第二章 気になるあの子とお勉強

 日直の男に対する先生の説教も終わり、一樹は当然だが何も咎められることなく、一時限目の授業も無事に終わった。だが、一樹に対する陰湿ないじめがそう易々と終わることはなかった。

「よお、一樹くん」

 名前を呼ばれ、読書をしていた一樹と、肩に乗ってくつろいでいた俺が顔を上げると、日直の男が赤いモヒカン頭のヤンキーを連れて机の前までやって来ていた。

「さっきはよくもやってくれたな。お前のせいで親にまで連絡が行って、まじで面倒な目に遭ったんだからな」

 日直の男が青筋を立てながらいちゃもんをつけてくる一方で、隣にいるヤンキーは面倒くさそうな様子だった。

「おい、こんなしょうもねえことに付き合わなきゃいけねえのか? 俺は」

「そう言わないでくださいよ! 三四郎(さんしろう)さん!」

 縋り出す日直の男に、三四郎と呼ばれたヤンキーは、返事の代わりに大きなため息をついた。どうやらこいつが日直の男のボスみたいだな。

 喧嘩のつもりかと思い威嚇する俺だったが、一方の一樹はというと、無視を決め込みながら読書を再開していた。

「おい、いつからそんな生意気な態度を取れるようになった!」

 日直の男が一樹の机を叩いて怒鳴るも、一樹の反発的な態度が変わることはない。視線すら合わせることなく、一樹は本のページをめくりながら日直の男に言い返した。

「ひとつだけ言わせてもらっていい? 僕、別に君たちのために黒板消しをやっていたわけじゃないから。学級委員長として、授業を始める先生たちの迷惑にならないようにやっていただけだよ。でも、さっきみたいに自分で黒板を消せるって言うのなら、いよいよ僕がやる理由はなくなる。誰かに甘えなきゃ何もできない人たちだと思っていたけど、正直見直したよ」

「何だと……!」

 タコみたいに顔を真っ赤にする日直の男とは対照的に、三四郎という男は感心した様子で一樹に言った。

「何だお前、ちゃんと言い返せるんじゃねえか。全然立ち向かおうとしねえ弱虫だとずっと思ってたが、俺こそ見直したぜ」

 一樹は失笑しながら言った。

「僕は弱虫なままだよ。ニャン太郎に勇気をもらったおかげ」

 一樹が片手で俺のあごをくすぐる。俺はあごを上げてごろごろと鳴いてみせた。

「調子に乗んな、陰キャ野郎のくせに――!」

 日直の男が怒りに身を任せ、一樹の胸倉を掴み上げる。一樹は本を机に落としてしまい、俺は跳び退いて本の上に着地した。

 今にも日直の男が一樹に殴りかかろうとした途端、教室の扉から聞き覚えのある声が響き渡った。

「一樹くーん、いますか? 生徒会から用事があるんだけど!」

 声の主は、朝に学校の玄関の前で挨拶を交わした、二葉という女子生徒だった。あの時隣にいた背が高い女子生徒も一緒だった。

 騒動を目の当たりにしながらも、二葉はにこにこ笑いながら一樹が来るのを待ち続けている。一樹は口をぽかんと開けている日直の男を突き放し、俺を肩に乗せてほかのクラスメートの視線を無視しながら小走りで向かっていった。

 すると突然、一樹より先にクラスメートの女たちが二葉に駆け寄り、さっきの騒動に対する言い訳を始めた。

「二葉会長! 今のはすれ違いざまに肩がぶつかって癇癪を起こしただけで、これといった問題はありませんから!」

「そうそう! 一樹くんがいじめられているだなんて――」

「あなたたちからは何も聞きたくありません」

 二葉は笑顔を崩すことなく、女たちの見苦しい言い訳を一蹴した。二葉の隣にいる女子生徒が口を開いた。

「あんたらが一樹くんに日直の仕事を押しつけていたのは、あたしたちもとっくに把握済みよ。ばれていないと思っていたわけ? ついさっき説教があったって六代先生に報告があってから、すぐにここへ駆けつけてみたけど、案の定逆上する馬鹿がいたみたいね。これ以上学校の品格を落とすような真似は止めてもらえる?」

 厳格な言葉に、言い訳をした女たちは一斉に黙り込んでしまった。ほお、二葉たちなかなか言うじゃんか。

 またしんと静まり返るクラスの連中を尻目に、一樹と俺は二葉たちに連れられて教室から廊下に出た。

「まさか、会長と副会長が助けてくれるとは思わなかったよ。ありがとう、二人とも」

 廊下に出るなり早速礼を言う一樹に対し、二葉は申し訳なさそうに言葉を返した。

「むしろ、対応が遅くなってごめんなさい。さっき五李(いつり)も言っていたけど、一樹くんがいじめを受けていたのは生徒会の目安箱を通して知っていたんだけど、目撃証拠がなかったからすぐに対応することができなかったの」

 隣にいる女子生徒――五李も、二葉に続いて言った。

「ようやく馬鹿があんたに手を出したおかげで、あたしたちも止めに入ることができたんだから。あの馬鹿にはむしろ感謝といったところね」

 それを聞き、一樹は俺を肩から降ろして抱えながら、二人に言った。

「それを言うなら、僕が今日黒板を消そうとしたのをニャン太郎が止めてくれたおかげだよ。それがきっかけで今回の説教につながって、怒った彼が僕に殴りかかってきたわけだから、ニャン太郎にも感謝だね」

「ふーん。頭が良いのね、あんた」

 五李はあごに指を当てて俺を見つめながら言った。

「ありがとね、ニャン太郎!」

 二葉が俺に顔を近づけて、晴れやかな笑みを浮かべながら礼を言った。俺は決まりが悪くなりつつも、返事の代わりににゃあと鳴いてみせた。

 二葉たちとの用事を済ませた一樹は教室に戻り、いったん自分の席に戻りながら俺に言った。

「恥ずかしながら、二葉会長と五李副会長は、僕とまともに口を利いてくれる数少ない同級生なんだ」

 俺は一樹の話を聞くために、机に落ちたままの本を片づけてもらった後、一樹の肩から机の上に降り、座って一樹と向き合った。なるほど、二葉たちはこの学校のリーダー的存在で、事務的にでも話をすることが多いからなんだろうと俺は理解した。

「それでさ、ニャン太郎……」

 俺の耳に顔を近づけながら、小声で一樹が尋ねた。

「二葉会長って、かわいいと思わない?」

 興味のない話題に、俺は返事せずにすんとした顔でそっぽを向いた。

「何だかどうでもよさそうだね……。まあ、それでも聞いてよニャン太郎」

 欠伸までする俺に対し、一樹は後頭部を掻いて困りながらも、勝手に話を続けた。

「二葉会長は、東雲(しののめ)高等学校のマドンナ的存在なんだ。綺麗だし、運動もできるし、テストはいつも学年一位。毎週何人かの男子生徒から告白を受けているらしくて、それをいつも全部断っているんだとか……」

 はーん、『東雲』って『しののめ』って読むのか。それはともかく、一樹は二葉のことがよっぽど好きなんだな。

「僕ってぱっとしないし、運動もできないし、勉強くらいしか取り柄がないけど、それでも二葉会長には毎回テストの結果で負けてばかりでさ。そういう意味でも僕は彼女に憧れているんだ」

 そうなのか。この一樹の一途な恋心、何とかしてやれねえかなと俺は思った。一樹に恩を返すと誓った以上、どうにかして一樹の恋も成就させてやりたいところなんだが。

 何か良案がないか考えていたところ、俺はさっきの二葉たちの用事を思い出した。そして、一樹が二葉たちから掲示するように言われた一枚の紙を指し示すようにぺしぺしと前足で叩いた。

「もしかして、これに誘えってこと? 無理だよニャン太郎。僕は二葉会長と友達ってわけじゃないんだから。急にそんなこと言われても気持ち悪がられるだけだよ」

 ネガティブだなあ、一樹は。半ば呆れている俺を机に放置したまま、一樹は席を立ち、教室の壁にかけられている掲示板に画びょうで張り紙をした。その張り紙の内容はこうだ。

『中間テストまであと二週間! それまでの期間、テスト勉強のため、放課後に図書室を開放していただけます。安らぎの空間でお勉強しませんか? ――東雲高等学校生徒会』


 放課後、一樹は俺を肩に乗せてテスト勉強のために図書室へやって来た。本棚が所狭しと置かれている空間に入るのは初めてだったから、これもまた新鮮な光景だった。

「……やっぱりいないよね、二葉会長と五李副会長」

 静寂としている中、きょろきょろと図書室を見回しても、すでに数十人の生徒がテーブルに向かって勉強していたものの、二葉たちの姿は見当たらなかった。二葉と五李は成績優秀だから、テスト勉強のために場所を選ぶことはしないだろうという、一樹の推測は当たっていたというわけか。

「仕方ないよ、ニャン太郎。大人しく僕らも勉強をしよう」

 そう呼びかけて空いている席に座ろうとしたとき、俺は背中を、一樹は肩をつんつんと小突かれ、驚いて一緒に変な声を上げた。

「クスクス……ごめん一樹くん、ニャン太郎」

 俺たちが振り向くと、なんと二葉が必死に声を押し殺して笑いながら立っていた。呆然とする俺たちに対し、二葉はひそひそ声で誘いをかけた。

「ねえ一樹くん、一緒に勉強しない? 五李は用事があって今日は一緒に勉強できないって言うから、一人で寂しいの」

 一樹は驚きを隠せない様子で問い返した。

「大丈夫だけど……本当に僕なんかでいいの? テストの成績も二葉会長や五李副会長と比べたら全然良くないのに」

 二葉はかぶりを振って言った。

「一樹くんはね、現代文とか古典とか、国語科目の成績が毎回学年一位なんだよ? そう六代先生がこっそり教えてくれたの。だから一度でも勉強の仕方を教えてもらいたいなあって」

「そんな。僕はただ、読書するのが好きなだけ……」

 謙遜する一樹だが、ここで遠慮すれば二葉と一緒にいられるチャンスを逃すことになる。そう直感した俺は、それ以上は黙っとけとばかりに、爪を伸ばして一樹の肩に思い切り突き刺した。

「いいった!」

 唐突の激痛に、人目もはばからず大声を上げる一樹。ウップス、やりすぎてしまったようだ。勉強中の生徒たちが迷惑そうに一樹を見ていやがるぜ。

「とにかく、今日は一緒に勉強しよ!」

 慌てて一樹の口を手で押さえながら、二葉は一樹の背中を押して空いている席に誘導した。

 向かい合って座る一樹と二葉。俺は一樹の肩からテーブルに下り、二人の間で丸くなってじっとしていることにした。

 うつむいたまま黙りこくっている一樹。今しがた大声を上げた罪悪感もあるんだろうが、いざ好きな女を目の前にしてどう振る舞えばいいのか分からないといったところか。

 すると、そんな一樹を見兼ねたのか、二葉はメモ帳を一樹に差し出した。俺と一樹がメモ帳を覗き込むと、そこには丸みのある筆跡でこう書いてあった。

『これ以上お喋りすると周りに怒られちゃうから、筆談で話そう。何の教科にする?』

 なるほど、筆談なら周りの目を気にしなくていいから名案だな。俺が感心している一方で、一樹は急いでメモ帳とボールペンを胸ポケットから取り出し、『現代文でお願いします』と走り書きして二葉に見せた。

『了解です』

 二葉はにこりと笑いながら、メモ帳に書いて一樹に見せ返した。


 それからしばらく、一樹と二葉の筆談を交えながらの勉強が続いた。

 俺は人間の教育を受けていないから、頭の良しあしを細かく判断することができないが、二葉は一樹の言うとおり頭の良い人間なんだろうなって感じた。不明点がはっきりとしているから、勉強に関する質問がすべて的確だった。ちゃんと物事を理解していないと、質問があやふやになっちまうなんてことはよくあるからな。

 それに対して一樹も負けていない。二葉の質問ひとつひとつに丁寧に答えてくれる。答えには必ず理由が付きまとうが、一樹はそれをきちんと理解した上で、いかに理由を分かりやすく伝えるかを意識して教えていた。

 二葉も後で見返して理解できるよう、教科書やノートに何種類ものペンを使い分けてメモし、一樹の解説をこれ以上ないくらい綺麗に反映している。ただ黒板の内容をノートに書き写すだけの勉強を二人はしていないわけだ。

「……楽しいなあ」

 突然、二葉がそんなことをぼそりと呟いたので、俺と一樹は目を丸くした。

「だって、こんなに分からないことが分かるようになる勉強って久し振りだから。凄く有意義だなって実感できるのが楽しいの」

 そう小声で言って、二葉はまたにこりと笑ってみせた。それに対し、一樹は「そうだね」と言って、また視線を落とした。

 俺は一樹の心境が何となく分かった気がした。一樹も勉強が楽しいという同じ感情を持っている。だが、その理由は今二葉が言ったことだけじゃないんだ。好きな女と同じ時間を共有できることに幸福感を抱いているんだ。

 だってそうだろ? 自分のメモ帳に『もっと二人で勉強したい』って書いているもんな。

 最後の一文字まで書いたところで、一樹は消しゴムを取り出してすぐにその言葉を消そうとした。二葉に伝える気もなくメモ帳に書き出したんだろうが、ここで勇気を振り絞らなきゃ幸せを掴むことはできっこねえぞ。

 一樹自身が想いを伝える気がないのなら、俺が代わりに一樹の想いを二葉に伝えてやる。そう決心し、今にも一樹が消しかかろうとしていたメモ帳をはしっと前足で奪い取った。

「ちょっ……ニャン太郎!」

 一樹のメモ帳を口にくわえ、二葉の前にぽとりと落とす。一樹は愕然としながら思わず立ち上がった。

 一樹はすぐにメモ帳を取り返そうとしたが、時すでに遅し。二葉は先に一樹のメモ帳を手に取り、一樹が消そうとした言葉を黙読した。そして、二葉は意地悪な笑みを浮かべながら言った。

「ふーん。一樹くん、こんなこと考えていたんだあ」

「あ、いや、その、ちが……」

「違うの? このメモ帳に書いてある言葉は嘘なの?」

「う、嘘じゃ、ないけど……」

 もうお手上げ状態のようだった。一樹は顔を真っ赤にしながら視線を落として立ち尽くしていた。そんな一樹を見て、二葉はえへへと口元を緩めて言った。

「ごめんね、一樹くん。私も同じことを思っていたからうれしいよ」

「えっ……?」

 驚いて顔を上げる一樹。二葉は頬をピンク色に染めながら、一樹を見つめ返していた。

 どうやら上手くいったようで、俺はにやりと得意気な笑みを浮かべた。そもそも脈なしだったら、一日にそう何度も声をかけられたりしないんだよな。

「ふ、二葉会長、僕……」

 何か喋らなければと思ったのか、一樹はまだ顔を赤くしたまま口を開いた。二葉はこくりとうなずいて耳を傾け続ける。

 これから何が起こるんだと、黙って見届けようとしていた俺だったが、ここでお預けを食らってしまう。不意に大きな影がぬうっと迫り、それにはっと気づいた一樹と二葉は顔を真っ青にしながら黙り込んだ。

 影を見上げると、いつの間にか六代先生が二人の間に立ち、腕組みして怖い顔で見下ろしていた。どうやらうるさくしすぎていたようで、周りの生徒たちもまた迷惑そうにこちらを見ていた。

「す、すみません先生、話に盛り上がっちゃって……」

 謝る二葉だったが、六代先生がそれで許すことはなかった。

「二人とも、明日ここ、出禁!」


 筆記具とノートを片づけ、一樹と二葉は六代先生に連行される形で図書室を後にした。

 一樹は六代先生を失望させ、そして二葉からも貴重な勉強場所を奪ってしまったことに、酷く反省しているようだった。とぼとぼと肩を落としながら歩くせいで、俺は一樹の肩に乗れず廊下を歩く羽目になった。

 そんな失意のどん底にいる一樹を見るなり、対照的にあまり反省していない二葉はまた意地悪な笑みを浮かべた。どうやら何か思いついたようだ。先頭を切って歩く六代先生に気づかれないよう、小声で二葉は一樹に言った。

「あーあ、図書室での勉強が明日できなくなっちゃったなー。これはどこか別の所で勉強するしかないなー」

 ちらちらと一樹に視線を向ける二葉。俺は即座に二葉の意図を理解したが、一樹はまったくそれに気づけていないらしい。

「ごめん、二葉会長。明日はすぐ帰宅して別々に勉強を……」

 がくっと落胆する二葉。俺も呆れたようにため息をついた。「違うの?」と言わんばかりに首を傾げる一樹に、二葉はむっとした顔になって、六代先生に構うことなく声を上げた。

「明日、一緒に! 一樹くんの家で勉強会をするの!」

「え……えぇっ?」

 一樹は予想外の提案に驚愕した。俺も呆気に取られるあまり、みゃうと鳴いた。二葉はどうやら思ったよりも押しが強い女のようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る