第一章 一樹と黒板消し
翌朝、白無地のクロスとフローリングで囲まれた家の玄関にて、二人の人間に見送られながら、俺は学生服を着た一樹の肩に乗って外へ出ようとしていた。
「本当にその猫を連れていくつもりなの?」
一樹が玄関の扉を開こうとした矢先、胸当てエプロンを着た小太りの女性が、また俺のことでごね始めた。一樹の母親なんだが、昨夜からずっとこの調子だ。
「まあまあ母さん。これまで一樹はめったにわがままを言わなかったんだから、お願いのひとつくらい聞いてあげてもいいじゃないか」
母親の隣に立つ、スーツを着た細身の男性が宥めてくれる。一樹の父親だが、こっちは良い人だ。
「もう。先生方にご理解いただくの、大変だったんだからね?」
一樹の母親が腰に両手を当てながら不満を零す。こっちは悪い人だ。
……そう言いたいところだが、実際は一樹の母親にも感謝している。一樹が俺を飼って、一緒に学校へ行きたいって願い出たとき、真っ先に学校へ電話して頭を下げてくれたわけだからな。
「くれぐれも学校の人たちに迷惑かけないようにね。もし何かあったら――」
くどいくらい忠告してくる一樹の母親に対し、一樹は「分かってるって」と言葉を遮った。まだ何か言いたげな一樹の母親を尻目に、一樹は「行ってきます」と言って扉を開け、玄関を後にした。
「学校がどんなところなのか知りたいんだね、ニャン太郎」
晴天のもと、誰もいない住宅街の道を歩き始めたとき、一樹が俺にそう問いかけた。俺は返事の代わりににゃあと鳴いてみせた。まあ、正確には「一樹がどんな生活をしているのか知りたい」なんだがな。
「きっと、ニャン太郎の期待には応えられないかもしれないけど。つまらなかったらいつでも家にいてくれていいからね」
表情を曇らせながら言う一樹を見て、俺ははてと首を傾げた。実際に学校に行ってみれば、一樹の言葉の意味も分かるかと思い、俺はすぐに考えるのを止めた。
住宅街を抜けて、木々が並ぶ石畳の歩道に差しかかると、一樹と似た格好をした生徒のほかに、ランドセルを背負った子供たちが列を作って通学しているのが見えた。
「見てあれー! 猫が男の人の肩に乗ってるー!」
「かわいー!」
子供が俺を指差しながらきゃいきゃいと騒ぎ出す。見世物じゃねえぞお前ら。
そう思っていたら、猛スピードで大きな何かが真横を通り過ぎ、俺は少しばかり度肝を抜かれた。そしてすぐに、車が道路を行き交っているのだと気づいた。野良猫だったときは、朝にこの辺を通ることがあまりなかったが、これが噂の通勤ラッシュってやつか。
猫の俺にとっては、人間の目線で見て新鮮に思えるものばかりなんだが、一樹にとってはもう見慣れてしまった光景なんだろうな。
「一樹くーん! こっちです!」
不意に女の呼び声が聞こえ、俺と一樹は前を向いた。すると、黒髪のロングで灰色のスーツを着た大人の女性が、大きな門の前に立っていた。
次第に、一樹が通う学校も見えてきた。数棟の白い建物が門の奥にそびえ立ち、生徒たちが門を潜ってそれらの建物へと歩いて向かっている。一樹の家からおおよそ十五分くらいの場所か。
「おはようございます、六代(むつよ)先生」
女性の前までやって来ると、一樹はそう言って頭を下げた。ああ、この女性は一樹の先生なんだなと俺は察した。
六代先生は「本当に猫が乗ってますね……」と驚きを隠せない様子だったが、すぐに咳払いして平静を取り戻しながら言った。
「親御さんから話は伺いました。本来は校則違反とみなすところですが、一樹くんが普段真面目に学級委員長を務めていることに免じて、猫と一緒に通学することを許可しましょう。今日はクラスのみんなに事情を説明するために、私が一緒に教室までついていきます。私や生徒会が許しますから、一樹くんは普段どおりに振る舞うこと。いいですね?」
六代先生の寛容な言葉を聞き、一樹は「ありがとうございます」と再び頭を下げた。何だ、信頼されているんじゃねえか。
こうして、六代先生についていきながら、俺たちは校門を潜っていった。校門には『東雲高等学校』って書いてあったが、猫だから漢字までは読めねえんだよな、あいにく。
校門から学校へと続く並木道を渡る途中、一樹はふと、黒いトップスに灰色のスカートを着た女子生徒の一人に目を向けた。学校の玄関の前で、数人の生徒を引き連れながら、その女子生徒は玄関へ向かう生徒たち一人ひとりに元気よく朝の挨拶をしていた。
「あっ! 一樹くん、おはようございます!」
向こうもまた一樹の存在に気づくと、その女子生徒は晴れやかな笑みを浮かべながら挨拶をした。隣にいた、黒髪のミディアムボブで一樹よりも背が高い女子生徒は、俺を見ながら「本当に猫が乗ってるわね……」と驚いていた。
一樹に注目してみると、一樹は口元を緩めて頬を赤らめながら、「おはようございます、二葉(ふたば)会長」と挨拶を返していた。何だこいつ、好意がだだ漏れているじゃねえか。
もう一度二葉とやらに注目してみる。茶髪のセミロングに赤いヘアピンをしていて、小柄だが顔は猫の俺から見ても整っているように思う。はーん、一樹はこういう女が好きなんかねえ。
わざとらしく大きな欠伸をかくと、一樹は我に返って俺が退屈していることに気づき、そそくさと六代先生についていく形で玄関へ走っていった。二葉は手を振りながら見送っていた。
玄関に入ると、五十足くらいは靴が入りそうな木製の靴箱がずらりと横一列に並んでいた。この学校に通う生徒の多さを思い知らされる。
すでに靴を履き替えて奥の廊下で待っている六代先生を見て、一樹は急いで靴箱に入っている自分の上履きを取って履き替え、後を追った。
「今くらい大人しくしてくれているのなら、私としても特に問題はありませんね。むしろ周りの生徒が大人しくしてくれるか心配なくらい」
玄関の近くにある階段をひとつ上り、迷路のような廊下を進んでいきながら、六代先生は俺たちを見て言った。確かに、廊下で話をしている多くの生徒は、一樹の肩に乗る俺に興味津々だった。
「ただ、今後の行動次第では連れ込み禁止の措置も十分に考えられますから。気を抜かないようにしてくださいね、一樹くん」
「分かりました、先生」
六代先生の忠告に、一樹はもう一度頭を下げた。それと同じタイミングで、六代先生は廊下の一番奥にある教室の前で足を止めた。
「ちょっとだけ深呼吸させてください。私の人生でも初めてのことですから」
「は、はい」
緊張の色を見せながらスーハー深呼吸し出す六代先生を見て、一樹は呆気に取られながらも返事した。
「もう大丈夫です……それじゃあ、入りましょうか」
呼びかける六代先生に対し、一樹はこくりとうなずいてみせた。
ガラガラと教室のドアを開ける。すでに二十人近く集まっていた生徒たちの注目が、六代先生に、一樹に、そして俺に集まった。
同時に俺は違和感を覚えた。先生も外や廊下にいた生徒たちも、俺の存在に興味津々だったというのに、ここにいる生徒たちは何だか妙に反応が薄い。シャイな性格なのか?
「みんな、聞いてください」
一樹を連れて教卓の前に立ち、六代先生は話を始めた。
「一樹くんの要望で、これから一樹くんの飼い猫であるニャン太郎も一緒に学校へ行くことになりました。何でも親御さんいわく、食事や睡眠のとき以外にずっとくっついて離れようとしないそうでして。どうか理解してあげてほしいです」
六代先生の言葉を、生徒たちは黙ったまま聞き続ける。
「それじゃあ、一樹くんは自分の席に着いて。みんな、何かあったら私に連絡すること。どうか仲良くしてあげてくださいね。またホームルームの時間になったら戻ります」
そう言って、一樹を奥にある窓際の席へ向かわせると、六代先生はそのまま教室を後にした。ほかの生徒たちに注目されて、一樹は席に座りながらばつの悪そうな顔を浮かべている。
次第に、生徒たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「今の先生の話聞いた? ニャン太郎だって」
「だっさい名前」
「どうせあの陰キャが名づけたんでしょ」
「きも」
「あいつ読書と黒板消すことしか能がないから、絡まないほうがいいよ」
「草」
「んなこと言われなくてもみんな分かってるって」
何だ何だ? あんな会話、猫同士でも聞いたことがないぞ?
一樹のほうを見てみると、一樹は家を出たときと同じ暗い表情をしていた。それを見ただけで、一樹が言っていた言葉の意味、そして一樹の学校での境遇を理解した。一樹はクラスメートの連中にいじめられているのだ。
なぜ一樹がいじめられなければいけないのかまったく理解できないまま、俺は遅れて教室に入ってきた生徒たちを呆然と見つめていた。ほとんどの生徒が一樹に冷たい視線を向け、そして一樹を貶す連中の輪に加わっていった。
そして気づけば、一樹の周りには誰一人としていなかった。一樹から遠く離れた所から、一樹を馬鹿にするひそひそ話がホームルームになるまで途絶えなかった。
こう言っては何だが、一樹は東町のボス猫として生きてきた俺と正反対の生き方をしているのだ。学校での一樹はずっと孤独に生きているのだ。
「みんな、ニャン太郎とは仲良くできていますか?」
ホームルームの時間になり、教室に戻ってきた六代先生が生徒たちに尋ねた。一樹を除く生徒たちは嘘の笑顔を浮かべながら「はーい」と一斉に返事した。
俺はとうとう我慢ならなかった。不覚にも、こいつらの顔面を爪で引っ掻いてやろうかと思ってしまったが、いち早く異変に気づいた一樹が俺を取り押さえ、宥めるように言った。
「ここであいつらに怒ったら、暴力を振るったら、それはあいつらと同類だよ、ニャン太郎。争いは同じレベルの者同士でしか起こらないんだよ」
一樹の哀れみの表情を目にし、俺は徐々に怒りの感情がしぼんでしまうのを感じた。
ホームルームが終わったタイミングで、六代先生は黒板に俺含む連絡事項を一通り書き終えた後、生徒たちに向かって言った。
「今日は連絡事項が多くなりました。すみませんが、日直は一時限目の授業が始まる前に黒板を消しておいてください」
日直と呼ばれた男は「はい、先生」とにこやかに返事した。だが、それも束の間だった。先生が目を離して教室から廊下に出ると、その男含め、生徒たちがまた醜悪な顔になり、大声を上げた。
「窓際特等席の黒板消し係さーん。あと五分で授業が始まるんですけどー」
「早くやってくんねえかなあ?」
つい先ほどまで六代先生に指示されていたのは何だったのか。日直の男が、遠くから憎たらしく一樹に向かって怒鳴り出す。他の生徒たちも、一樹を蔑んだ目で見ながらげらげらと笑い出す。一方の一樹は何も言い返さなかった。
俺は、一樹の心境が何となく分かった気がした。一樹は優しいんだ。だから怒りを発散せずに溜め込もうとするし、他人のわがままを何でも聞き入れようとする。その優しさにつけこまれた結果がこのいじめなんだ。
一樹が席から無言で立ち上がり、暗い表情のまま黒板へと向かっていく。一樹の机の上で丸くなっていた俺は、それを見過ごすことができなかった。あんな卑怯者どもの言いなりになるのは、優しさなんかじゃなくてただの負け犬だ。
俺はすっくと立ち上がり、悲鳴を上げる女どもを尻目に机をぴょんぴょんと跳び越え、黒板へ向かおうとする一樹の前に立ち塞がった。
「邪魔しないでよ、ニャン太郎。誰も黒板を消さないのなら、僕が消すしかないじゃないか」
一樹は盲目的に、使命感に駆られて黒板を消そうとする。俺は全力で阻止した。俺はぴょんと跳び上がり、友のために友の頬を爪で引っ掻いた。それにより一樹は後退し、一樹は黒板を消すことができなくなる。
「何やってんだ、てめえ!」
なかなか黒板を消そうとしない一樹に苛立ったのか、日直であるはずの男は机を叩いて怒鳴り声を上げた。
「早く消せっつってんだろ! 授業が始まっちまうだろうが!」
俺は人間の言葉を話すことができない。代わりに、西町のチンピラ猫どもをあしらうときと同じように、鋭い目で日直の男を威嚇した。尻尾を膨張させ、後ろ足を上げて腰を高くし、低く唸って今にも引っ掻いてやると言わんばかりにじりじりと詰め寄った。
「ひいっ、来るなぁ!」
日直の男は情けない声を上げて席から立ち上がり、バタバタとほかの生徒数人を巻き込みながら後退りした。軟弱者が、こちとら背負っているものが違うんだよ。
「ニャン太郎、止めて!」
一樹の制止する大声が聞こえ、俺はようやく威嚇を止めた。そして、腰を抜かしている日直の男から目を離し、一樹に近づいて肩に跳び乗った。
「し、しつけがなってねえんだよ、このど陰キャが!」
日直の男が震え声で何か言い始めたが、ここでようやく黒板消しの決着がついた。キンコンカンコンとチャイムが鳴り、教室の扉が開いたのだ。
「何で黒板がまだ消えてないんだ! 日直はどうした!」
教室に入ってきたのは、一樹たち生徒より二回りほども大きな体育系の先生。消されていない黒板を見るなり、真っ先に先生の矛先が日直の男に向いた。
「お前、高校生にもなってこんなこともできないのか! 六代先生に今から報告しに行くから、ついてこい!」
「ひいいっ!」
鬼の形相になる先生に対し、日直の男はまた情けない悲鳴を上げた。日直の男の耳を引っ張って教室を出ていく先生を眺めながら、生徒たちは水を打ったかのようにしんと静まり返った。
俺はにゃあと鳴き、前足で握り拳を固めながら一樹に差し出した。一樹は複雑な気持ちのようだったが、やつらに一矢報いたことに感謝してか、握り拳を作ってこつんとぶつけてくれた。
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