第八章 一樹の恋路の終着点

 大変なことになった。二葉からの大胆な誘いにより、一樹と二葉のデートが決まってしまった。

 あれくらい思い切って誘わないと進展が望めないのかもしれないが、それにしたって急すぎた。今までデートなんかしたことがない一樹は、ちゃんと二葉を満足させられるのか、不安で色を失っていた。

 だが、いつまでも怖気づいているわけにはいかない。一樹は帰宅すると、キッチンでキャベツを千切りしていた一樹の母親に、真っ先にデートの相談を持ちかけた。目の色を変えて「相手は二葉ちゃんなの」と尋ねられ、一樹がうなずくと、一樹の母親は包丁を放ってポケットからスマートフォンを取り出し、一樹の父親に急いで帰ってくるよう連絡した。

 その後、夕飯の席で家族会議が始まった。議題は「いかにして二葉とのデートを成功させるか」だ。

 俺は隅っこでキャットフードに食らいつきながら眺めていたが、会議というより、一樹の母親が矢継ぎ早に助言を投げているだけだった。外を歩くときは車道側に立てだとか、食事中は音を立てるなとか、自分の話ばかりしようとするなとか、目まぐるしく助言をしてくるので、一樹はものの数分で頭がこんがらがってしまった。

 一方で、一樹の父親は多くを語らなかった。初めてのデートだから失敗をして当然だと言い、その上で誠意を持って接しなさいとだけ助言した。誠実なところが一樹の長所だと励まされ、一樹の顔にも少しだけ色が戻ったように見えた。

 翌日の学校にて、一樹は二葉と目が合うたびに、昨日のことを思い出して赤面した。二葉のほうも、一樹にだけこっそりアイコンタクトを送ったり、不意に耳打ちして一樹をからかったりしていた。

 明らかにいつもと様子が違う二人を見て、三四郎と五李は何かあったとすぐに勘づき、二人に問い詰めた。一樹と二葉は慌てて否定したが、三四郎と五李はずっと訝しげな表情を浮かべたままだった。

 その日の夜、一樹が自室にこもり、机に向かってデートプランを考えていると、突然スマートフォンが鳴った。畳の上で寝転がっていた俺が、一樹の肩に跳び乗って画面を覗くと、三四郎からの着信であることが分かった。

 一樹が電話に出ると、一樹と二葉の間に何があったのか、三四郎からの追及がまた始まった。一樹はなかなか言い出せずにまごついていたが、三四郎の説得を聞いて気が変わったようだ。

「話すのが恥ずかしいんなら、別に無理して話さなくてもいいけどよ。お前、ちょくちょく顔を真っ青にしていたから、何か困ってんじゃないかと思ってよ。男同士なら相談できることもあるんじゃねえか?」

 一樹は意を決し、昨日二葉からデートに誘われたことを打ち明けた。三四郎は二葉との甘いやり取りに呆れた声を上げていたが、すぐ親身になって相談に乗ってくれた。

「あいつからデートを誘ってきて、そこまで大胆なことをしてきて、告白だけはしてこなかったんだ。何でか分かるか?」

 答えを出せずにいる一樹に対し、三四郎は言葉を続けた。

「お前から告白してほしいからに決まってんだろ。せっかくあいつが勇気を出してきっかけを作ってくれたんだから、お前も男気を見せろよな」

 三四郎からの激励を聞き、一樹は目の色を変えて礼を言った。この日以来、一樹が不安で色を失うことはなくなった。また、気持ちが冷める前にと、一樹は二葉に電話し、今週末にデートしようと約束した。

 夜な夜な自室でデートプランを熟考していた一樹だったが、なかなか納得のいく案が浮かばないようで、ずっと頭を抱えていた。すでにノート一ページに埋まるだけのプランを考えていたが、それでも読み直しては首を傾げて修正するのを延々と繰り返していた。


 そして、あっという間に日が経ち、ついにデート当日。デートプランを考えるあまり夜更かししてしまったのか、一樹の目の下に大きな隈ができあがっていた。外に出る前から幸先が悪いんだが、大丈夫なのか。

 服装は、この前定期テストの打ち上げに行ったときと同じだった。青いジーンズに白い長袖のポロシャツ、そしてカーキ色のモッズコート。高校生で普段外出しない一樹にとっては、これが精一杯のおしゃれなのだろう。

 縞模様のショルダーバッグを担ぎ、玄関で黒のスニーカーを履いていたところ、一樹は突然一樹の母親に呼び止められた。

「軍資金よ。遠慮せず持っていきなさい」

 そう言って差し出されたのは、いかにも偉人っぽい男がプリントされたお札。一万円だった。一樹は遠慮どころか拒絶したが、てこでも動かない一樹の母親に屈し、申し訳なさそうに受け取った。

 俺は玄関の床に座り、みゃうと鳴いて一樹を見送った。いつもは特等席である肩に乗って、事あるごとに一樹の手助けをしていたが、今回ばかりはデートだから邪魔をするわけにはいかない。

 一樹の母親も見守る中、一樹は俺たちに「行ってきます」と告げ、玄関の扉を開けて家を後にした。

「一樹、大丈夫かしらねえ。内気な子だから心配だわ」

 リビングに戻りながら、一樹の母親がため息交じりに呟く。俺はその後をついていった。

「一樹は良い子だから大丈夫。あの二葉ちゃんも、一樹の良いところをちゃんと分かってくれているはずだよ」

 リビングのソファで新聞を読んでいた一樹の父親が、そう言って一樹の母親を励ました。一樹の母親は気が気でない様子のままだった。そして俺もまた、一樹のことが心配でならなかった。

 俺は一樹の両親の目を盗み、リビングダイニングにある大きな窓を頭で押し開けた。今回は鍵がかかっていなくてラッキーだ。

 一樹たちの邪魔はしないが、家で大人しくしているとは言っていない。俺は一樹がデートを無事に終えられるか見届けるため、窓から出てベランダへ抜け出し、塀を越えて路地へ出た。そして、家の正面に回って一樹の姿を見つけると、こっそりその後をつけていった。

 住宅街を抜けて石畳の歩道を進んでいくと、やがてイチョウの木々に囲まれた駅に辿り着いた。駅の前には少しばかりの人だかりができており、一樹は首を傾げながら人だかりの中へ入っていった。俺も近くに生えている木をよじ登り、上から覗き込んでみた。

 すると、群衆の視線の先には二葉が立っていた。白と黒のボーダーシャツにデニムスカートを合わせ、上にベージュのマキシ丈のガウンを羽織っている。スニーカーにベレー帽、両手に持つショルダーバッグと、ほかのアイテムはすべて黒で統一していた。

 道行く人々は、二葉の顔立ちと着こなしぶりに見入ってしまっていた。一樹は群衆の前に躍り出るのを躊躇っているようだったが、二葉に手を振りながら大声で呼ばれたので、そそくさと二葉のいるほうへ向かっていった。

 一樹が現れたことで、さらにざわつき出す群衆。一樹は周囲からの刺すような視線に耐えられない様子だったが、一方の二葉は意にも介さない。一樹とデートに行ける幸せで喜色満面になっていた。

 二葉が左手を広げながら差し出し、一樹が恐る恐る右手で握る。二人が手をつなぎながら駅の中へ入っていったところで、俺は枝からぴょんと飛び降りて地面に着地した。すぐに後を追おうとしたところ、突然背後から何者かに抱え上げられた。

 誰だと思い見上げると、俺を抱え上げたのは五李だった。三四郎も一緒だった。そして、二人ともインバネスコートを着て鹿撃ち帽を被り、顔をサングラスとマスクで隠していた。一樹たちを尾行する気満々の格好だ。三四郎のほうはモヒカンのせいで帽子が被りきれていないが……。

「やっぱりニャン太郎も気になってついてきたのね。ニャン太郎も『一樹くんと二葉をくっつけ隊』に加わってもらうわよ」

 そう言うなり、五李は地面に置いていたキャリーバッグに俺を無理矢理入れ、一樹たちの後を追うように駅の中へと向かった。「お前らのそのネーミングセンス何なんだよ」と突っ込みながら、三四郎も後に続いた。

「まずはあの二人と同じ駅に降りないといけないわ」

 券売機の前に立ち、ホームのベンチに腰かけて雑談している一樹たちを横目に見ながら、五李が呟いた。

 それを聞いた三四郎は、高い切符を買って、一樹たちが降りたタイミングで途中下車すればいいと提案した。それなら駅員に怒られることはないが、途中下車する分、余計に金を払うことになってしまう。

 三四郎の案を採用するかどうかで二人が議論している中、俺はキャリーバッグから顔を出し、券売機に手を伸ばした。

 無駄に金を払う必要はない。何せ、俺は一樹がノートに書いたデートプランを覗いている。一樹たちがどこに向かうのかを俺はすでに知っているんだ。

 三四郎に体を持ち上げてもらいながら、俺は二人に示すように、券売機の『葛西駅』と書かれたボタンをぺしっと叩いてみせた。

「いやあ、ニャン太郎がいてくれて良かったなあ」

 ホームに到着した電車に乗り、二人で空いた席に座りながら、三四郎が感心して言った。

「ニャン太郎も来てるかもと思って、キャリーバッグを持ってきておいて正解だったわ」

 五李も三四郎に共感しながら言った。

 前に電車に乗ったときもそうだったが、電車にペットを持ち込む際は、飼い主がバッグに入れて外に出さないようにしないといけないらしい。もし五李たちに会わなかったら、周囲にばれないようこっそりと乗車するつもりだったが、五李のおかげで心置きなく乗車できたので、俺としてもありがたかった。三四郎も俺の分の運賃を払ってくれたし、二人には感謝しなきゃならない。

 まだしばらく電車に揺られる時間が続く中、五李と三四郎の話し声が聞こえてきた。

「それにしてもあんた、とことん一樹くんに優しいのね」

「いきなり何だよ。ダチなんだから当然だろうが」

「本当?」

 不機嫌そうに言う三四郎に対し、五李は意地悪く笑いながら言った。

「一樹くんがいじめられていたこと、生徒会の目安箱に投函してくれたのってあんたなんでしょ?」

 一瞬黙る三四郎。意外だと思ったが、どうやら図星なようだ。

「ななな、何のことだかさっぱり分かんねえな」

「嘘。筆跡を調べたらすぐ分かるんだから」

 声を震わせながら恍ける三四郎だったが、五李の目はごまかせないようだった。見かけによらず優しいところがあるなと思い、俺もキャリーバッグの中で密かに笑った。

「間もなく、葛西駅、葛西駅に到着いたします。お降りの際は、お近くのドアからお降りください」

 前にも聞いたアナウンスが鳴り、ほどなくしてドアの開く音がした。同時に、三四郎と五李が動き出したので、デートプランの予定どおりに一樹たちが下車したのだろうと察した。また五李に抱えてもらいながら、俺たちも電車を降りて一樹たちを追いかけた。

 三四郎にキャリーバッグを少し開けてもらい、俺が顔だけ出してみると、すでに駅から出ていることが分かった。目の前のスクランブル交差点では、相変わらず多くの若者とサラリーマンが行き交っていた。その人だかりに紛れながら、一樹たちが手をつないで交差点を渡っていたので、俺たちもすぐに後を追った。

 奥に建っている時計台を見上げると、時刻は午後〇時三十分。昨夜に見たデートプランによれば、一樹たちはこれから昼飯を食べて、その後に映画を観にいくスケジュールとなっている。

 そのスケジュールどおりに進めるつもりだったのか、一樹はこれから向かう飲食店のことを二葉に話していた。聞き耳を立ててみると、どうやらその店はおしゃれな洋食屋らしく、料理も絶品で、遠出してでも通う客が一定数いるほど人気があるらしい。まさにデートにはうってつけの所だと、猫の俺でも思えた。

 だが、早速思わぬアクシデントに見舞われる。一樹の言う洋食屋はアーケード商店街の裏路地にあったが、店の前にはアーケードまではみ出るほどの長蛇の列ができていた。

 俺の記憶が正しければ、この後映画館に到着する予定時刻は午後二時。おおよその映画が上映開始する時刻を考慮してのものだろう。

 そして、五李の腕時計に目を向けると、すでに一時を過ぎていることが分かった。食事やその後の移動時間も考慮すると、この大行列に並んでいたら映画には間に合いそうにない。

 俺たちが固唾を呑んで見守っていると、うろたえている一樹に対し、二葉が柔和な笑みを浮かべながら言った。

「一樹くん、近くに牛丼屋さんがあったからそこに行こうよ」

 一樹が目を丸くする。

「悪いよ。せっかくのデートなのに……」

「一樹くんとデートできるならどこだっていいもん」

 申し訳なさそうにする一樹に対し、二葉は気にしないとばかりに首を振った。ナイスフォローだ二葉。

 二葉が一樹の手を引っ張りながら、来た道を引き返し始めたので、俺たちは電柱の陰に隠れてやり過ごし、尾行を続けた。

 一樹たちが牛丼屋に辿り着いて中に入り、カウンター席に座ってメニュー表を読み始めたところで、俺たちも入店する。窓際のテーブル席に座り、五李は牛丼の並盛を、三四郎は牛丼の特盛を注文し、手早く食べて一樹たちが食べ終えるのを待ち続けた。俺はというと、キャリーバッグから顔だけこっそり出して一樹たちを覗き見しつつ、バッグの中に放ってもらった少量のキャットフードをぱくついていた。

 一樹たちがようやく食べ終わり、ごちそうさまをして店を出たところで、俺たちも席を立つ。次の目的地は映画館だ。

 これまではキャリーバッグの中で大人しくしていることで、電車に乗ったり牛丼屋に入ったりすることが許されたものの、映画館ばかりはペットを同伴することができないだろう。せいぜいロビーまでだ。

 そんなわけで、五李の作戦のもと、シアター内には一人だけが入り、俺ともう一人はロビーで待機することになった。「ついでに映画も観たい」と五李が言い出したので、ロビーで待機する役目は三四郎が担った。

 尾行しながら作戦を立て終えたところで、ちょうどよく映画館のロビーに辿り着く。シアター内に入ってまで尾行する以上、まずは一樹たちが何の映画を観るか確認しないといけない。俺が見たデートプランにもそのことは書いていなかったので、きっと現地で二葉と話し合って決めるつもりだったんだろう。

 天井のモニターに流れている映画のコマーシャルや、壁に貼ってある巨大なポスターなどを一通り見回した後、一樹は一枚のポスターに歩み寄って指差した。忍び足で背後に回り、俺たちもポスターを見上げてみる。

 長編アニメーション映画で、タイトルは『猫の倍返し』。恨めしく睨む三毛猫の顔が一面に描かれたポスターだ。喜劇なのか復讐劇なのかさっぱり分からんが、ともかく一樹はこの映画が観たいらしい。二葉もこの奇抜なポスターを見て興味を持ったようだ。

 チケットを買いに窓口へと向かう一樹たち。先ほどの洋食屋ほどではないが、少しばかりの行列ができていたので、五李は一樹たちにばれないよう遅れて行列に並んでいった。俺と三四郎は、五李が買い終えるのを遠くでベンチに座りながら見守った。

 一樹たちの番がまわり、スタッフにお金を支払ってチケット二枚を受け取る。そのままチケット窓口から離れていくのを横目で見つつ、五李がチケットを買い終えるのを待っていたところ、突然男の子の泣き叫ぶ声が響き渡り、その場にいる全員が仰天した。

「うわーん! 『猫の倍返し』観たかったのにー!」

 声の正体は、一樹たちの次に並んでいた親子連れだった。言葉を聞く限り、どうやら男の子も観ようとしていた映画が一樹たちの分で満席になり、観れなくなってしまったことを嘆いているようだ。隣の母親が必死に宥めようとするも、男の子が全然泣き止まずに困り果てていた。

 どうにかしてやりたいところだが、席が埋まってしまった以上はどうしようもない。映画館のスタッフたちが立ち往生していたところ、横から颯爽と一樹たちが歩み寄ってきた。

「これ、ちょうど二枚あるから、君たちにあげる」

 そう言って男の子に差し出したのは、先ほど買ったばかりの映画チケット。男の子が泣き止むのと同時に、一樹たちの人情味溢れる行動に、周りの客やスタッフからは拍手喝采が沸き起こった。

 ただもらうばかりでは気が済まなかったのか、母親が何か別の映画チケットを買わせてほしいと言い出したので、一樹はお言葉に甘えてチケット二枚を受け取った。礼を言う男の子に手を振りながら、一樹たちは今度こそシアターへ続く廊下へと向かっていった。

 映画を観ることには変わりないが、少しばかりの予定変更だ。一樹たちから離れないようにしっかりと座席指定をして、五李も同じ映画チケットを購入した。別れ際に俺と三四郎に向かって小さくサムズアップをし、五李もシアターのほうへ向かった。

 三四郎のいびきにうなされながら待っていると、二時間ほど経ったころだろうか、先にシアターのほうから五李だけが姿を現した。こちらに駆け寄ってきた五李にぺしぺしと頬を叩かれ、ようやく三四郎も目を覚ました。

「あの二人、会話が途切れたりしないか心配ね……」

 突然眉をひそめる五李。どうしたと三四郎が聞くと、五李は不安な表情をそのままに答えた。

「今観てきたの、ラブロマンス映画だったんだけど。子供には見せられないシーンがわりとあったのよ」

 あたしも子供なんだけど、と付け加えながら、五李は気恥ずかしさで頬を染めた。

 遅れて、一樹と二葉の二人がロビーに現れる。なるほど、男と女で組んず解れつ……みたいなシーンが映画にあったんだなと、二人の様子を見てよく理解できた。

 映画を観終わった二人は羞恥で顔から火が出ており、会話どころか目線を合わせることすらままならないようだった。好きな人が隣にいる状況でそういうシーンを観せられたのだから、五李とは比べものにならないくらい恥ずかしかったことだろう。

 しばらくロビーの真ん中に突っ立ったまま黙っている二人だったが、痺れを切らした一樹が口を開いた。

「……隣にデパートがあるから、そこで散策でもしない?」

 二葉もこれ以上の沈黙は耐えられないとばかりにうなずいた。ようやく一樹たちが歩き出したところで、俺たちも尾行を再開した。

 所変わってデパート内部。七階もある巨大な建物をエスカレーターで昇っていくと、白のタイルで囲まれたフロアに、服屋や家具屋、文房具屋に本屋、おもちゃ屋にゲームセンターなど、数多の店舗が所狭しと立ち並んでいた。

 手をつないだままフロアを歩いていく二人を、後ろからついていきながら眺めていたが、二人は気まずさのあまりいまだに会話が弾まないようだった。一度だけ一樹から話しかけたが、近くに陳列している女性の下着が目に入ると、映画のシーンをまた思い出してしまったのか、せっかくの会話がすぐ途絶えてしまった。

「ごめん、お手洗いに行ってきてもいいかな……」

 苦し紛れに出た一樹の言葉がそれだった。二葉の了解を得て、天井に吊るされた案内板を頼りに、一樹は逃げるようにその場を去っていった。

 取り残された二葉だったが、決して不満そうにすることはなく、むしろ全然会話が弾まなくなってしまったことに焦っている様子だった。申し訳ないと思っているのは一樹も同じだろう。

 どうしたものかと俺たちが悩んでいたところ、突然二葉のほうに何者かが近寄ってきた。俺たちが考えるのを止めて注目すると、それはちゃらちゃらした身なりの男二人組だった。

「嬢ちゃん、かわいいねえ。一人なの?」

 ぐいぐいと口説き始める男二人を見て、こいつらは二葉をナンパしようとしているのだと察した。助けてやらなければと思ったところ、三四郎が待ってましたと言わんばかりに拳を鳴らし始めた。

「やっぱり湧いて出たわね。作戦どおり頼んだわよ、三四郎くん」

 五李がそう言って合図を送ると、三四郎は「任せろ」と返事して男二人へ向かっていった。五李も俺の顔をキャリーバッグの中に引っ込めてファスナーを閉め、三四郎の後に続いた。

 しつこくナンパを続けている男二人を、三四郎が呼び止める。男二人は邪魔されて苛立った声を上げたが、三四郎のでかい図体を目の当たりにしたからか、すぐに情けない声を上げ始めた。懲らしめられる前に逃げ出したのか、男二人の慌ただしい足音が次第に遠のいていった。

「あ、ありがとうございます」

 おどおどした声で礼を言う二葉。三四郎と五李は何も言わず立ち去ろうとしたが、すぐに二葉が二人を呼び止め、怪訝そうに尋ねた。

「あの、もし人違いなら申し訳ないのですが……私の友人だったりしません?」

 どうやら、二人の正体が二葉に勘づかれてしまったらしい。それ見たことか、モヒカン頭を帽子なんかでごまかそうとするからこうなる。

 どう切り抜けるつもりなのかと、バッグの中で聞き耳を立てていたところ、五李のひそひそ声が聞こえてきた。

「まずいわ……こうなったら、プランBよ!」

 五李は異常に甲高い声で二葉に言った。

「いきなり勘違いとかありえんてぃー、やばたんー」

 今度は三四郎のかしこまった渋い声が聞こえてきた。

「いえ、天地神明に誓ってそのようなことはございません」

 二人の唐突なキャラ作りに、俺は困惑してしまう。こんな子供騙しで二葉の目をごまかせるはずがない――そう思っていたが、その予想とは裏腹に納得した様子で二葉は呟いた。

「違うのかな……五李はギャルのことを毛嫌いしているし、三四郎くんも天地神明なんて言葉を知っているはずがないし……」

 好機を見逃さず、三四郎と五李が出し抜けに言った。

「さあ、私たちも早く行きましょう」

「りょー」

 二葉に次こそばれてしまう前にと、三四郎と五李は足早にその場を去った。

 おもちゃが並ぶ棚の陰に隠れながら、三四郎は五李に尋ねる。

「で、てんちしんめーって結局どういう意味なんだよ?」

「たくさんの神さまたちのこと」

 五李がキャリーバッグを開けながら答えた。やれやれ、やっぱり五李の入れ知恵だったようだが、どうにかごまかせて良かった。

 キャリーバッグから顔を出し、三四郎と五李と一緒に棚から二葉のほうを覗き込むと、ちょうど一樹が戻ってきている最中だった。棚に隠れながら、一樹と二葉の会話が聞こえる位置まで近づいた。

「一樹くん、ファスナーが空いているよ」

「えっ! まさか、ズボンのファスナー……?」

「ううん、そのショルダーバッグのほう」

 二葉がそう言って、一樹が担いでいるショルダーバッグを指差す。慌てふためいた一樹だったが、痴態を晒したわけではなかったことに安堵しつつ、礼を言ってバッグのファスナーを閉めた。

「何か買い物でもしていたの?」

 二葉の何気ない問いに、一樹は一瞬だけ動揺の色を見せたが、またすぐに平静を取り戻して「何も買ってないよ」と答えた。

「何かごまかしたみてえだけど……一体何を買ったんだ?」

 三四郎と五李は首を傾げたが、その一方で俺は一樹が何を買ったのかをすぐに察した。理由はほかでもない、一樹がデートプランに書いているのを見たからだ。

 一樹がこっそりと何を買ったのか、そしてこの後何をしようとしているのかを察しはしたものの、先ほどの気まずい空気がいつまでも続いているようでは、なかなか行動に移せないことだろう。一樹の邪魔をするつもりはなかったが、一樹が最高の幸せを掴んでくれることが何よりも重要だと思い、俺はあと一度だけ一樹の手助けをすると決心した。

 散策を満喫してデパートを出ると、仄かな紅色を放つ日が、静かに夜空に溶け込もうとしていた。もうすぐ一樹と二葉のデートも終わりを迎える。一樹の手助けをするのなら、今すぐにでも実行しないと間に合わない。

 意を決して、俺は緩く空いていたキャリーバッグからぴょんと飛び出し、地面に着地した。三四郎と五李が呼び止めるのを無視し、俺は一樹と二葉のいるほうへ走り出した。

「ニャン太郎……?」

 路地に座る俺の存在に気づいた一樹が、目を丸くしながら声を上げる。二葉も一樹の視線の先に注目し、そして俺の姿を見て息を呑んだ。

 俺はにゃんごろと鳴き声を上げると、一樹たちを誘導するように小走りで路地を駆け抜けていった。

 一樹と二葉が慌てて追いかけるも、一樹は運動音痴なせいで、二葉はデニムスカートを履いているせいで、思うように走れない様子だった。焦らなくていい、俺は一樹たちを幸せにするためにここにいる。二人に迷惑をかけるつもりはないさ。

 俺がどこに向かおうとしているのか。俺は、まだ野良猫としてひよっこだったころに、西町の連中と戦争をするため、何度かここに駆り出されたことがある。だから実は、この辺りの土地勘が少しばかりあるんだ。そして、デートの締めくくりに相応しい場所がこの近くにあることを、俺は今も覚えている。そこに連れていけば、一樹の背中を後押しすることができると考えたんだ。

 目的の場所に辿り着き、俺は振り向いて座りながら一樹たちが追いつくのを待った。遅れて一樹たちがやって来て、目の前に広がる光景にため息を漏らした。

 俺が連れてきたのは、イルミネーションがきらめくケヤキの並木道だ。夜空を彩る星々のように光を放つイルミネーションがずっと先まで続き、まるで天の川でも見ているかのようだった。西町にもこんな綺麗な所があるんだって感心した若かりしころの記憶が、色鮮やかな光景とともに蘇った。

 一樹が俺のもとへ駆け寄り、右腕を伸ばして俺を肩に乗せてくれる。俺は一樹の肩の上で丸くなり、一樹の頬を叩いて二葉のほうに注目させた。

 イルミネーションに見とれている二葉の立ち姿が可憐に思える。イルミネーションの星々も、一樹と二葉のことを温かく見守ってくれているかのようだ。今こそ勇気を出せと呼びかけるようにみゃうと鳴き、一樹も眦を決してうなずいた。

「二葉さん!」

 一樹が二葉を呼ぶ。二葉はびくっと肩を震わせ、驚いたまま一樹のほうを振り向いた。

 頬を赤らめながら、それでも覚悟を決めた様子で何かを言おうとしている一樹を見て、二葉も悟ってくれたらしい。体ごと向き合い、一樹の目をまっすぐ見つめたまま、二葉は一樹の言葉に耳を傾け続けた。

「その……」

 一樹が口ごもる。今、一樹は俺も経験したことがないほどに勇気を振り絞っている。頑張れ、俺は最後までそばにいるぞ。

 柔和に笑いながら待ち続けてくれる二葉を見て、一樹は再び口を開いた。

「東雲高校に入学して、初めて二葉さんを知ったときから、ずっと二葉さんの背中を追いかけてきた。二葉さんの隣に立つのに相応しい人間になりたかった。でも、今は違う……。僕は、二葉さんを支えられるような、二葉さんを引っ張っていけるような人間になりたい」

 一樹は突然、ショルダーバッグから小さな箱を取り出し、二葉に差し出した。中には星の形をした真鍮のネックレスが入っていた。

 それが先ほどデパートで買ったものであると、俺はすぐに理解した。デートの最後に、二葉に何かプレゼントできたらと、一樹はデートプランを練っていたときからずっと考えていたのだ。

 呆気に取られている二葉に向かって、耳まで顔を真っ赤にしながら、それでも二葉から決して目を逸らすことなく、一樹は言った。

「二葉さん、好きです。僕の恋人になってください」

 一樹は口を閉ざし、二葉からの返事を待ち続ける。心臓の音が一樹の肩越しにも伝わってきている。

 プレゼントを渡しながら告白だなんて重い男だと思われるかもしれないが、これが真面目な一樹なりの精一杯の誠意なんだ。一樹の想いが、二葉の心に届いてくれるかどうか。

「……ネックレス、今着けてもいい?」

 少しの沈黙の後、二葉が口を開いた。願ってもないことだったので、一樹は「二葉さんさえ良ければ」と言ってうなずいた。

 一樹に箱を開けてもらってネックレスを受け取り、両手でネックレスを摘んで首の後ろに回しながら、二葉も語り始めた。

「私も、一樹くんのことを素敵な人だなってずっと思ってた。国語科目の成績が良かったっていうのもあるけど、それ以上に、学級委員長の仕事や黒板消しとか、自分が犠牲になってでも誰かのためになろうとするところに惹かれたの。たとえそれがいじめにつながろうとも、一樹くんは決して匙を投げなかった。誠実な人なんだなって、一樹くんのことをずっと目で追いかけてた」

 二葉がネックレスを着け終え、幸せに満ちた顔で一樹に微笑みかける。一樹が思いの丈を込めた星は、周りのどんな星々よりも輝いていた。

「一樹くん、好き。大好きです。私を彼女にしてください」

 二葉が駆け寄って両腕を一樹の背中に回し、抱きついた。一樹は唖然としながら立ち尽くしていたが、告白が成功した事実を噛み締めるかのように、二葉を抱き締め返した。

 二人の邪魔をするわけにはいかないと思い、俺は一樹の肩から飛び降りて地面に着地し、二人を見守った。

「どうしよう。私、幸せすぎてにやけが止まらない。一樹くんに見せられないくらい変な顔してる」

 そんなことを言い出すので、俺が気になって見上げてみると、確かに二葉の顔はふにゃふにゃになってしまっていた。一樹が首を振り、二葉の頭を撫でながら言う。

「平気だよ。僕も同じかそれ以上に浮かれてるから。二葉さんが恋人になってくれて、本当にうれしい」

「私もだよ、一樹くん」

 一樹と二葉は、互いに満足するまで長いことハグを続けた。いや、ずっと前から好きだった人とようやく結ばれたのだから、二人が満足しきることなんてないのかもしれない。それほどまでに長く、強く、優しく、二人は抱き締め合っていた。

 これにてついに、一樹の恋路は終わりを迎えた。これ以上ないほどのハッピーエンドと言えるだろう。つまり、一樹を幸せにするという俺の目的がたった今、果たされたことになる。

 俺は一樹に向かってにゃあと鳴いた。俺から一樹へ最後に投げる、お別れの言葉だった。俺を見つめながらきょとんとしている一樹ににっと笑ってみせると、俺は一樹と二葉に背を向けて、風のように走り出した。

 一樹が二葉と一緒になって、何度も俺を呼び止めようとする。俺は立ち止まることなく、振り返ることなく走り続けた。

 お別れだ、一樹。今まで楽しかった。

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