第六章 恋路の手強い障壁

 紅葉が秋風に吹かれ、道行く人々の足元で踊るようになったころ。文化祭が無事に終わった矢先、一樹たちに新たな試練が立ちはだかる。定期テストだ。

 ここしばらく、一樹たちは文化祭の準備でずっと忙しそうにしていたが、その間に一か月近くの時があっという間に過ぎてしまったらしい。学校のホームルームで定期テストのことを六代先生から告げられると、クラスメートの連中はみんなして「またかよ」と嘆いていたが、一樹は次のテストも高得点を狙おうと意気込んでいた。

「お前といい生徒会のやつらといい、よくもまあそんなに勉強のやる気を出せるもんだよな」

 ホームルームが終わった後、三四郎が一樹の座っている席に歩み寄り、腕組みしながら呆れたように言った。

「分かるようになってきたら楽しくなるんだけどなぁ」

 一樹が顔だけ振り返って残念そうに言うも、三四郎はまったくもって理解できない様子のままだ。

「それに、ある程度は点数を取っておかないと、受験生になったときに苦労するよ」

 心配する一樹に対し、三四郎は都合が悪そうにそっぽを向きながら言い返した。

「いいんだよ。俺はこの前のテストも全教科満点だったからな」

「本当は?」

「九百点中四百点くらい」

「そんな点数じゃまともに大学を選ぶこともできないよ!」

「いいっつってんだろ。別にどこの大学に行ったって、何なら大学に行かねえで就職することになったって、俺は構わねえ」

 三四郎の言い分を聞いて納得できなかったのか、一樹は俺を肩から机に降ろして立ち上がり、自分の席に戻ろうとしている三四郎を呼び止めた。

「なら、こうさせて。今からテストが始まるまでの放課後、僕がその日勉強しない分のノートを貸すよ。必要ならマンツーマンで勉強を教える」

 勉強をする気のない三四郎は、あからさまに嫌そうな顔をした。

「はあ? 何でお前がいちいち世話を焼いてくるんだよ、ほっとけって」

 三四郎がしっしっと追い払うも、一樹は引き下がらずに続けた。

「僕がそうしたいからだよ。文化祭の準備をするとき、三四郎くんが僕とニャン太郎を庇ってくれたようにさ。あの時は凄く助けられたから、今度は僕が三四郎くんを助けたいんだ」

「けどなぁ……」

 一樹の熱心な説得を聞いても、三四郎はなかなか首を縦に振らない。

 ずっと静観するつもりの俺だったが、一樹が三四郎の力になりたいというのなら話は別だ。俺は一樹の机からぴょんぴょんと跳んで三四郎の近くにある机へ渡り、三四郎を見上げながらみゃうと鳴いてみせた。「厚意はありがたく受け取るもんだ」って呼びかけたつもりだったが、ちゃんと伝わったかな。

 一樹の熱意にようやく折れたのか、三四郎は大きくため息をついて言った。

「分かったよ。お前とニャン太郎がそこまで言うなら、俺も次のテストはちゃんと勉強するからよ。お前もその時はいろいろ教えてくれよな」

「もちろん!」

 一樹は喜色満面でうなずいてみせた。三四郎はそっぽを向いて「勉強オタクがよ……」と悪たれたが、すぐ横で見ていた俺にはそれが照れ隠しであることが一目瞭然だった。


 そうして、次の定期テストが始まるまでの数週間、三四郎は一樹と一緒に勉強するようになった。

 初めに、一樹はノートまとめのテクニックを三四郎に伝授した。一樹いわく、あらかじめ分かりやすくノートを取っておいて、テスト前に読み直すだけでもかなり効果があるとのことだ。色ペンや蛍光ペンはほどほどに使うとか、一行に文字を詰めすぎないとか、一樹のいちいち細かいアドバイスを三四郎は面倒くさそうに聞き流していたが、放課後に借りた一樹のノートを見て感心したのか、次第に一樹のノートのまとめかたを真似するようになった。

 三四郎が勉強に取り組むに連れ、一樹に対する質問も徐々に増えていった。まず、英単語や地理歴史・公民の用語を覚えるのが難しいと三四郎は相談したが、こればかりは反復して覚えるしかないと、一樹は新品の単語帳なるものを二個ほど三四郎にあげた。

 次に、英文の読み書きが分からないと三四郎は嘆いたが、英語には日本語と同じように文型がいくつかあって、それらに基づいて文章が作られているだけだ。文型と品詞の結びつきさえ理解できれば、読み書きもできるようになると一樹は説明した。

 そして、教科書に載っている英文の単語ひとつひとつに、何本かの蛍光ペンを分けて引き、それらがどういった文型で結びついているかをマンツーマンで説明した。教科書にある英文ですぐに理解できないようなら、もっとシンプルな英文に作り直して解説し、それに単語を少しずつ付け足していくことで読解できるようにした。

 初めは覚えることが多く、三四郎も頭がこんがらがることが何度もあったようだが、一樹の丁寧な解説と、理解できるようになるまで付き添う真摯な姿勢に感化されてか、勉強を投げ出すことは一切しなかった。三四郎が勉強を始めて一週間が経ってからは、三四郎のほうからやる気を見せ、放課後だけでなく昼休みも勉強を教えてほしいと一樹に頼むようになった。

 三四郎のそういった姿は、本当は律儀なやつなんだなと感心するのに十分すぎるものだった。俺だけでなく、廊下から教室の窓越しに見た先生たちも、てこでも動かなかった不良少年の豹変ぶりに驚愕しているようだった。


 三四郎の勉強が波に乗り、定期テストがあと一週間まで迫ったところで、放課後に一樹のスマートフォンが鳴った。一樹の肩に乗り、一樹と一緒に画面を確認すると、五李からのメッセージだった。

『五李:もうすぐ定期テストが始まるし、また一緒に勉強会するわよ。二葉ったら、三四郎くんに一樹くんをずっと取られてて、すっかりふてくされちゃってるんだから』

 メッセージにある二葉のことを鵜呑みにせず、一樹は三四郎を誘い、放課後に集合場所である図書室にやって来た。二葉と五李が先に待っていたので、合流して中へ入ると、ちょうど四席空いたテーブルが残っていたので、一樹と三四郎が片方の二席に座り、二葉と五李は向かい側の二席に座った。俺は一樹たちの邪魔にならないよう、テーブルの隅っこで丸くなった。

 ふと二葉に目を向けると、五李からのメッセージが決して嘘ではないことを知った。一樹はまったく気づいていないようだったが、図書室で勉強会を始めてからというもの、二葉はずっと三四郎を睨みっぱなしだった。明らかな焼き餅だった。一樹に勉強を教わっている間も、三四郎は二葉に敵意を剥き出しにされて気が気でない様子だった。

「一樹くん、二葉が構ってくれなくて寂しいって」

 ひまわりの種を食べるハムスターみたいに膨らんだ二葉の頬を突っつきながら、五李が小声で一樹に呼びかける。三四郎も限界だと言わんばかりに立ち上がり、二葉と席を交代しようとしていた。

「ちょっと五李! でたらめなこと言わないでよ!」

 二葉が真っ赤になって怒るも、五李は「どうだかねえ」と反省の素振りを見せない。どうやら五李は思わせぶりな言葉で一樹に二葉の恋心を気づかせようとしているようだったが、鈍感すぎる一樹にはその意図がまったく伝わっていないようだった。

「あんまり困らせるようなことをしちゃ駄目だよ、五李さん。それに、二葉さんが僕なんかをそんな風に思うわけないじゃないか」

 いたって真面目に五李を叱ったつもりの一樹だったが、それがあまりにも空回りした発言であることに気づいていないようだ。三四郎と席を交代した後、二葉は今度は一樹を睨みつけて頬を膨らませていた。一樹のほうはというと、現代文を教えるのに夢中で相変わらず気づく気配がなかった。

「やれやれ、こんなんじゃ先が思いやられるな」

 今まさに俺が呟こうとしたことを、五李の隣に座った三四郎が口にした。その独り言に反応し、俺だけでなく五李も三四郎に注目する。

「あんた、あの二人が両想いなの知ってたの?」

「知るも何も、文化祭のときのこいつら見てたら分かるだろ」

 一樹たちにも聞こえない声量で尋ねる五李に対し、三四郎は呆れたように肩をすくめながら言った。期待を込めた目を向けながら、五李は三四郎に再び尋ねた。

「二人の仲を取り持つ気は?」

「ないこともない」

 三四郎が返答すると、五李と三四郎は突然がしっと固い握手を結び出した。今この瞬間、二人は一樹と二葉の恋を成熟させるために結託したようだ。一体何を見せられているんだ俺は。

 周りの生徒たちから迷惑そうに見られ、小声でもうるさくしてしまったことに気づいたところで、一樹以外の三人もようやく勉強に専念し始めた。

「生徒会長、なんか顔赤いぞ。大丈夫か?」

 様子がおかしいことに気づいた三四郎が、二葉に聞いた。俺も顔を上げて注目すると、確かに二葉は筆記をしながらも顔を火照らせていた。

「大丈夫だから、ほっといて」

 二葉は筆記の手を止めることなく返事した。一樹の無自覚ぶりにすっかりかんかんになっちまったんだな。

 そんな呑気なことを想像していた俺だったが、ほどなくしてそれが的外れであったことを知る。しばらく経っても顔色が元に戻らないどころか、二葉は無意識のうちに頭を抱えながら息を切らしていた。もしかして二葉、具合が悪くなったのか?

 二葉の荒い呼吸が聞こえたのか、隣にいる一樹も、二葉が辛そうにしていることに気づいた。そして、とんとんと二葉の肩を叩いて振り向かせた。何をするつもりなのかと思ったのも束の間、突然一樹は二葉のおでこに手を当て始めた。

 二葉が困惑している一方で、一樹は深刻な表情のまま言った。

「やっぱり……凄い熱だよ二葉さん。保健室に行かなきゃ!」

 速やかに自分と二葉の勉強道具を片づけ、鞄二個を抱え、二葉に肩を貸して立たせると、一樹は三四郎と五李に「行ってくるね」と告げ、せっせと廊下へ向かっていった。普段はのほほんとしているが、いざというときには頼りになる、一樹の意外な一面を俺は知った。

 周りの生徒たちがどよめき、三四郎と五李がぽかんとしているのをよそに、俺は急いでテーブルから床へ降り、走って一樹たちの後を追った。

 導かれるままに保健室に着き、気になって部屋の中を見渡すと、硬そうな白いベッドが並んでいたり、棚に何十本も薬の瓶が入っていたりしたので、ここで生徒が治療を受けるんだろうなと想像できた。一樹よりも高く伸びた棒が立つ台や、欠けた黒い輪っかがいくつも描かれたポスターとかは、人間がどんな目的で使うのかまったく分からないが……。

 白衣を着た女性の先生に事情を説明すると、一樹はベッドの上に二葉を寝かせ、先生が作ってくれた氷のうを二葉のおでこに乗せた。ようやく一樹の手が空いたところで、俺はぴょんと一樹の肩に跳び乗った。

 ベッドの回りにある間仕切りカーテンを閉めると、先生は二葉に帰宅するよう促し、親御さんに電話するから連絡先を教えてと頼んだ。二葉は熱にうなされながらも、先生に家の電話番号を伝えた。

「電話がつながったら、母に迎えに来てほしいと伝えてください。父には連絡しないでほしいです……」

 急に二葉がそんなことを縋るように言い出したので、俺たちは目を丸くした。親子喧嘩でもしてんのかな。

 怪訝そうにしながらもうなずくと、先生は近くの机に置いてある電話機の受話器を取り、早速電話を始めた。

「もしもし、二葉さんのお母さまでお間違いないでしょうか……えっ、使用人?」

 電話をしている先生の口から凄いワードが出てきたので、横で聞いていた俺と一樹も度肝を抜かれた。二葉ってもしかしてどこぞの令嬢か何かなのか……?

 先生が話を続ける。

「失礼しました……。ええ、実は二葉さんが高熱を出してしまいまして。よろしければお母さまに迎えに来ていただけないかと」

 すると突然、受話器のほうから俺たちにも聞こえるほどの雑音が鳴った。それほどのことが電話相手に起こっているのだろうか。受話器を落としたとかならまだかわいいほうだが、先生が何度か「もしもし」と呼びかけても反応がない辺り、どうやらただごとではないようだ。

 それから少しして雑音が止み、先生もようやく電話相手の声を聞き取れるようになったようだ。だが、電話相手がずっと話しているのか、先生は何も言わず相槌を打つばかりだった。

 やがて、電話相手の話が終わったのか、先生が耳から受話器を離した。そして、横になっている二葉のほうを振り向き、とんでもないことを口にした。

「二葉さんのお父さまから……あなたに電話をすぐ代われって……」

 それを聞き、二葉は熱があるにもかかわらず、ショックのあまり顔が真っ青になった。受話器を手で押さえながら、先生が申し訳なさそうに続ける。

「ごめんなさい……電話の声を通りかかったお父さまに聞かれたみたいで……受話器を取られてしまったみたいなの……」

 先生や使用人を責めているわけではないようだが、本当に父親と話すのが嫌なのか、二葉はぶるぶると震え上がっていた。ただでさえ高熱でまともに話せる状態じゃないっていうのに、電話に出るよう強要するなんて酷いやつだと思ったが、それでも二葉が従おうとする辺り、逆らうことができないんだろうな。

 二葉を止めようか悩んだとき、突然ぐわんと視界が歪んだ。一樹が俺を肩に乗せたまま、先生のほうに歩み寄ったのだ。

 見上げると、いつも温厚な一樹の表情は怒りに満ち溢れていた。それほどまでに、ここにいる誰よりも、二葉の父親の言ったことが許せなかったんだろう。

 怯んでいる先生の両手から受話器を取り、一樹は堂々と名乗り出た。

「もしもし、二葉さんの友達の一樹と申します」

「……誰だ?」

 受話器から声が返ってきた。氷のように冷たく、岩壁のように威圧的な声だった。

「友達だと? 一体何の真似だ?」

 二葉の父親が苛立つも、一樹は臆することなく言い返した。

「それはこちらの台詞です。たった今先生から二葉さんの容態を聞いたばかりですよね? なぜ病人に無理強いさせるんですか?」

「家族のことに口出しするな。お前に文句を言われる筋合いなどない」

「軽蔑します。人としても、一人の親としても」

 電話越しに激しくぶつかり合う二人だったが、慌てて駆け寄ってきた二葉が一樹から受話器を取り上げたことで、会話は中断された。

「お父さま……」

 二葉が恐る恐る電話に出ると、受話器から容赦ない言葉が聞こえてきた。

「馬鹿者めが。気が緩んでいるから体を壊したりするんだ」

「ごめんなさい……」

 ぽろぽろと泣きながら謝る二葉に対し、二葉の父親は厳格に続けた。

「私が着くまでそこで待っていろ。説教の続きはその後だ。あと、学校の低俗な連中とつるむのは止めろ。これ以上家名に泥を塗るな」

 二葉が返事する間もなく、二葉の父親は一方的に電話を切った。恐怖で震えながら受話器を戻すと、二葉は視線を落としたまま一樹に言った。

「一樹くん、もう行って」

「二葉さん……」

「お願い。これ以上辛い思いをしたくないの」

 一樹は拒もうとしたが、二葉のやつれきった顔を見て、断ろうにも断れなくなってしまった。先生にも急かされ、一樹と俺は追い出されるように保健室を出ていった。


 それから次の定期テストが始まるまで、一樹は二葉と一度たりともまともな会話をすることができなかった。熱で学校を休んでいるのはまだ理解できるが、一樹が心配になってスマートフォンでメッセージを送っても、電話をかけても、二葉から反応が返ってくることは一切なかった。一樹が五李に相談したところ、五李もまた二葉と連絡がつかなくなっていると聞き、ただごとではないと知った。

 定期テスト当日になると、二葉が数日ぶりに姿を見せたが、マスクを着けており、まだ顔色は悪いままだった。一樹が声をかけると、挨拶は返してくれたものの、避けているのかそれ以上絡むことはしなかった。あれだけ一樹のことを好いていたっていうのに……。

 そしてさらに日が経ち、定期テストの結果発表の日がやって来た。一樹の肩に乗って学校の掲示板の前にやって来ると、この前と同じように生徒の人だかりができていた。そして、一樹を目にするなり、生徒たちは一斉に称賛の声と黄色い声を上げた。

 掲示されたテスト結果の紙を見て、俺は目を疑った。一位のところに一樹の名前が載ってあったのだ。九百点中八百九十七点。記憶が正しければ、前回二葉が取った点数よりも高い点数だ。そして下を見ると、そこに五李の名前が載ってあった。二位、九百点中八百九十一点。前回のリベンジには至らなかったが、それでもかなりの点数だ。

「よお、やったな一樹!」

 呼ばれて一樹と一緒に振り向くと、三四郎と五李がすぐそばにいた。三四郎はうれしそうに笑っていたが、一方の五李は深刻な面持ちでいた。

「聞いてくれよ一樹、俺もお前のおかげで三百点くらい合計点数が跳ね上がってよお。でもお前には敵わねえなあ。学年一位のやつがダチで俺も鼻がたけえよ」

 浮かれきっている三四郎に対し、五李は表情を変えることなく言った。

「あたしたちの点数なんてどうでもいいのよ」

「あん?」

 三四郎は気づいていない様子だったが、五李も、俺も、そして一樹も、重大な事態に気づいた。この場にいないあと一人の友の結果だ。

 もしテスト結果の紙に載っていなければ、病欠でテストを延期したとか、そういう希望が少しでも持てたかもしれない。だが、こうして載ってしまっている以上、俺たちはこの最悪な結果を受け入れざるを得なかった。

 テスト結果の紙のかなり下に、友の名がある。二十八位、二葉、八百二十三点――。

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