「おはよう。――世界、綺麗だよ」

十三月 司

〝 If 〟

「…瞳の色、綺麗ね」


俺のことを目覚めさせてくれた〝彼女〟は、

両の頬を優しく持ち上げながら言う。


(やっと起こしてくれたんだな)

(ずっと寂しかった)


いろんな言葉が口から溢れそうになった。

それでも、先に〝彼女〟からの声を先に聞きたかった。

 〝 「おはよう」 〟

その言葉を、ただひたすらに待っていた。


「…わたし、あなたのことわからない」


刹那耳へ届いたのは、最も予想から凌駕された語彙。

〝俺を忘れている〟

そう直感するのにかたくなかった。

永遠とも称することができるほど、過ぎ去った時間には。

〝彼女〟が持っていた「俺」という記憶を奪い去るにはあまりに容易で。

心が、張り裂けてしまいそうなほど、酷く、ひどく…苦しい。

こらえた涙は、彼女の眼に映ってしまっただろうか。

――もし映ってしまっていたなら、どう感じさせただろうか。


「………」


長い沈黙が、俺たちを襲う。

今取れる選択肢で、最善な答えは。

記憶を亡くしてしまった〝彼女〟にできる、

俺の気持ちを思わなくて良い、最高の配慮は何か――。


……そんな辛いこと、俺が一番嫌なのに。


「――あー、悪い。…、みたいだ。」

「それと、起こしてくれて、ありがとう…。」

「―――それじゃ」


現実から目を背けるように、俺は〝彼女〟から180°視線を外す。

1歩歩きだしたところで、腕を掴まれ動きが止まる。


「――待って」


離したくない――そんな思惑さえ感じさせるような、力強い握力。

俺がヒトだと分かったとき、見せたいものがあると手を掴まれた時……。

それと彷彿ほうふつとさせた、力の感覚だ。


〝彼女〟は、本能的な自分の行動に驚いたのか。

束の間の硬直のあと、急いで手を放して困惑した表情を浮かべる。


「……ぁ、いや、えと……なんでも、ない」


…この際だ。もう、どうにでもなれ―――

掴まれた腕をこちらへ引き、抱き寄せ……接吻を交わした。


それは、1秒だけだったのかもしれないし、数分続いたのかもしれない。

間違いなく言えるのは、自分の酸素が限界になるまで、ずっと、ずっと――。


「…ぷぁ」


…続いていた幸福が、限界という名の別れを告げる。

その後雪崩なだれ込むのは、現実という刃。

鋭く痛い現実は、俺を決して逃がしてくれなかった。


「……俺、本当に何やってるんだろうな…。」

「――ごめん、忘れてくれ」


とうとう瞳に溜まる水勢が、堪えられなくなりそうで。

慌てて背を向け、気持ち足早に歩き出す。

…〝彼女〟が気づく前に、この涙を隠せて良かった。


〔 最高の一日になる 〕


そんな目醒めの気持ちとは打って変わってしまった俺は、

これから――どうして過ごすのだろう。


既に開かれていた石造りの扉から、最後に…と、〝彼女〟を一瞥して視た。

俺が入れられていたコールドスリープ装置から、目が離せなくなっているようだ。

それでも俺は、声を掛けることができなくて。

小さく、小さく。

ぽつり、とひとつ。


ここまで頑張ってくれてありがとうどうして思い出してくれないんだよ


ぐしゃぐしゃになった感傷が、底面からゆっくり、ぼろぼろと崩れ落ちていく。

しばらくは元に戻らぬ痛みであることを、ぐに確信した。


こんなにも美しくなった世界が、残酷に感じたことはなかった。

















〝彼女〟から逃避して、何百日が経とうか。

何に縋るでもないのに、ほぼすべての時間を天文学へ費やした。

今も変わらず大学の常勤講師として働いているが、最近は学生からも人気らしく、

単位を取りたがっている生徒も一定数いるようだ。

単に天文を知りたがっている生徒が増えているだけなのか。

それともどこか虚無感に駆られ、テストや出席がザルになっているからなのか。

…俺には、何も分からない。


…わたし、あなたのことわからない


「…ッう゛ぁ――」


これで今日、三度目の嘔吐だ。

ここ最近では日課になりつつあるもので、もう慣れたが…。


(…〝彼女〟の気持ちに、寄り添えていたんだろうか)


いや。俺を想う気持ちなんて、とうに無かったはずなのだが。

正解とは。天罰とは。

誠実とは。軽忽けいこつとは。

今の俺には、もう、判断することは出来ない―――。


「最近、働きすぎじゃあないかね?」

「少し、休んではどうだ?ここ最近、自宅にすら戻ってないのだろう。」


……同じ分野で働く知り合いの教授だ。

心配してくれているのか、声を掛けてくれた。


「…お気遣いどうも。…ただこうでもしないと、なんだかやってられなくて」


「君はずっと真面目に講師をやってきている。」

「少しくらい休んだところで、同僚や同業者には追い着かれやしないさ。」

「…やはり一度、休んだ方が良い。」

「今までキミの目の下のクマは何度も見てきたが、これほどに酷いのは初めてだ。」

「ワタシの方から話は通しておこう。だから少し休養を取ると良い。」


「…………どうも」


…嫌だ。今、〝彼女〟と同じになれないと嫌なんだ。


考えたくないんだ。

別のことを考えていないと、隙間から〝彼女〟が見えてしまうんだ。

思い出したくないんだ。

血を吐きそうなほどに、心臓が痛くなるのが目に見えているんだ。


……もう、〝ラノ〟を―――忘れたいんだ。






結局2週間の休職を言い渡され、病院に行くよう指示を受けた。


…ただ、口先でどうにか誤魔化して、今は故郷の海を眺めている。

日本で働いている俺が、イギリスに来ているなんて誰も思わないだろう。

帰る度に伝えていた両親にさえも言ってないんだ。

知り合いになんて、会うはずがない。

だからこそ、ここを選んだ。


「嫌になるほど綺麗な海だ」


ボーンマス。イギリス有数のリゾート地で、俺の生まれ故郷。

幼い頃から泳いでいた、お気に入りのビーチ。


ラノと出会った時と全く同じ、何のこだわりもない恰好。

それでも、今日だけは特別な気持ちだ。


「…これで良い」


うだる猛暑もやや勢いを失い始めた、夕方のさざなみの音が響く。


「何も遺す必要はない」

「…本当は、何も遺したくない」


お気に入りでもなんでもない靴。

その傍らに一つ、俺の遺志をしたためた紙を遺す。


(俺には、どうにかできたんだろうか)


歩く巨木の上で交わした、星空の話。

人智じゃ知り得はしないような、怪物との闘い。

石化された島で救った、ひとつの未練。


…そして何より、ずっと頭に離れなかった、ラノの声。


――綺麗な瞳ね


「ぅ゛…ぁ」

上体を曲げ、口から吐瀉が零れる。


あんなに優しくて、美しい声なのに。

あの声を思い出す度、自分の伝えたかった本当の思いと告げると言わんばかりに、反吐が溢れてたまらなくなる。


「…でも、もういいんだ」


汚れた口を、白いタートルネックの服で拭う。

そう。こんな不甲斐なさに苛まれる日は、もう来ないのだから。


燦燦と沈み始めた太陽が、痛いほどの視線を送る。

…本当に、何かに見られているのだろうか。


「今度は俺が、見守る番だ」

「一際輝く、綺麗な星となって」

「〝彼女〟の行く末を、見届けよう」


足取りは、どこか軽かった。

俺はそのまま、母なる海へと歩を止めない。


誰かに、包み込んで、欲しかったから。


ひんやりとした温もりが俺を包む。

目眩がするほど暑い砂浜と裏腹に、弱く冷たい抱擁をしてくれる海。

そんな感傷に浸りながら、徐々に呼吸が苦しくなっているのを実感する。


未練がないわけじゃない。

ラノと幸せな人生をあゆんでみたかった。

たまに喧嘩しても、その日のうちに仲直りしてみたかった。

…優しいキスを、またかわしてみたかった。


――それでも人はみな、いずれほしぞらに還るんだ。

それがはやくなるか、おそくなるか。ささいな違いだ。



おれがしぬにはじゅうぶんだ


































































「…ぅう」


重い瞼がゆっくりと開かれていく。

白い背景に痛がる目を慣らしながら、しっかりと周囲を認識していく。


「……病院だ」


ベッドサイドモニタが、俺の鼓動に合わせて音を出す。

右腕には点滴のようなものが刺さっており、力を込めると少し痛い。

代わりに左手で周囲を探る。


「…これ、って」


丁寧にサイドテーブルへ置かれてあったのは、あの日ポケットに入れていた葉巻。

普通の人じゃ、ポケットにあるこれに気づくには難しいはず


期待と、焦燥と、嫌気と、恐怖と……。

様々な感情が相対する中、震える左手で、左耳のやや下を握ってみせた。

その手は、虚空を掴む。

……そう、思って信じていたのに。


――カラ。

この触覚には、確かなおぼえがあった。

俺が家族に貰った、〝病に負けないおまじない〟……。

アクアマリンのイヤリング。それに違いなかった。


ならば、と。余計に震える触覚が右の前髪に捉えるは、乾燥した造花。

鏡を視ずとも分かってしまう。

花言葉は『奇跡』『夢叶う』――青色のバラの髪飾りだ。


「……ら、の?」


見つめた空虚に返事を乞う。虚しくも返る声など在りはしない。


 【 もう一度逢いたい 】


その気持ちに、すべてが支配された。


「…ぁ!ベリルさん!目が醒めましたか!」


看護師らしき女性が、部屋に入るや否や安堵の表情を見せる。


「ご気分はどうですか?体調にお変わりは?食欲はございますか?」


…今俺に向かって、何か話しかけてくれているんだろう。

申し訳ない。…今の俺には、届いていない。


「…いかなきゃ」


「はい?すみません、なんとおっしゃいましたか、ベリルさん?」


「――探しに行かなきゃ」


きっと今の俺は、据わった眼をしている。

〝ラノ〟に逢いたい……その気持ちの為に、動かなければならないんだ。


「無理を言わせてほしい。この点滴を外して、病院から出してくれないか?」


「ぇえ!?ごめんなさい、それは―――」


「大切な人に、すぐに逢わなくてはいけないんだ。」

「例えこれで死んでも構わない。如何なる書類にだってサインを書く。だから…」


ここから出してくれ






「はぁ…っ、はぁ……ッ、ラノ…っ!」


どれだけ街を走っただろう。

どれだけ海を渡っただろう。

日本とイギリス。ラノとの記憶の所以ゆえんを、ひたすらに走り続けた。


時に食事を忘れ、時に足の激痛に追い込まれ、時に走れないほどの目眩に見舞われ。


それでもなお、俺は走り続けている。


ただひとつ、ラノに出逢う――その目的のためだけに。


彼女が記憶を取り戻した根拠なんて、ひとつもない。

葉巻の場所が分かったのも、偶然だったのかもしれない。


それでも。


イヤリングと、髪飾りの場所が。

俺の推理を、正しいと。

背中を押してくれているような気がして。


無我夢中で、走り続けた。


そして―――




何れ、俺は辿り着けなかった。





























過度な栄養で、余りにも大きく育った巨木に寄り掛かり、夜空を見上げれば。

とても多くの星が、そこには在った。

月が煌々と輝き、俺を見降ろす。


――ふと、夜空に。

一筋の光線が伸びているのを見る。


ゴーツウッドの地に古くから遺っている、鏡が複数寄り集まった建造物に、

月光が乱反射し、丘の一点を照らしているようだ。


あれは、一体なんだろう?

導かれるように歩き出した俺は、光の先へと足を運ぶ。


その光に照らされた石造りの扉が、開いていることに気がつく。

中に入ってみれば、そこは洞窟のようだった。


その、奥深く。

そこには、があることに気づいた。


どうしてこんなところに人間が?

俺は試行錯誤を繰り返し、その人間に近づき、話しかけてみることにした。


「――あ」


ゆっくりと近づいたことで、見憶えのある背中が見えたことに気がつく。


悠久の時を経て、ずっと昔に別れてしまった彼女と再会した――。

そんな気持ちに、頭と胸がいっぱいになる。


「――ラノ?」


俺の気配に気づいていなかったのか。

声をかけたその少女は、俺の声に酷く肩を震わせた。


「ひぃっ?!」


驚きながら、這いずるようにして俺と距離を取る。

そこで、フードに覆われた少女の顔と見つめ合う形になった。


――ひどく綺麗な顔だ。その顔で、確信へ至った。


「やっぱり、ラノだよな?――なぁ、そうだよなっ?!」


「うぅ……どうしてここが分かったの?」


〝俺を想い出してくれた〟

そう直感するのにかたくなかった。


恥ずかしそうにフードを深く被る少女に、何の訳もない理由をこたえる。


「……このイヤリングと髪飾りで、確信したんだ。」

「海に溺れる俺を助けて、それで……想い出してくれたんだって。」

「ポケットに入っていた葉巻も――はは、あいつは、ダメになってたけど。」

「…きっと、俺がポケットに入れていたこと、想い出してくれたんだろ?」


「~~~っ!」


数瞬の沈黙。

そして、少しだけ顔を出して、眼を逸らしながらこたえてくれた。


「……うん。そう、だよ。」


「私ね…?また、ぜんぶ、ぜんぶ、想い出したの。」

「エイドを忘れちゃってたことも、キスされたことも」

「溺れていこうとしたことも、私が泳いで助けたのも」


「…このイヤリングと髪飾りをくれたのが、エイドだってことも」


そこで、ようやく眼が合った。


「――ありがとう。」

「想い出してくれて、ありがとう。」

「また助けてくれて、ありがとう。」

「そして…こうして眼を、合わせて、くれ、て―――っ」


「ぇ、エイド!?しっかりして、エイド!ねぇ、ェィ――――」


…意識が遠のいていく。

緊張の糸が解れてしまったのか。

はたまた、今この瞬間、命の運命さだめが決まってしまったのか。


今となっては、どっちでもいい。




――あぁ、神様。

悪い夢なら醒めてくれと、何度願っただろう。


ラノに忘れられること。

想い出を消したくても、消えそうになかったこと。

自決でしか自分が救われないと思ってしまったこと。

…ラノを置き去りにしてしまいそうになったこと。


いろんな悔いが、浮かんで消える。


手放した意識は、微睡まどろみの中へ堕ちていった―――。












「…ん、んん……。」


何か柔らかいものを頭に受けながら目が醒めた。

それにふんわりと、おひさまみたいな良い匂いもする。

意識の糸を手繰り、はっきりとしてきた頃。


白髪の美少女と眼が合う。

心配したんだよ――そんなことを言いたげな瞳と、しばらく見つめ合う。

彼女は観念したのか、くしゃ、と笑いながら、俺にこう言った。







「おはよう。――世界、綺麗だよ」




𝓣𝓱𝓮 𝓔𝓷𝓭

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「おはよう。――世界、綺麗だよ」 十三月 司 @xaya2123

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