理想


「ルシアさん、中々帰ってこないと聞いていたのですが」


 ハイデンさんの開口一番がそれだった。


「心配していたのですよ? 院の方々も、私も」


 そのくすんだ色の瞳から感情は窺えない。

 ただ発言から察するに、彼はルシアを探しに来ており、そして勝手に連れ回していたのは俺の方だ。

 たとえ向こうからの頼み事であろうとも、大人にはそれ相応の責任が付きまとう。


「すいませんでしたハイデンさん」


「…………」


「ハイデンさん?」


 だから俺は即座に頭を下げるも――ハイデンさんは横を通り過ぎ、ルシアの前へ立った。


「水分補給」


「は、はいっ」


 それからルシアに差し出したのは、懐から取り出した水筒だった。

 ルシアは慌てた様子でそれを受け取り、一目散にゴクゴクと飲み干した。


「あまり無茶をしてはいけません」


 そうして水筒が空になったことを確認した後、ハイデンさんは柔らかくルシアに微笑む。


「色々と思うことがあってのことでしょう。しかし体調管理は大事なことですよ?」


「ご、ごめんなさい……ハイデン先生……」


「いえいえ、いいのです。貴方が無事平穏でいてくれれば、それだけで私は」


「は、はい……」


「分かったらそろそろお帰りなさい。時期に暗くなります。これ以上メリアさん達を心配させぬように」


 そう言われてルシアはそそくさと帰る。

 去り際にチラリとこちらを振り返って、申し訳なさそうに頭をぶんぶんと上下させながら。


「――さて」


 それからハイデンは雑草で荒れ果てた地面に突き立てた器具――といっても廃材の木板を組み合わせただけのものだが――を一瞥したかと思いきや、


「ルシアさんがご迷惑をかけたようですね」


 と、物分かりの良すぎる口火を切った。

 俺としては非難されると思っていたから、却って呆気に取られてしまう。


「少々急いていたもので、誤解させて申し訳ありません。責めるつもりは毛頭ないのです。大方ルシアさんから頼んだことでしょう?」


「は、はい」


「あの子は才はあるのですが、引っ込み思案なところがあり、周囲からもよく誤解を招いている。しかし同時に負けん気の強いところもあるものですから、自分一人で解決しようと思った結果だったのでは?」


「え、えぇと……?」


 そこまで言われると、今度は俺の方が気になって来る。

 その理解の深さに、単なる生徒と教師にしては、と思ってしまった。


「その、ハイデンさんと彼女は、どういったご関係なのですか?」


 娘にしては歳が離れすぎてる……というか種族そのものが違う。

 ハーフとも思えないし、遠い親戚の子にしたって違和感がある。


「教師が生徒を心配することに理由が必要ですか?」


 するとハイデンさんは眉を潜めて言い返す。

 不味ったか? そう言われると失礼な質問だったかもしれない。


「い、いえ。そういうつもりはないのですが」


「…………」


「ないのですが、その」


「…………ふふっ」


「ハイデンさん?」


「冗談です。ルシアさんは生徒の中で唯一孤児院から通っていて、それに同年代と比べて線も細いものですから、色々と心配になってしまうのですよ」


 一転して口調を和らげるハイデンさんに嫌な脱力感が襲う。

 悪い冗談だと思う。本当に怒ってるのかと思った。


「つ、つまりはそれが理由で?」


「はい。もっとも理由はそれだけではありませんが」


「それだけではない?」


「その辺りはスタンレーさんも直に感じ取られたかと存じます。彼女には確かな才があることを」


「才能……オドのことですか?」


「ええ。彼女にはこの街を、現状を変え得る将来性がある。彼女であれば総合学区の学院に入ることさえ夢ではないでしょう」 


 それは確かにと思っていた。

 居留区出身の亜人が入学したという話は聞いたことがないが。


「居留区は私の若い頃より改善しています。ですが学問の場は後回しにされ、未だ満足な授業を施されてはいません」


「それでも学校くらいあるのでは?」


 俺が無垢を装って聞き返すと、ハイデンさんは首を横に振る。


「その大半が生活に必要最低限な数式を学ぶ為に限られています。学問と呼べるほどの領域には程遠いのですよ。特に委員会が独占している魔術の知識などは」


 そこでほんの一瞬だけ、恨みがましく大時計台の方角を睨みつけながら、


「故に私はその垣根を取り払いたいと願っています。亜人が当たり前のように総合学区を歩ける未来を」


 と、ハイデンさんは言った。


「そうすることによって、また彼等も新たな可能性を開くことでしょう。固定概念にとらわれていては新たな知識など生み出せない。亜人という他者の見解を持ってして、魔術界全体の可能性も開げることになるのだと、私はそう信じているのです」


「なるほど……ハイデンさんはその為に、この居留区で授業をなさっていると」


「年寄りの戯言ではありますけどね」


「いいえ」


 俺は首を横に振る。むしろ理念そのものには好感が持てた。

 そうやって亜人が認められれば、融和もこれまで以上に進むことだろう。

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