのか?
反撃なんてあり得ない。これだけの力量差でダメージを与えられるとは思えないし、攻撃に転じた次の瞬間、ミンチになるのは俺の方だ。
だったら逃げるか?
いや、それもないだろう。到底逃げ切れるとは思わないし、それはハイデンに逃げる機会を与えるということだ。
俺の生死はどうでもいいが、何が何でもコイツを野放しにするわけにはいかない。
「だったら――!」
俺は唯一の勝機を求めて、後ろではなく前へと走った。
「なっ!?」
「IGYAAAAAAAA!!」
驚愕するハイデンと、奇声を上げながら迎え撃つ人狼。
俺は低い姿勢で前転をして、横殴りに振るわれた爪を紙一重で躱す。
「き、貴様!?」
そうしてハイデンの余裕が崩れる。
俺が奪い取ったものに気付いたんだろう。時間が経って程よく冷めたフラスコだ。
「んくっ――」
毒かどうかなんて、もう考えはしない。俺は一縷の望みをかけて一気に飲み干した。
たとえ狂気の産物だとしても、これがオドを増幅させる薬であるならばと。
「こ、殺せ!! そいつを今すぐに!!」
「GYUAAAAAAAAAAA!!」
ハイデンの言葉に従い、振り下ろされる人狼の右腕。
もう避けるだけの余裕はない。空になった瓶を投げ捨てた俺は、そっと腕を差し出した。
――ズドォォォォォン!
――パラパラパラパラ……。
「や、やったか……?」
「く、くく……調子に乗りおって。元騎士団長と聞いて何かと思えば、やはり衰え切ったロートルではないか」
「さぁさぁ邪魔者はいなくなった。ここを引き払う準備をしよう。居留区は絶好の実験場であったから、少々口惜しい気持ちはあるが、これ以上騎士団の犬どもに嗅ぎつかれると厄介というもので――」
おいおい――なに勝手に人を殺してんだ、クソジジイ。
「さぁ引き上げるぞジャガーノー……なっ!?」
そこでようやく粉塵が風に流れ、ハイデンは気づいたようだった。
俺が左腕一本で人狼の攻撃をガードして、平然と立っていることに。
「今日まで、随分と調子に乗ってくれたな?」
「O……A?」
「これはそのお返しだ――歯ぁ食いしばれ」
俺は自由な右手を握りしめ、大きく振りかぶった。
全盛期ほどではないにせよ、自らの体内に迸る、確かなオドの流れを感じていた。
「OAAAAAAAAAAAAAA!?!?」
頬を捉えた拳は人狼をゴムのように弾き飛ばし、隣の隣の部屋の壁までぶち抜いた。久しぶりだったから、ちょっと力加減を間違えちまったかもしれない。
でも何だ? この程度でくたばる奴じゃないだろ? 遠目に立ち上がろうとしてるのが見て取れるし。
「来いよ犬っころ。俺が躾をしてやる」
俺は両拳を握りしめ、更なる追い打ちへと駆け出した。
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