第七章 友達のためならば

 テスト結果の最上位に注目しすぎていたせいで気づくのが少し遅れたようだが、学校中はずっと学年一位だった二葉が陥落したという話題で持ち切りになった。当事者である二葉は今日も欠席を続けており、生徒たちの間では「二葉は本当にただの風邪なのか」と疑う声が増え、さまざまな憶測が飛び交った。

 そんな中、唯一事情を知っていた一樹は、休み時間になって、俺を肩に乗せたまま三四郎と五李を廊下に呼び、この前保健室で起こった出来事を打ち明けた。二葉の内情を軽々しく流すわけにはいかないと最初は考えていたようだが、二葉がどん底に落ちていく様を見せられては、そうも言っていられなくなった。

 一樹の話を聞き、二葉の父親の腹黒さに三四郎は呆然としていたが、その一方で五李は納得した様子で言った。

「なるほどね……。あたしも話していなかったんだけど、実は二葉のお父さんって、大手企業の代表取締役を務めているらしいのよ。優秀すぎる分、意識も凄く高いらしくて……普段は高圧的で近寄りづらいって二葉が昔言ってたわ」

 今度は俺たちが納得させられた。保健室の先生が二葉の家に電話したとき、親じゃなくて使用人が出たみたいだったが、父親がそれほどの人間なら家に使用人がいてもおかしくはないだろう。

「みんな、ちょっといいかしら?」

 不意に呼ばれて振り返ると、六代先生が早歩きでこちらへやって来るのが見えた。逼迫した様子な辺り、六代先生も二葉のことで一樹たちのもとを訪れたんだろう。

「職員室でも二葉さんのことで話題になってまして。二葉さんとは仲良くしていたから、私も二葉さんのことが心配になって……。よく一緒にいるあなたたちなら何か知っているんじゃないかって思ったんです」

 一樹は六代先生にも知っている事情を打ち明けた。

「そうだったんですか……。ただの風邪というわけではなかったんですね」

 理解する六代先生に対してうなずくと、一樹は決然とした顔で言った。

「二葉さんはきっと今も苦しんでる。だから、二葉さんの力に少しでもなりたいんです。二葉さんと会うことはできないでしょうか?」

 六代先生は難しい顔を浮かべた。

「私もそう思って、二葉さんの担任の先生に相談してみたんです。ですが、プリントを届けに行くまではできても、二葉さんに直接会うことはできなかったそうなんです」

 三四郎と五李は腕を組んで唸り声を上げた。俺もどうすれば二葉に会えるか悩んでいたところ、出し抜けに一樹が六代先生に言った。

「六代先生、次にプリントを届けるのは僕たちに任せてほしいです」

「何か作戦でもあるんですか?」

 目を丸くする六代先生に対し、一樹は表情を崩すことなくこくりとうなずいた。少し考えた末、六代先生はにこりと微笑んで言った。

「分かりました、一樹くんたちを信じることにします。あとで二葉さんのプリントを持ってきますね」

「はい、ありがとうございます」

 一樹は六代先生に大きく頭を下げた。六代先生が踵を返して去っていったところで、疑問に思った三四郎が一樹に尋ねた。

「おい、二葉に会う作戦って何なんだよ?」

 一樹は手招きして三四郎と五李の顔を近くに引き寄せ、小声で話し始めた。

「二葉さんの家には使用人がいるから、インターホンを鳴らしても二葉さんが出てくる可能性は低い。六代先生の話からして、二葉さんに会いたいって頼んでも断られてしまうんだろう。なら、玄関の扉が開いたタイミングで無理矢理侵入するしかない」

 ニャンだとう……! 一樹の命知らずな作戦を聞き、俺だけでなく三四郎と五李も仰天した。だが、一樹の表情は真剣そのもので、決しておかしくなってしまったわけじゃないらしい。

「二葉ん家には使用人が何人かいるのよ? そんなことしようとしても捕まっちゃうのが落ちでしょ」

 怪訝な顔をして尋ねる五李。俺も三四郎も首を傾げていたが、一樹はこくりとうなずいて答えた。

「そうだね。だから、使用人たちの気を引きつける必要がある。僕たちだと難しくても、ニャン太郎にならそれができる」

 ん、何で俺なんだ……? 困惑する俺をよそに、一樹は説明を続ける。

「二葉さん家の庭、もしくは家の中にニャン太郎を放るんだ。家に猫が入ったとなれば、誰だって無視はできないからね。それに、使用人たちも雇い主の前で失態を晒すわけにはいかないだろうし」

 つまり、俺は囮になるってわけか! まあ、仮に捕まったとしても猫なら警察沙汰にはならないだろうが……それでも危険すぎる!

 気後れする俺だったが、その一方で三四郎と五李は、一樹の作戦に妙に納得していた。

「確かに、ニャン太郎はめちゃくちゃできる猫だからな……俺も頭が上がらねえくらい」

 三四郎の言葉に、五李もうんうんとうなずきやがる。一樹へのいじめを止めたり、三四郎の妹を捜したりと、どうやら目立つ真似をしすぎたようだ。薄情だぞお前ら!

「ニャン太郎、やってくれる?」

 一樹に救いを求める目を向けられ、思わず俺はたじろいでしまう。同時に、俺は一樹から受けた恩を思い出した。

 飢えていたあの時、一樹におにぎりをもらったから、俺は今も生き延びることができている。その多大なる恩を返すために、俺は一樹を幸せにするって決心したんだ。ならば、俺はこのお願いを断るわけにはいかない。二葉を助けることが一樹のためにもなるのなら、喜んで引き受けようじゃないか。

 返事の代わりにみゃうと鳴いてみせると、一樹はほっと胸を撫で下ろした。

「ようし。これより『二葉さんを助け隊』を結成する。二人も協力してくれるとうれしいな」

 意気込んでそう言うと、一樹は右手の甲を前に出して円陣を組もうとした。「ネーミングセンスねえな」と突っ込みつつも、三四郎と五李は快く一樹の手に各々の右手を重ねてくれた。俺も一樹の右腕を綱渡りし、三人の重なった手に自身の右手を乗せた。


 平日の昼なら二葉の父親もまだ帰宅していないだろうという判断から、『二葉を助け隊』の作戦は放課後に早速決行された。

 それにしても、二葉が大変な目に遭ってからというもの、一樹の行動力には驚かされっぱなしだ。自ら学級委員長を務めているし、たとえいじめにつながってもクラスメートに代わって黒板消しを続けていたくらいだし、他人のためならば自己犠牲を厭わない質なんだろうな。

 二葉の家には、幼馴染みらしい五李が住所と道筋を知っていたので、迷わず向かうことができた。学校近くの駅から電車で西町の方面に二駅進み、降りた先にある住宅街の道を右へ左へと歩いていった先に、二葉の家があった。

 学校の校門と同じくらい大きなロートアイアンの門と、きちんと手入れされている背の高い生垣に囲まれており、門から中を覗き込むと、そこにはまるで遠い国にでもいるかのような光景が広がっていた。小鳥も住みやすそうな枝の長い木々と、淑やかに花を咲かせる低木が周りに生えており、辺り一面には青々とした芝生が生い茂る。二葉ん家の庭になるんだろうが、これがまためちゃくちゃ広く、人間たちが不自由なくサッカーで遊べそうなほどだ。

 そして一番驚かされたのだが、学校でも見かけたプールが庭に設備されている。今は肌寒くなってきているが、もしまた蒸し暑い季節がやって来たらここで水遊びを満喫するのだろう。泳ぎ疲れたときにすぐ休めるよう、近くにデッキチェアとガーデンパラソルが備えられているおまけつきだ。テーブルを持ってくれば、野外での食事なんかも楽しめそうだな。

 門から続く道には磨かれた白い石が敷き詰められており、家の玄関へと続いていた。家のほうももちろん立派な邸宅で、レンガで建てられたお城のようなその家は風情さえ感じられた。二階に見えるベランダには色取り取りの花壇が並んでおり、一樹でも寝転がれそうなほどに広い。邸宅の脇にはイケメンな車が三台駐められており、もはやどこに注目しても次元の違いを思い知らされた。

 俺と一樹と三四郎が呆気に取られていたところ、唯一見慣れていた五李が遠くにある生垣を指差して声を上げた。俺たちが我に返って振り向くと、燕尾服を着た執事が剪定ばさみを使って生垣の手入れをしているのが見えた。外には一人しかいなかったが、これだけ広い敷地なのだから、ほかに何人か使用人がいてもおかしくはないだろう。

 一樹のアイコンタクトによる合図を受け取ると、俺は門の隅に隠れ、使用人がこちらに来てもばれないようにした。三四郎と五李にも目配せをすると、一樹は門にあるインターホンをピンポンと押した。

「どちらさまでしょうか?」

 インターホンから二葉ではない女性の声が返ってきた。一樹はインターホンに向かって用件を伝えた。

「二葉さんの友達です。学校のプリントを届けに来ました」

 また女性の声が返ってきた。

「かしこまりました。ただいまそちらへ参りますので、そのままお待ちいただけますか」

 ほどなくして、城のような家の扉が開かれ、中からメイド服を着た女性が現れた。扉の鍵を閉めずにこちらへ走ってきたので、今なら家の中にこっそりと入ることができそうだ。

 メイドが近くまでやって来て、門の鍵をガチャリと開けたところで、俺は意を決して門の下を潜り抜け、庭を一目散に走り出した。

「大変です! 猫が敷地内に侵入しました!」

 メイドが悲鳴を上げて立ち竦む一方で、生垣の手入れをしていた執事がトランシーバーを取り出して叫んだ。トランシーバーの声を聞きつけたのか、ほどなくして別の執事が二人ほど家から飛び出してきた。見るからに筋骨隆々で、もし捕まったら両手でぺちゃんこにされてしまいそうだ。

 だが俺は東の野良猫のボス、人間なんかにそう簡単に捕まったりはしない。執事たちが必死になって追いかけてくる中、俺は隙あらば後ろ足で立ってステップを踏んでみたりして、執事たちをおちょくった。執事たちが向きになっている今のうちに、一樹たちが家の中に侵入できればいいんだが。

 門のほうをちらっと見てみると、立ち竦んだまま俺に気を取られているメイドの後ろから、一樹たちが忍び足で玄関へと向かい、家の中に入っていくのが見えた。ひとまずは作戦成功だな。

 少しばかり走りすぎたので、俺は家の角に回って執事たちをいったん振り切り、家の裏口近くに生えている低木の中に隠れた。このままじっとしていてもよかったが、囮役を引き受けた以上、一樹たちが戻ってくるまでは追いかけっこを続けなければならない。

 息が整ったら低木から出ようと思ったときだった。突然、低木の中に細い二本腕がにゅっと入り込んできたのだ。ぎょっと度肝を抜かれている間に、俺は体を掴まれて低木から引き抜かれてしまった。

 おかしい、執事たちが離れた所にいるのはさっき確認したはずだ。一体誰だと思い見上げると、婦人が興味津々にこちらを覗き込んでいた。胸元を結んだカーキ色のボウタイブラウスに、ネイビー色のフレアースカートを合わせている。ふわっとした茶色いロングの巻き髪をしており、端整な顔からは穏やかそうな人柄が滲み出ていた。

 俺が婦人に見入ってしまっていたところ、婦人は肘にかけていたバスタオルでいきなり俺を包み始めた。逃げられなくなってじたばたしていると、婦人に背中を押さえつけられながら「じっとしてて」と小声で言いつけられた。

「奥さま、いかがなさいましたか?」

 何も見えないまま大人しくしていると、遠くから執事の声と足音が近づいてきた。婦人は落ち着き払った様子で答えた。

「メイドから猫が庭に侵入してきたって聞いたから、心配になって見に来たんです。ついでに家の鍵を閉めておいたほうがいいんじゃないかと思って」

 納得する執事に対し、婦人は言葉を続けた。

「正面玄関のほうは施錠しておきました。裏口のほうも私が閉めておきますから、あなたたちは引き続き猫の捜索を続けてください」

「かしこまりました」

 執事の返事を聞くと、婦人はバスタオルで包んだ俺を抱えながら踵を返した。バスタオルの隙間から覗き込むと、わずかに婦人の爪先辺りが見え、婦人が裏口から家の中へ向かっていることが分かった。

 家の中に入って裏口の鍵を閉めると、バスタオルから耳が浮き出ていたのだろうか、婦人は俺の耳元で囁いてきた。

「一樹くんたちの所に連れていくから、もう少しだけ待ってちょうだい。メイドがまだ一人家の中にいるのよ」

 それを聞いてようやく、婦人が俺たちに味方してくれているのだと俺は把握した。そっと俺の耳を押さえると、婦人はスリッパを脱ぎ、家の中に置いていた別のスリッパに履き替え、足早に歩き始めた。

 なぜ婦人が手助けしてくれるのかは分からなかったが、俺は婦人の指示に従い、尻尾も丸めてバスタオルの中で大人しくし続けた。間もなくして婦人が言っていたメイドの足が見えたが、婦人がさっさとすれ違ってくれたので、勘づかれずに済んだ。

 しかし、さすがは邸宅と言ったところか、ちょっと歩いたくらいではなかなか目的地に到着しない。婦人がふうふう言いながら階段を五十段ほど上り、そこからもう少しだけ進んだところで、婦人はようやく足を止めた。

「二葉のお母さん!」

 五李の声が聞こえ、近くに一樹たちがいると分かったのと同時に、婦人がバスタオルを取って俺を解放してくれた。すると、すぐ目の前に一樹たちがいたので、俺は婦人の手からぴょんと飛び降り、一樹の体をジャンプして登って、特等席である肩に乗っかった。

 落ち着いたところで辺りを見渡し、その内装の凄さにまた唖然とした。とにかく広くて優雅だった。大理石で囲まれた廊下は校舎内みたいに長く入り組んでおり、壁には引き込まれるような風景画が何枚か飾られている。階段の手すりは曲線的な植物の模様をしており、段板にはふかふかの赤い絨毯が敷かれている。また、天井のシャンデリアだけでなく壁の足元にも照明が取りつけられており、夜に廊下を渡るときの配慮まで感じ取れた。

 一通り見尽くしたところで、俺はあらためて、先ほどまで世話になった婦人――二葉の母親を見つめた。こうして見ると、電話越しでも冷たかった二葉の父親とは雰囲気が似ても似つかない。俺の視線に気づくと、二葉の母親は顔を綻ばせながら俺に手を振った。

「五李ちゃん、久し振りね。一樹くんとニャン太郎ちゃんは初めまして」

 朗らかな笑みをそのままに、二葉の母親が挨拶をする。二葉の幼馴染みである五李はともかく、初対面である俺たちまで知っているかのような口振りに、俺は目を丸くした。

「どうして僕のことを?」

 一樹が気になって聞くと、二葉の母親はふふっと上品に笑いながら答えた。

「だって、二葉ったらここしばらく、一樹くんとようやく仲良くなれたって、あなたたちのことをうれしそうに話してたんだもの」

 これはもう、二葉が一樹のことを好きだって言っているようなものだったが、相変わらず鈍感な一樹は「現代文の成績が良かったからかな……」と呟いていた。俺と三四郎と五李が呆れてため息をつく一方で、二葉の母親は初々しく思ったのか、照れている一樹をにこにこしながら見つめていた。

「あなたは……ごめんなさい、二葉から話を聞けてないから分からないわ」

 ようやく三四郎に注目し、二葉の母親は申し訳なさそうに言った。三四郎が二葉たちと絡むようになったのは最近のことだし、仕方ないと言えば仕方ない。

「俺、三四郎って言うっす。二葉とは最近ダチになったばっかっす」

 三四郎が下手くそな敬語で自己紹介すると、二葉の母親は納得し、そして特徴的な赤いモヒカンに目を輝かせながら言った。

「そうなのね。羽毟りして揚げたらとっても美味しそう……」

「誰が鶏じゃい」

 三四郎は青筋を立てながら突っ込んだ。

「二葉のお母さん。二葉の部屋を探しているんですけど、どこにあるか教えてもらえませんか?」

 おずおずと尋ねる五李に対し、二葉の母親は快くうなずいた。

「五李ちゃんが家に来たのって随分前のことだもんね。あれから二葉も結構大きくなったから、別の部屋に住まわせてるのよ。案内するから、ついてきてちょうだい」

 一樹たちの間を通り抜けて先に立つと、二葉の母親は俺たちのほうを振り向き、また顔を綻ばせて言った。

「みんな、二葉を元気づけるために来てくれたんでしょう? こんなに優しいお友達がいっぱいいて、私も鼻が高いわ」

 俺たちは、二葉の母親に案内されるがまま、迷路のような廊下を進んでいった。扉がいくつもある中、やがて廊下の一番奥にある扉の前で二葉の母親は足を止めた。扉にかけられた肉球のドアプレートには『FUTABA』と書かれている。

 俺たちが後ろから見守る中、二葉の母親はコンコンと扉を二回ノックし、声を上げた。

「二葉? 私だけど、入っても大丈夫かしら?」

 扉の向こうから、二葉の気怠そうな声が返ってきた。

「お母さま? 入っていいよ、まだ熱っぽいけど……」

 こちらに手でOKサインを送った後、二葉の母親は扉を開けた。

 中は水色のクロスとフローリングで囲まれており、思ったよりもカジュアルな雰囲気を持った部屋だった。だが広さはかなりのもので、勉強部屋と寝室がつながりひとつの部屋になっていた。

 右奥にある勉強部屋には、PCデスクも兼ねた大きな勉強机と、参考書や小説などがぎっしり詰まった本棚が置かれている。手前にあって少し広めに作られた寝室には、ふかふかのベッドやクローゼットのほかに、大型テレビやソファなどがあり、十分にくつろげる空間となっていた。天井の照明にはファンまで備わっている。壁の飾り棚やベッドの上には、どこから掻き集めたのか、熊や犬などといった動物のぬいぐるみがたくさん飾られていた。

 そんなぬいぐるみたちに囲まれながら、二葉はパジャマ姿でベッドに寝て、布団から顔を覗かせていた。まだ熱で元気じゃないのもあるんだろうが、その顔は前に保健室で別れたときと同じくらい酷くやつれていた。だが、二葉の母親の後に続くように、俺たちが部屋の中に入ってくるのを目にするなり、二葉は驚愕し、慌てて布団の中に潜り込んでしまった。

「せっかく一樹くんたちが来てくれたのに、そんなことしたら失礼でしょう?」

 むっとして叱る二葉の母親に対し、二葉は布団の中で体を震わせながら言った。

「だって、もう一樹くんたちとは関わるなって、お父さまに言いつけられたから……」

 やはりあの父親かと、俺は呆れてため息をついた。自分の子供をここまで追い詰めるような親なんて、野良猫にもそうそういない。支配による教養があっていいはずがないんだ。

 あの父親にはがつんと猫パンチをかましてやりたいところだが、それよりもまずは二葉のほうだ。父親の恫喝によって怯えきっているようだが、それ以外に、一樹たちまで危険な目に遭ってほしくないという思いもあるのかもしれない。学校のリーダーを務めるほど責任感が強い二葉のことだからな。

 もちろん、一樹たちがそれを鵜呑みにすることはないだろう。だからこそ、こうして二葉の部屋に押しかけてきたんだ。猫の俺には無理でも、一樹たちなら諦めてしまっている二葉を説得してくれるはずだ。

 そんな俺の期待に応えるように、一樹が率先してベッドに歩み寄り、床に片膝をつき、布団から出てこない二葉に向かって語りかけた。

「二葉さん、僕だよ。できれば最後まで聞いてほしい。二葉さんと仲良くなれるまで、僕にとって二葉さんは憧れの存在だったんだ。生徒会長で、運動もできて、テストはいつも学年一位で。そんな二葉さんに少しでも近づくのが僕の目標だった。だから、二葉さんが僕を勉強に誘ってくれて、二葉さんが僕のことを認めてくれて、本当にうれしかったんだ」

 一樹に話しかけられて、二葉の体がぴくりと反応した。だが、二葉は意固地になって布団の中にこもり続けた。

 めげることなく一樹が言葉を続ける。

「僕は二葉さんとこれからも仲良くしたい。そして、二葉さんにはこれからも僕らの憧れであり続けてほしい。そのためになら何でも力になるよ。二葉さんの父さんだって怖くなんかない。二葉さんがまた笑ってくれるようになるまで、僕はいくらでも立ち向かうよ」

 布団の中から、二葉のすすり泣く声が聞こえてきた。一樹の懸命な説得が、二葉の心を少しずつ開かせているんだ。

「あんたばかり良い格好させないわよ」

 そう言って、五李と三四郎も一樹の隣にやって来た。まだ布団の中にいる二葉に向かって、二人も呼びかける。

「二葉、小さいころからずっと仲良くしていたのに、今さら絶縁だなんて許さないわよ。あんたは変なところがあるけど、あたしにとって馬が合う数少ない人なんだから、これからも友達でいなさい」

「俺はお前たちとつるむようになったのは最近のことだけどよ、いきなり突っぱねられて大人しく引き下がるわけねえだろ。何より、一樹を悲しませるような真似はこの俺が許さねえからな。デコピンを食らいたくなかったら出てこいよな」

 ぐすぐすと泣き続けていた二葉が、ゆっくりと布団をめくり、また顔を覗かせた。

「私、みんなの憧れになれるような人間じゃない。こんな風にすぐ挫けちゃう弱い人間だよ?」

 目を潤わせて言う二葉に対し、一樹は柔和な笑みを浮かべてみせた。

「いいんだよ、少しくらい弱くたって。僕たちがいくらでも支えてあげる。だから、二葉さんも遠慮なく僕らを頼ってほしいんだ」

 ずっと堪えようとしていた二葉だったが、とうとう我慢できずに号泣した。そして布団から飛び出し、勢いのまま一樹に抱きついた。

 思わず一樹の肩から飛び降りる。一樹が顔を真っ赤にしながら二葉を引きはがそうとするも、二葉は一向に離れようとしない。三四郎と五李は口笛を吹いて一樹たちをからかい、後ろで見ていた二葉の母親は涙まみれになった顔をハンカチで拭いていた。

 二葉の後頭部を優しく叩いて宥めながら、一樹は二葉をもう一度ベッドに寝かせた。

「さあ、まずは熱を治さなきゃ。元気になったらまた僕たちと学校で話そう」

 一樹の呼びかけを聞き、二葉は素直にこくりとうなずいた。これで一件落着だな。

 手に持っていた鞄の中からプリントを取り出して二葉に手渡し、俺をまた肩に乗せて立ち上がると、一樹は三四郎、五李と一緒に別れを告げて、二葉の部屋を後にしようとした。扉へ歩き、ドアノブに手をかけた途端――俺と一樹は、扉の向こう側にある気配に気づいて息を呑んだ。誰かいる――。

 恐る恐る扉を開けると、いた。スーツを着こなした黒いオールバックの男が、使用人たちを従え、冷酷無情な顔をしてこちらを見下ろしていた。振り返ってみて、二葉が愕然としているのを見て、この男こそが二葉の父親なのだと理解する。

「……貴様、あの時電話に出た小僧か」

 二葉の父親が口を開く。俺は敵意を剥き出しにし、猫パンチをお見舞いしようとした――が、一樹に体を掴まれて飛びかかることができなくなってしまう。

「三四郎くん、ニャン太郎をお願い」

 一樹は二葉の父親から目を離すことなく、隣にいる三四郎に俺を預けた。俺は気が気でなかったが、一樹は一人で二葉の父親に立ち向かうつもりらしい。

「二葉から関わるなと聞かなかったか? なぜまだ二葉に纏わりついている?」

 相変わらず冷たい声で威圧してくる二葉の父親に対し、一樹は臆することなく言い返した。

「二葉さんの友達だからです。僕たちも二葉さんも、一緒にいることを望んでいるからです。たとえあなたが相手だろうと、僕は絶対に退いたりしない。二葉さんの力になるって約束したんだ」

 闘志を燃やしながら睨み返す一樹。決死の覚悟で挑む一樹の気迫に、二葉の父親の後ろにいる使用人たちも、横で見ていた俺たちも圧されてしまう。

 しばらく睨み合っていた二人だったが、宣言どおり一歩も退かない一樹を見て、二葉の父親は口元を緩めた。

「すまなかった」

 突然謝られて呆然とする一樹に対し、二葉の父親は言葉を続ける。

「認めよう、私が間違っていた。真面目で頑張り屋な娘だからこそ、二葉には一人前の人間になってほしかった。そして、生半可な人間を近寄らせたくなかった。だが、君は生半可なんかじゃない、友を想い私に真正面から立ち向かえる、誰よりも誠実で勇敢な人間だった。君のような人間なら、二葉の背中を安心して任せられる」

 二葉の父親は、一樹に深々と頭を下げて言った。

「どうか、これからも二葉を支えてやってほしい。二葉の父親である私からの願いだ」

 予想外の結末に言葉が出ない一樹だったが、三四郎に背中を叩かれて我に返った。三四郎の腕から一樹の肩にぴょんと跳び乗り、にゃあと鳴いて労うと、一樹もようやく笑顔を取り戻した。

「一樹くん、格好良かったわあ。私の両親に結婚の挨拶をしたときのあなたを思い出しちゃった」

 頬をピンクに染めて懐かしむ二葉の母親に対し、二葉の父親も照れて頬を赤らめながら「余計なことを思い出すな」と怒った。

「それにしても、あなた二葉に厳しすぎよ。期待しているのは分かるけど、ほどほどにしなきゃ駄目よ」

 頬を膨らませる二葉の母親に対し、二葉の父親は頭を抱えながら言った。

「ぐうの音も出ない……古い根性論をこじらせるのは駄目な大人の典型例だ……」

 二葉の母親が二葉にウインクするのを見て、緊張が解れたのか、二葉はぽろぽろと涙をこぼしながら顔を綻ばせていた。今度こそ一件落着だ。

 それにしても、今日の一樹は本当に頼もしかった。前に五李が言っていたとおりだった。一樹は俺たちが思っているよりもずっとできるやつなんだ。もう、俺の助けはいらないんじゃないかと思えるほどに。

「大したものね、一樹くん!」

 五李からの称賛に、一樹は照れながらも言った。

「僕だけの力じゃないよ。僕はこれまで、二葉さんや五李さん、三四郎くん、六代先生、そしてニャン太郎、色んな仲間に助けられたんだ。僕が勇気を振り絞れたのは、みんながいてくれたからこそだよ」

「まだ格好つけてんのかあ?」

「本心だよ!」

 茶化す三四郎に対し、頬を赤らめて突っ込む一樹。その肩に乗りながら、俺は一樹の言葉に強くありがたみを感じた。

 一樹は俺たちのおかげだと言ってくれた。俺のことを必要としてくれた。ならば、まだ一樹のもとを離れるわけにはいかない。一樹に恩を返すまで、一樹が最高の幸せを掴み取るその時まで、俺は一樹のそばにいると誓おう。


 それから一週間ほどして、二葉も熱が治まり、学校にまた元気な姿を見せるようになった。定期テストは初めて学年一位の座を逃してしまったものの、「それよりももっと価値のあるものを手に入れた」と、二葉は幸せそうに語った。

 そしてとある日の放課後、俺と一樹は学校の廊下で二葉と鉢合わせる。三四郎と五李を交えて談笑することはあれど、俺を除いて二人きりで話すのは、二葉が復帰してから初めてのことだった。

「一樹くん、この前は本当にありがとう」

 幸せそうな顔で微笑みながら、二葉は言った。

「私、一樹くんと仲良くなれて本当に良かった。五李たちもだけど、私が今も自分の好きなように生きれるのは、何よりも一樹くんが助けてくれたおかげだよ」

「気にしないでよ、友達なんだから……」

 照れながら遠慮する一樹。それを聞き、二葉は突然の行動に出た。あと一歩進めば体が触れてしまいそうなほどに、一樹の目前まで歩み寄ってきたのだ。

「本当にそれだけ?」

 一樹の両腕をそっと掴み、上目遣いで尋ねてくる二葉。一樹の肩に乗っている俺のことなんかお構いなしだ。真っ赤になりながら口をぱくぱくさせている一樹に対し、二葉も頬を染めながら言った。

「デートしよ、一樹くん」

 二葉の手がするすると、一樹の腕から手首、手へと滑り落ちる。そして、一樹の指に自身の指を絡める。「ねっ」と至近距離で微笑みかけてくる二葉にOKの返事をするまで、一樹は動悸で数分ほどの時間を要してしまった。

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