第26話 アイナが…


 執務室の机は公爵家らしくとても綺麗で大きく、椅子もクッション性が素晴らしく座りやすい。


 その大きい机いっぱいに広がった書類がなければ、もうちょっと椅子を堪能したいところだ。


「この項目はこの家の食品関係の支出額。こっちは雇っている料理人の給料などだ」

「……ええ」


 後ろからルカ様が書類の項目などを説明してくれて、それを私が聞いて理解していく。

 とても丁寧に教えてくれているのだが、ちょっと……。


「それでこっちが……」

「あの、ルカ様」

「なんだ、わからないところがあったか?」

「その、距離感がよくわからないわ」

「距離感? なんのだ? 王都と公爵家が運営している街や村の距離か?」

「違うわ。今、私とルカ様の距離よ」


 教えてくれるのは嬉しいけど、近すぎない?


 私が椅子に座っていて、その後ろから教えてくれているんだけど。

 私の顔とルカ様の顔が近くて、少し動けば頬がくっついてしまうくらいの距離感だ。


 肩と肩はもちろん触れ合っている距離だし。


 というか、私の肩に彼の手が回されていて抱かれているような体勢だ。


 ルカ様の大きい手が私の肩を覆っていて、少し引き寄せられている。


 さっきから心臓が高鳴ってしまって、書類の確認どころじゃない。


「このくらいは普通だろ」

「普通じゃない。頬と頬がくっつきそうな距離は普通じゃないわ」

「夫婦なら普通だろ」

「確かに夫婦だけど契約結婚だから。本物の夫婦じゃないから。それに夫婦だとしても仕事中にこの距離はおかしいと思う」

「……確かにそうかもな」


 ルカ様は納得したように少し離れてくれた。

 頬がくっつきそうな距離ではなく、肩が触れそうな距離くらいだ。


 それでも近いと思うけど。


「このくらいで集中力がなくなるのか?」

「このくらいって……私達はまだ結婚披露式を終えたばかりなのよ」

「まあそうか。だが少しは耐性でもできたと思ったがな」

「耐性って……」

「キスもしたしな」

「っ、あれは不意打ちだったし、耐性なんてできるわけ……」

「じゃあ、今もう一度するか?」

「なっ……!」


 その言葉に驚いてルカ様の顔を見上げると、彼は私の目を見つめていた。

 いつもの無表情なんだけど、でも少し艶っぽい視線のようで……。


 私は顔に熱が上がるのを感じながら、視線を背けた。


「し、しないから! もう二度と!」

「二度とか? それは残念、俺は今すぐにでもしたいのに」

「う、うるさい! 早く書類のことを教えなさいよ!」

「集中できていなかったのはどこの誰だ」

「集中できなかった原因はどこの誰だと思っているのよ」

「俺だな」

「わかっているなら集中させてよ」


 これは、お義母様より厳しくはないけど、同じくらい大変な目に遭っているかもしれない。

 私は心を無にするように頑張りながら、仕事の説明を聞いていた。



 仕事を教えてもらい始めて二時間後。


 一息つこうということで、使用人に紅茶と菓子を持ってきてもらって休憩をしていた。

 はぁ、頭を使った後の甘いものは沁みるわね。


「頭も悪くないな、ミランダ。この分だったら想定していたよりも早く終わりそうだ」

「それなら嬉しいけど、詰め込みすぎて頭が爆発しそうだわ」

「母上の特訓を一週間耐えたミランダなら大丈夫だろう」


 確かにあの時よりかは大変ではなかったけど。

 あの時は身体的な疲れが大きかったけど、今は精神的な疲れがひどい。


 だから紅茶と菓子が沁みるんだけど。


 そうして休憩していると、使用人が執務室のドアを叩いて入ってきた。


「失礼します、ルカンディ様。公爵夫人……失礼しました。前公爵夫人、ミケラ様がお越しになっています」


 今はもう私が公爵夫人なので、使用人はお義母様の呼び方をすぐに変えたようだ。


「母上が?」

「はい。玄関近くの応接室にお通ししています」

「わかった。すぐ向かおう」


 ルカ様に視線を向けられたので、私は頷いて立ち上がる。

 私もついてこい、というような視線だったから。


 ルカ様と一緒に応接室に向かうと、お義母様がいらした。


「母上、どうかしましたか?」

「ルカ、ミランダさん。どうかしたか、ではありませんよ」


 お義母様は少し怒っている様子だ。

 特に私を少し睨んでいるようだけど……えっ、何か私がしたかな?


「ミランダさん、アイナさんはどうしたのですか?」

「アイナですか?」

「ええ。今日は別家に来て彼女に社交界のマナーなどを教える予定だったのに、一向に来ませんでした」

「えっ……」

「彼女は逃げたのですか? それともミランダさんが匿っているのですか?」


 お義母様が何を言っているのかわからなかった。


 アイナは確かに公爵家の別家に向かった。

 気が進まないというような顔で、「逃げたいなぁ」と少し呟きながら。


 でもアイナはそんなことで逃げるような子ではない。


 それは私が知っている。


「アイナが、本当に来ていないのですか?」

「ええ、ずっと待っていても来なかったので、こちらに来ましたが。ルカやミランダさんなら彼女がどこにいるか知っているのでは、と思って」

「俺は知りませんね。ミランダは?」

「彼女は、別家に向かったはずです。学校の前で別れましたから」

「それなら、逃げたのでしょうか?」

「アイナはそんなことする子じゃないです」

「ではどうして来ないのですか?」

「……彼女の身に何かがあった、と考えるのが自然です」


 私の言葉に、ルカ様とお義母様が目を見開いた。


 そう、アイナが自分から逃げるなんてありえない。

 彼女が別家に行くまでに、何かに巻き込まれたのだろう。


 どんな事件に巻き込まれたのかはわからないけど……何か嫌な予感がする。


 それは今日が、クラス分け試験をやった後だから。


 あの試験で、多くの生徒のクラスが変わるだろう。


 主に、金やコネで上級クラスに所属していた者達だ。


 それらの者達が中級クラスに落ちて、中級クラスや下級クラスにいた者達が上級に上がる。


 アイナは確実に下級クラスから上級クラスに上がる。

 でも、それを面白くないと思う者がいたら?


 いや、確実にいる。


 最低でも一人は簡単に思いつく。


 オレリアの婚約者、クラウス・カポネだ。

 あの人は試験中でも賄賂を渡そうとしたくらいの最低な男だ。


 それにクラウス様はアイナに対して「平民は黙っていろ」と下に見るようなことを言っていた。


 今でもそれを思い返すと腹が立つ。


 クラウス様がアイナに何かをしたとはまだ決まっていないが、手を出していても不思議じゃない。


「ミランダ、アイナ嬢に何かあったというのはどういうことだ?」

「精霊魔法学校の生徒は馬鹿が結構多いってことよ」

「っ、なるほど。今回のクラス分け試験のことか」


 ルカ様は察しがいいから、すぐになぜアイナが狙われたのかをわかってくれたようだ。


「お義母様、アイナは絶対に約束を破って逃げるような子じゃないので、これから探しに行きます」

「……ええ、わかりました。あなた達が言うならそうなのでしょう。アイナ嬢を頼みました」


 お義母様とはそこで別れて、私は急いで屋敷から出た。


 その後ろからルカ様も追ってきてくれる。

 でも今は彼と足並みを揃えている場合じゃない。


「シルフ! 行くわよ!」

「はーい。アイナを絶対に助けないとね」


 私は全力で風魔法を使って、空を飛んで目的地に向かう。


 ルカ様ですら本気で追いかけても追いつけなかった、と言われるくらいの速度だ。


 あっという間に目的地、精霊魔法学校に到着する。


 この門のところでアイナと別れて、彼女は公爵家の別家に向かったのね。


 だからここから別家までの道で襲われた、もしくは攫われたと考えるべきだ。


 そんなことを考えていたら、ルカ様もすぐに私に追いついてきた。


 やっぱり彼もディーネ様と契約しているから、すごい速いわね。


「ミランダ、ようやく追いついたぞ」

「ルカ様、人を探すような魔法は使える?」

「水魔法にそういう魔法はないな。風魔法は?」

「一応あるけど、範囲が狭いと思う。だから今、アイナが攫われた可能性が来たのよ」

「場所はわかるのか?」

「学校から別家までの道だと思うわ。あの子が寄り道でもしない、限り……」

「……しそうなのか?」

「うん、しそう。絶対にしていると思うわ」


 あの子は好奇心旺盛だし、いろんなものに目移りするタイプだ。

 今まで行ったことないお店などを見つけたら絶対に入る。


 しかも今回は今までの帰路とは違い、学校から公爵家の別家までの道のり。


 確実にあの子が気になる物や店があったことだろう。


 お義母様と約束した時間には結構余裕があったから、寄り道をしていてもおかしくはない。


 うん、絶対にしている。


「でも、寄り道をしてもその近くにいることは間違いないから」

「確かにそうだが、誘拐されたのならその場所から離れているところに監禁されているかもしれないぞ」

「あっ……確かに」


 私は何も考えずに学校まで来てしまったが、確かに少し外れたところに入ったとしても人目があるから、こんなところで暴行をすることはない。


 どこかに攫って監禁するのが自然だ。


 いろいろと慌てていて、そんな簡単なことすら思いつかなかった。


「どうしよう、どこに行けば……」


 私が焦って考えていると、頭にポンッと何かが置かれた。

 見上げると、ルカ様が私の頭に手を置いていた。


「落ち着け、ミランダ。お前の隣にいるのは誰だ?」

「……ルカ様。私の夫の」

「ああ、お前の夫だ。それでいて公爵家の当主で、精霊の守り人の総司令だ」


 私を安心させるかのように、ルカ様は口角を上げて不敵に笑った。


「人探しの魔法はないが、王都での事件は任せろ」


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