8話、走れルナエレーナ
「きゃぁ!」
許されざるフーゴの暴力によって、王女様のたった一人の専属侍女はまるで人形のように宙を舞い、無情にも、傍にあった巨大な大理石の彫像へと叩きつけられてしまう。
誰もが予想だにしなかった悲劇。その彫像は、鋭く尖った装飾が施されていて、それがブリジットを傷つけてしまうなんて誰が想像できたでしょうか。
一瞬の静寂の後、事の重大さに気付いた貴族たちは、顔面蒼白となり、互いに顔を見合わせ、
「お、おい行くぞフーゴ。これ以上ここにいても面倒なことになるだけだ」
「ク、クラウス様……」
「待ちなさい、女性に怪我を負わせてそのまま去ろうというのですか! それが高貴なる者のすることですか!」
ルナエレーナは、血を流して倒れるブリジットの元へと駆け寄りながら、逃げようとする貴族たちを叱責します。その声は怒りと悲しみに満ち満ちていながらも、王女としての威厳を損なってはいませんでした。
ルナエレーナの強い言葉に貴族たちは一瞬たじろぐも、すぐに我へと返りますが、口を開けば出てくるのは無責任な言葉の数々。
「こ、これは…事故だ。我々には関係ない」
「フーゴお前が悪いのだ。女性に怪我を負わすなど……」
「そんな、あれはあの女が」
「そ、そうだ。侍女が勝手に…」
言い訳をしながら、後ずさる貴族達。
その内の1人が、踵を返して走り去ると、残された貴族の子弟たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまう。互いに責任をなすりつけ合い、誰一人としてブリジットを助けようとはしないその姿こそ、まさに醜く、卑劣そのものでした。
男たちが立ち去り、ただ一人残されたルナエレーナは、血を流して倒れるブリジットの元へと急ぎ駆け寄り、倒れた侍女へ必死に訴えます。
「ブリジット、しっかりして! お願いだから!」
「ルナエレーナ様、ごめんなさ、い」
「必ず助けるから……、私より先に逝くのは許しませんよ」
ルナエレーナは、可愛い侍女の弱々しい声を聞いて、その瞳から涙が溢れそうになってしまう。でも、今は泣いている場合じゃない。一刻も早く、宮廷医の元へと彼女を連れて行かなければならないの。
「これじゃあ、走れないわね」
ルナエレーナは一人呟くと、おもむろに剣を抜き、その刃をもって長いスカートの裾を切り裂き始める。慣れない手つきながらも、必死に布を切り裂いていく。淑女の嗜みなど今はどうでもよかった。大切なのは、ブリジットの命なのだから。
随分と走りやすくなったスカートに満足した彼女は、その端切れでブリジットの傷口を縛ると、力なく横たわる侍女を抱き上げて全力で駆け始める。
「どいて!」
「通して頂戴!」
ルナエレーナの悲痛な叫びが、静寂に包まれた王宮の廊下に響き渡る。
短く裂かれたスカートから白く美しい太腿が露わになろうとも、肌着が見えてしまおうとも構うものか。今、彼女の目に映るのは、ただひたすらに宮廷医の元へと続く道と、その先に待つブリジットの無事だけでした。
ルナエレーナは傷つき倒れた侍女を腕に抱えながら、宮廷医の部屋へと続く長い廊下を懸命に駆けて行く。息は上がって、汗は滝のように流れて出て、ブリジットを抱える腕が悲鳴を上げる。それでも、ルナエレーナが足を止めることは無い。ブリジットの命が、彼女の腕の中で刻一刻と弱まっていることを、肌で感じていたから。
「ブリジット、もう少しだから……お願い、頑張って」
「う、うう……」
ルナエレーナは、ブリジットの血色の無い顔を見つめながら、必死に呼びかける。
「見えた。あの扉が宮廷医の部屋よ、もう少しよブリジット」
ルナエレーナは最後の力を振り絞り、扉に向かって懸命に駆けた。
宮廷医の部屋に飛び込んだルナエレーナは、ブリジットをそっと寝台に移して周りを見渡すけれど、そこに宮廷医の姿がない。焦りがルナエレーナの胸を締め付けます。
「宮廷医はどこなの!? 誰か!」
ルナエレーナは、周囲に響き渡るほどの大声で叫ぶ。ブリジットを救いたいという一心で懸命に叫びました。
すると、奥から、宮廷医付きの侍女が、青ざめた顔で姿を現します。
「は、はい……ただいま別室で何方かと歓談中で……」
「今すぐ呼びなさい!」
「はっ、はいぃ」
ルナエレーナの剣幕に、侍女は慌てて部屋を飛び出そうとするも。
「ちょっと待って、ポーション庫はどこですか!?」
宮廷医を呼びに走ろうとする侍女を引き留め、ルナエレーナはポーションが収納されている収納庫の場所を聞き出します。いつ来るか分からない宮廷医など、のんきに待っていられない。一刻も早く、せめてポーションぐらい用意しなければ。
「奥の扉を開けてください。左側にある棚が全てそうです」
「ありがとう」
宮廷医付の侍女に礼を言うと、ルナエレーナは急ぎ奥の部屋へと向かう。
収納庫の扉を開けると、彼女の目に飛び込んできたのは、所狭しと並べられた無数のポーション瓶たち。薄緑、緑、濃緑、赤、黄……色とりどりの液体が、ガラス瓶の中で怪しく輝いていました。
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