4話、侍女ブリジット

「ふぅ、少しだけこの布を取ってもいい……よね」

 ルナエレーナは、独り言のようにつぶやきながら、幾重いくえにも巻かれた顔を覆う布をそっとほどいていく。一重ひとえ二重ふたえと布が解かれるほどに、ひんやりとした空気が肌に触れて気持ちがいい。

 

 ──裏庭での剣の稽古は、果てしない自分との闘いでもある。

 それは延々と、ただひたすらに己の限界へと挑戦する時間。そうして見つけた最適解を今度は肉体に刻み込んでいく時間。

 鍛錬って、そういうものですよね。

 気が付けば、足元には汗が水たまりを作り、幾重にも巻かれた顔を覆う布は、汗でひどく湿り始めている。布越しに吸う呼吸は時に息苦しくて、熱までも閉じ込めてしまう。

 

 幾重にも巻かれたこの布は、醜い容姿を隠すためのものだけど、同時に、彼女ルナエレーナの心を守るための鎧でもある。その鎧を解いた今、この時この瞬間だけは、誰の目も気にせず自由に呼吸ができる。お日様を一身に浴びたっていい。

 嬉しかった事を思い出して、思いっきり笑ったっていいのよ。


「ああ、なんて涼しいの……」

 春の柔らかな日差しと風が、汗ばんだ肌に心地よい。

 ルナエレーナはそっと目を閉じて、束の間の解放感に浸っていた。


 心地よい解放感に身を委ねる彼女の安息を打ち破るかのように、かすかな足音が聞こえ、それは近づいて来る。

 え? 誰かが近づいてくる!?

 ルナエレーナは、慌てて布をその顔に巻き直そうとするけれど、慌てた手は上手く動かず、上手にそれを巻き直す事が出来ない。どうしよう。焦りが心臓が激しく叩いて、手には汗が滲み始める。


「王女様?」

「ごっ、ごめんなさいっ」

 ルナエレーナは慌てて謝る。

 布を上手に巻くことが出来ないことで、謝ってしまうの。

 布は、彼女の心を守るための鎧でもあったから。

 を見られて、えぐられる心が怖かったから。

 こんな姿を見せてしまって、ごめんなさい。だから心を刺さないで? 抉らないで? と謝るのです。

 

 「ルナエレーナ様、私ですよ? お気になさらないでください」

 優しい声がルナエレーナを包み込む。

 振り返ると、上手に巻けずに崩れてしまった布越しに、侍女のブリジットが立っているのが見えた。彼女の手に持たれたタオルと水差しを見て、ルナエレーナは安堵の息を吐く。


「ブリジット、驚かさないで」

「ルナエレーナ様ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったのです」

 ブリジットは、この広大な悪意の宮王宮でただ一人、ルナエレーナに心から優しくしてくれる存在。彼女だけが、ルナエレーナの醜い容姿ではなく、その内面に目を向けてくれる。


「汗をかいたままでは、お風邪をひいてしまいます。どうぞ」

 唯一人の、ルナエレーナ専属侍女であるブリジットは、タオルを差し出して優しく微笑む。その笑顔はルナエレーナの孤独な心に、一筋の温かい光を灯すように優し気だった。


「ブリジット……ごめんなさい。その、見ないでね?」

「わかりました。でも、私にはお気を使われなくても……」

 ルナエレーナは、少し寂し気な表情を浮かべるブリジットに背を向けた。

 慌てて巻かれたせいで崩れてしまった布を一旦解いて、彼女が持ってきてくれたタオルで丁寧に汗を拭う。そして、彼女のたった一人の侍女が差し出した水を一口飲むと、ゆっくりと息を吐いて、再び布を顔に巻き始める。


 ごめんねブリジット。あなたは私の素顔を見ても、何も言わないのは知っているの。でも、やっぱり、出来れば見てほしくない。誰よりも醜い顔のせいで嫌われたくないから……。怖がられたくないから……。

 これが、毎朝鏡を見ては、解けていない呪いに大きく息を吐いてしまう理由。

 私は、美しくありたいのではないの。

 ただ今日も、本当の自分をさらけ出せないのが悲しいだけ。


「そういえば、ルナエレーナ様、もうすぐお誕生日ですね」

 ブリジットの言葉に、思わずハッとする。

 そうでした……、私はもうすぐ二十歳になってしまいます。


 レユニオン王国では、成人の儀は十六歳から二十歳までに執り行う決まり。

 女性は早くに嫁いで、家を出てしまうことが多いでしょう? だから、その前に両親が祝ってくれるのよね。それが十六歳から二十歳までと、期間が広く設けられている理由。


「ええ、そうね」

 私は、無理に笑顔を作って答えた。けれど、心は鉛のように重くなる。

 私が二十歳で成人の儀を受けるということは、この国では『行き遅れ』の烙印を押されるようなもの。また、叔父上に侮られてしまうのかと思うと、憂鬱で仕方がありません。


「誰も祝ってくれない成人の儀なら、別に行わなくても……」

 思わず弱音を吐いてしまった私に、ブリジットはいつも通りの笑顔で答えてくれた。

「私がいます! 誰もいなかったとしても、そのぶん私がい~っぱいお祝いさせていただきますから」

 彼女はいつもこう。どんな時も私を励まし、支えてくれるの。

 

 二十歳の誕生日が、ただの苦しい通過点ではなくて、私の人生を変える何かのきっかけとなりますように。

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