第三章 あの子と我が家でお勉強
そして、翌日の放課後。夕暮れの空のもと、一樹と俺は二葉を連れて帰路に就き、住宅街にある家の前までやって来た。
肩に乗っているから分かるが、一樹は二葉と会ってからずっと緊張しっぱなしだ。いくらハンカチで拭いても首筋が汗で湿り続けているし、肩も小刻みに震えていやがる。
対する二葉のほうは、何だか落ち着いているように見えるな。仮にも男の家に上がるっていうのに平然としていやがる。昨日の反応からして、二葉も一樹に気があると確信していたんだが、あれは気のせいだったのか? 二葉は一樹をただの勉強仲間としか見ていないのだろうか?
「それじゃあ、僕の部屋へ案内するよ。上がって、二葉さん」
「お邪魔します、一樹くん」
玄関扉を開けて促す一樹に対し、二葉はにこりと微笑みながら返事した。
一樹の両親はまだ仕事らしく、家にはいない。俺を除けば、家には一樹と二葉の二人きりだ。
それを意識しすぎてか、一樹は二葉と一緒にいるのをまだ躊躇っているようだ。玄関で靴を脱ぎ、フローリングの廊下を歩いている間、「失礼のないようにしなきゃ……」って小声で何度も自分に言い聞かせていたし、俺が一樹の肩から降りようとするとすぐさま片手で押さえつけてくる。どうやら二葉と話すには、まだ俺の力を借りなければいけないらしい。
「ここだよ、二葉さん」
そう言って一樹が立ち止まり、奥にある襖を指し示した。一樹が駆け寄って襖を開けると、そこにはこじんまりとした畳部屋が待ち受けていた。
左に両開きの窓、右に押し入れがあり、手前には衣類ラック、奥には大きな本棚と勉強机がある。この家に唯一ある和室で、一樹が私室として使っている部屋だ。一昨日に一樹の飼い猫としてこの家にやって来てから、俺にとってはもうすっかり見慣れた部屋だった。
二葉が一樹の部屋に見入っている中、鞄を勉強机に置き、俺を肩から畳の上に降ろすと、一樹は押し入れを開けて座布団を二枚取り出し、俺の左右に置いて二葉に言った。
「今からテーブルとお茶とお菓子を持ってくるから、二葉さんはこの座布団に座って待ってて」
一樹の言葉にこくりとうなずくと、二葉も畳の上に鞄を置き、座布団の上に正座でちょこんと座った。それを見届けるなり、一樹はそそくさと部屋を出ていってしまった。
やれやれ、今のも二葉と一緒にいると緊張するから逃げ出したんだろうな。お茶とかの準備をしている間に、一樹の緊張も多少なり解れてくれればいいんだが。そう思い、半ば呆れながら俺が二葉に目を移したときだった。
「わー、一樹くんの部屋だあ」
一樹がいなくなり、猫の俺しかいなくなったと安心したのだろうか。気の抜けた声を上げ、二葉は口元を緩めながらきょろきょろと一樹の部屋を見回し始めた。そして――。
パシャパシャパシャパシャパシャパシャ――!
俺は度肝を抜かれた。なんと、スカートのポケットからスマートフォンを取り出し、一樹の部屋をカメラで撮り始めたのだ。しかも連写だ。ニャンだとう……!
唖然としながら二葉の顔を覗き込むと、二葉はハアハアと荒い息を上げながら、一樹の部屋を撮るのに夢中になっている。変態じゃねえか! これ以上二葉の暴走を見過ごすわけにはいかないと思い、俺は突進して二葉の腹にずしんと頭突きをお見舞いした。
「ふぐうっ……」
スマートフォンを取り落とし、腹を押さえて呻き声を上げる二葉。俺はすぐさま二葉のスマートフォンをくわえて没収し、勉強机の上へ跳んで避難した。二葉がうずくまっている隙に、肉球でスマートフォンを操作し、一樹の部屋の画像を選択削除する。これで盗撮は免れたな、ふう。
「……ニャン太郎ー!」
やっと画像の削除が終わったと思ったら、今度は二葉が正座を崩すことなく、大声を上げながら俺に泣きつき出した。さっきから何なんだ、この女は。
「聞いてよニャン太郎! せっかく勇気を出して勉強会に誘ったのに、五李も気を遣ってくれてようやく二人っきりになれたのに、一樹くんが全然うれしそうじゃないの! ずっと一樹くんのこと好きだったのに、一樹くんは私のことをただの勉強仲間としか思っていないのかなあ!」
おう……こりゃまた盛大な告白を聞かされた。予想外の展開に、俺は呆気に取られっぱなしだ。
さっきの奇行を見てストーカーなのかと思ったが、涙で潤んだ二葉の目はまっすぐとしており、邪な感情は感じられない。学校のリーダーも務めていることだし、やっぱり根は真面目な人間なんだろう。
俺は頭を抱えた。二葉は勘違いをしている。一樹は二葉に気がないわけじゃなく、むしろ逆で、二葉が好きなあまり緊張して表情が固くなっているだけなんだ。だが、猫の俺にそのことを伝えるすべはない。たった今、一樹と二葉は両想いなんだと分かったが、二人を引き寄せるためにどうすればいいのか、良案が思い浮かばない。参ったなこりゃ。
猫の俺にできることはないか考えに耽っていたところ、どすどすと大きな足音が近づいてくるのが聞こえた。どうやら一樹がテーブルを運びに来たようだ。二葉もそれに気づいたのか、我に返ってスーハーと深呼吸をし始めた。
「入るよ、二葉さん」
「うん、一樹くん」
一樹が部屋に戻ってきたときには、二葉もすっかり平静を取り戻していた。
二葉が立ち上がり、一樹と協力して折り畳みテーブルの足を広げる。近くにこそいるものの、一樹と二葉の心の距離はまだ遠いままだ。お互いに恋の願いを叶えたいのなら、もっと親密にならないといけない。いかにしてそれを実現すべきか悩んでいたところ、こつんと、俺の前足に二葉のスマートフォンが当たった。
どうやら一樹の飼い猫になってから、俺に意地悪な性格が芽生えてしまったようだ。そのまま二葉に返せばいいものを、俺は二人がテーブルを置き終えたタイミングでうにゃあとわざとらしく鳴いてみせた。
「ん? 何を持っているの、ニャン太郎?」
一樹が先に気づき歩み寄ってきたので、俺は言われるがままに二葉のスマートフォンをくわえて差し出した。一樹がスマートフォンを手に取り、それが自分の物でないと気づくのに時間は要さなかった。
「これ……もしかして二葉さんの?」
怪訝そうな顔をして尋ねる一樹に対し、二葉は一瞬だけ慌てふためいたが、一樹に気づかれる前にコホンと咳払いしてまた平静を取り戻した。
「うん、ついさっきニャン太郎に取られちゃって」
「そうなんだ。駄目じゃないか、ニャン太郎」
一樹が空いた片手で俺の耳をつねって叱る。違うんだ、俺は一樹のプライバシーを守ろうとしただけニャンだよお。
「ごめんね、二葉さん。すぐに返すから、これ――」
そう謝りながら、一樹は俺から手を放し、持っていた二葉のスマートフォンを差し出した……が、一樹は二葉に返すのを躊躇した。
そうだ、スマートフォンが人間同士の交流手段だってのは俺でも知っている。好きな人のスマートフォンを目の前にして、鈍感な一樹だって何も感じないはずがないんだ。
「……一樹くん?」
スマートフォンを返してもらえずに首を傾げる二葉に対し、一樹は頬を赤らめながらぼそりと呟いた。
「……連絡先」
「えっ?」
「その、二葉さんと連絡先を交換したいな……って」
一樹の思いも寄らない発言に、二葉ははっと息を呑んだ。小恥ずかしさからか、一樹がたまらず言い訳を始める。
「ほら、その。二葉さんに勉強を教えてもらえるなんて、またとない機会だと思ってさ! できればまた一緒に勉強できたらなって思って……駄目、かな」
急に自信をなくしてしまったのか、肩を落としてしまう一樹を見兼ねて、二葉はぶんぶんとかぶりを振った。
「私は全然いいけど……勉強のためだけだったら、五李と三人で連絡を取り合うことになるね」
「えっと、そうなるね?」
二葉の意味深な言葉に対し、一樹は二葉の意図にまったく気づくことなく首を傾げた。どうやら二葉は、一樹と二人きりで話すために、勉強以外の目的で連絡を取り合いたいと考えたみたいだが、一樹の頭ではそこまで理解がおよばなかったようだ。
「鈍感」
二葉が頬を膨らませながら呟いた。まったく同感だと思ったが、今日のところは連絡先を交換できただけ良しとしよう。
「それじゃあ、一樹くん。早速勉強を始めましょうか」
少しばかり不機嫌そうに、そう言って再び座布団に正座する二葉。いまだに疑問に思っている様子の一樹も座布団に座ろうとしたが、まだお茶とお菓子を持ってきていないことに気づき、再び襖に駆け寄った。
「ごめん、二葉さん。お茶とか持ってくるの忘れてたから、先に勉強の準備をしてもらっててもいい?」
振り向きざまに言う一樹に対し、二葉は顔を向けながらこくりとうなずいてみせた。
一樹が部屋を出て向こうに行くのを確認すると、二葉は突然ぎろりと俺を睨みつけてきた。まるで獲物を見る獣の目だ。まずい、さっきのいたずらでまだ怒っているのか……?
身の危機を感じて逃げようとする俺だったが、二葉の野良猫よりも素早い動きに反応できず、俺は二葉に飛びかかられて両手でぎっちりと捕まえられてしまった。
俺がぎにゃあと悲鳴を上げる一方で、二葉は俺の頬に自身の頬をぎゅっとくっつけながら言った。
「ありがとう、ニャン太郎ー! おかげで欲しかった一樹くんの連絡先が手に入ったよー!」
お、おう。喜んでもらえたなら何よりだが、奇行をエスカレートさせるのだけはよしてくれよ。二葉の浮かれっぷりを見て俺は不安に思ったが、杞憂に終わってくれればいいな。
さて。俺が初めて学校に訪れた昨日と比べて、一樹と二葉はそれなりに距離が近づいたように思う。だが、二人の恋を叶えるためには、この程度で満足しちゃいけないんだ。もっともっと一樹たちを幸せにしてやらなければならないと思ったが、猫の俺ができることには限界がある。これから先のことを思い、どうやったら二人を結ばせることができるか、俺は苦悩のあまりため息をついた。
それから、一樹の両親が帰宅したタイミングで、二葉も勉強会を中断し、「また今度勉強会しようね」と約束して去っていった。その一部始終を見てからというもの、一樹の両親は二葉に興味津々の様子だ。
「それで、あの二葉ちゃんは恋人じゃないの?」
「違うって、母さん。いい加減からかうのはよしてよ」
「もし挙式を上げるときは、きちんと父さんたちにも報告してくれよ」
「父さんまで、まったく……」
ダイニングで夕食を取りながら、一樹の両親は二葉の話題ばかり一樹に振っていた。一樹は決まりが悪そうに味噌汁を啜っていた。
そんな一樹たちを尻目に、俺は床で小皿に乗せられた魚の切り身をくちゃくちゃと平らげていく。今朝まではキャットフードを食べていたが、刺身を出してくれるとは、今の一樹の母親は機嫌が良い。これも二葉のおかげといったところか。
今さらな話だが、俺のこの家での境遇は悪くないように思う。一樹が俺を飼うと決めてから、一樹の両親は俺のためにケージやトイレをすぐに買ってきてくれたし、俺が気ままに過ごしていても特にお咎めがない。よく窓から抜け出して俺一匹で外を歩くことが多いが、家にちゃんと戻ってくると知ってもらってから、一樹の両親に怒られることがなくなったのだ。これは野良猫生活がまだ染みついている俺にとってありがたいポイントだ。
だが、決して良いことばかりではない。一番残念だったのが、俺の自慢の爪が一樹の母親の手によって研がれてしまったことだ。これじゃあいざ西町のシロと喧嘩になったとしても勝ち目が薄いってもんだ。まあ、そもそもシロと喧嘩する理由なんてないし、一樹の頬を傷つけてしまったから仕方ないことではあるが。
……さて、今日も餌やりを始めるとするか。そう決心するなり、俺は刺身の余りを口に含み、リビングダイニングの少しだけ開いてある窓からベランダへ抜け出し、塀を越えていった。
俺には飼い猫になってからも続けている日課がある。俺が住む東町には野良猫たちの溜まり場があるのだが、そこによく飢えた猫たちが集まってくる。その猫たちのために餌を持っていって、おすそ分けしてやるのだ。これは、人気が少ない夜の間にやっていることだ。自分の餌だけじゃなく、ごみ箱とかからも餌を集めては猫たちに与え続けている。
今日は魚の切り身を持ってきた。俺の唾が付いているとはいえ、ご馳走を目の前にしてあいつらはどんな反応を見せてくれることだろう――そんなことを考えていたところ、突然にゃんごろと聞き慣れた鳴き声が響き渡り、俺は鳴き声のした後ろを振り返った。
「クロの旦那! やっと見つけた!」
そう言って姿を見せたのは、俺ほどではないがそれなりに屈強な体をした、雄の灰色の猫。名をグレーと言う。東町のボスである俺をよく慕ってくれている部下みたいなものだ。
グレーはうずうずと話したそうにしていたが、俺が口いっぱいに餌を含んでいるのを見て、グレーは気を遣って話しかけるのを止めた。そして、集落へと向かう俺に黙ってついてきた。
少しして集落に着き、俺は魚の切り身を飢えたがきんちょ猫たちに与えていった。がきんちょたちは今まで食べたことのないご馳走にみゃあみゃあと歓喜の合唱をした。
「よろしいですかい、クロの旦那?」
俺の口が自由になったところで、グレーは恐る恐る俺に尋ねてきた。俺は返事の代わりににゃあと鳴いてみせた。
「旦那が飼い猫になったって噂、本当だったんですね。人間の臭いが染みついています」
「……ああ」
いつかは周知されることだと思っていた俺は、変にごまかすことなく正直に返事した。グレーはショックを隠しきれない様子だ。
「あんなに誇り高かったクロの旦那が、人間の言いなりになるなんて、信じられないです! 東町の猫たちも不安がっているし、西町の連中もそのことを知ったらなめてかかってくるはずです! 俺は今すぐにでも野良猫としての旦那に戻ってもらいたい。その首輪も外してしまいましょうよ!」
グレーは俺の首につけられた赤い首輪を前足で指差した。一樹いわく、一樹の家の住所が書かれてある首輪らしい。それをグレーは鋭い爪で引っ掻いて千切ろうとしたが、俺は首を捻ってそれをかわした。
「グレー、俺はしばらく飼い猫を止めるつもりはない」
「ニャンでですか!」
納得がいかない様子のグレーに対し、俺は決然たる態度で言葉を続けた。
「飼い主に大きな恩を借りたからだ。俺は飼い主に恩を返さなければならない」
そして俺は、飢え死にしそうになっていたところを一樹に救ってもらったことをグレーに話した。一樹に恩を返すために、俺は猫なりにあの手この手で尽くしているのだと打ち明けた。グレーは落ち込んでこそいたものの、俺の性分を知っていたからか、特に反発することはなかった。
「悪いな、グレー。飼い主に恩を返しきるまで、当分時間をくれ」
頭を下げる俺に対し、グレーはぶんぶんと首を振り、言った。
「旦那のご決断であれば、止めはしません。ですが、この東町の混乱の中、西町の連中が戦争を仕掛けたりしてきたらどうすればいいか、俺は心配で……」
不安そうに視線を落とすグレーを励ますように、俺はグレーの肩に前足を置いて言った。
「安心しろ、グレー。その時は遠慮なく俺を呼べ。俺は飼い猫になっても東町のボスのままだ」
「ですが、飼い猫になったということは爪を研がれたりしてるんじゃ……」
さすがはグレー、鋭いな。だがそれでも、こんな俺を慕ってくれている部下をずっと不安にさせるわけにはいかない。俺は意志を曲げることなく言ってのけた。
「お前の言うとおりだ。西町のチンピラ猫はともかく、シロに喧嘩を売られたらそう簡単には勝てないだろう。だが、俺は飼い猫になって誇りまでも失ったつもりはない。お前たちにもしものことがあったら、その時は俺が必ず守ってやる」
「旦那ぁ……! やっぱりクロの旦那は格好いい旦那のままです!」
感極まって男泣きしてしまうグレーを見て、俺はやれやれと言わんばかりにため息をついた。
ここまで言いきったからには有言実行しなければならない。一樹に恩を返すこと、そして東町の野良猫たちをボスとして守ること。必ずや成し遂げると胸中で誓い、俺はグレーと別れて帰路に就いた。
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