黒猫ニャン太郎

阿瀬ままれ

序章 俺の名前はクロ

 俺の名前はクロ。東町って呼ばれる町に住む野良猫どもを占めている、雄の黒猫だ。

 この辺の土地は大きくふたつに分かれている。俺たちが住む東町と、シロっていう雌の白猫が占めている西町だ。

 俺たちと西町の連中は敵対関係にある。生きるか死ぬかのこの世界で、餌のひとつやふたつを奪い合ったりしていれば、自然といがみ合いも始まっていくもんだ。よく縄張りや餌を巡っては、西町の連中と小競り合いを起こしている。

 ただ勘違いはしないでほしいが、俺自身は別に戦争を仕掛けたりとか、そういう面倒事を起こす気はない。シロの野郎も様子を見る限り、どうやら同意見らしい。

 だから俺は、東町の治安を乱さないために、東町のボスとして野良猫どもを占めているってわけだ。

 東町のボスとしてよくやっているのが、小競り合いが始まったときにいち早く駆けつけて、仲裁に入ること。あと、餌や寝床がなくて困っているやつらのために、俺が探して分け与えたりもするな。

 今のところ、特に反逆してくるやつらが現れたりしない辺り、それなりには東町の猫たちに慕われているように思う。俺がどういう猫か知ってもらえたところで、ここいらで長ったらしい自己紹介は終わりにしておこう。


 さて。俺は今、昼間の住宅街をあてもなく徘徊している。塀の上を進んだり、住宅の庭を跨いだりしてな。

 そして、道端にごみ箱とかを見つけたらその中身を物色する。まあ、汚いかもしれないが、野良猫が餌を見つけるためにやる、世の中を生きるすべだ。

 本当は、こういうことは人気の少ない夜にやるもんなんだが、ちょっと我慢できなくなってな。というのもここ一週間、自分の飯をすべてがきんちょに与えてしまって、断食生活が続いているからだ。

 ほかの猫に普段から餌を与えている手前、断食生活はわりと慣れているほうなんだが、たまに数日から一週間くらいまで餌にありつけないときがある。今がまさにそうだ。こういう日くらいは昼間の餌探しくらい許してほしいもんだ。

 魚の骨とかがないか期待しながらごみ箱を漁ってみるが、めぼしいものは見当たらない。すでにほかの猫たちが物色済みのようだ。

 ぐうと大きな腹の虫が鳴る。俺はひとつため息をつき、突き当たりの塀をよじ登って先を進もうとした。――いや、そこまで高くない塀だから、跳び越えてしまったほうが早く行けそうだな? そう思い、俺は猫らしく軽やかに塀を跳び越えてみせた。

 ――ぼちゃん。

 何たることか。塀を跳び越えた先に、水の溜まったバケツが置いていやがった。俺はまんまとその中にダイブしてしまった。水浸しだ。

 水入りバケツをここに置いた人間に怒りを覚えたが、別に悪気があるわけではない。ほかの猫たちに見られていなかっただけまだましとも言えよう。

 ぶるぶると全身を震わせて水滴を飛ばし、俺は日が照る路上へと出ることにした。日光を浴びていれば、水浸しの体も多少は乾いてくれることだろう。

「あれ?」

 突然の声に一瞬体がびくついた。声のしたほうを振り向くと、路上のど真ん中で一人の少年が突っ立っていた。

 真っ黒な長袖の学生服を着ていて、見るからに学校帰りのようだ。飾り気のない黒のミディアムヘアーに、度の強そうな眼鏡をかけ、片手には小さな文庫本が一冊。いかにもインドア派の人間だ。

 俺は少年を睨みつけながら、その場を動こうとしなかった。威嚇のつもりだったが、どうやらそれが人懐っこい猫だと思われる要因になってしまったらしい。

「随分と濡れているね……大丈夫?」

 本をもう一方の手に握っている鞄の中にしまい、地面に置きながら、少年は俺のほうへ歩み寄る。さっさと逃げ出してもよかったが、東町のボスであるプライドがそれを許してくれない。

「体、拭いてあげるね」

 そう言って、少年はズボンのポケットから布のハンカチを取り出した。どうやら懐柔させるつもりらしいが、この東のクロ、そう簡単に人間の言いなりになんかならない。

 少年が手を近づけてきたところで、俺は瞬時に爪を伸ばし、近づけた手を引っ掻いた。少年は痛みで表情を歪ませる。悪く思うなよ。

 威嚇を続ける俺だったが、対する少年は、傷ができた手を引っ込めようとしなかった。俺は驚いて呆然とした。大抵の西町の野良猫は、俺が威嚇するだけでも尻尾を巻いて逃げるというのに、この少年はそんな軟弱者ではないらしい。

「大丈夫」

 そう言って、少年は柔和な笑みを俺に向けた。その時、俺はようやく理解した。この少年は好奇心ではなく、俺を助けようとして近づこうとしているのだ。

 少年の両手が俺の体に触れる。俺は抵抗する気をなくしてしまった。ひょいと持ち上げられ、俺はされるがままにハンカチで丁寧に体を拭かれていく。

 ――ぐう。ここでまた、俺の腹の虫が鳴ってしまった。それにより、俺が腹を空かしているのだと少年にばれてしまった。

「お腹も減っているんだね」

 そう言うと、少年はある程度乾いた俺の体を路上に降ろし、地面に置いていた鞄を漁り始めた。そして、ラップに包まれたおにぎりを取り出したのだ。

 呆然とする俺の目の前に、少年は食べろと言わんばかりに、ラップを広げておにぎりを置いてくれる。俺が食べやすいようにと少年がおにぎりをほぐすと、中から鮭の身が姿を現した。魚は大好物なんだよ、ちくしょう。

 柔和な顔を浮かべたままの少年から警戒を解いて目を離すと、俺は一心不乱におにぎりを食べ始めた。ごみ箱にあるようなお粗末なものと違って、白米はもっちりとしており、鮭はほろほろとしていて、今まで食べたご馳走の中で一番旨いかもしれない。

 あっという間に平らげてしまうと、少年は安堵し、広げたラップを回収しながら俺に言った。

「じゃあ、僕もう行くね」

 そして、少年は俺を横切って先へ進もうとしたが、俺はすぐに回り込んでそれを阻止した。

 今度は少年が目を丸くする番だった。だが俺は譲らない。

 生まれたころからずっと、借りた恩は必ず返す生き方をしてきたんだ。だから、俺はあんたにも例に漏れず借りを返さなければならない。

 少年が戸惑っている隙に、俺はぴょんと少年の肩に跳び乗った。そして、にゃんごろと鳴いてみせた。俺はあんたを信頼するっていう意思表示だ。

「もしかして、ついてくるつもりなの?」

 問う少年に対し、俺は返事の代わりににゃあと鳴いてみせた。少年はクスリと笑った。

「参ったな。うちはペットを飼っちゃいけないって母さんに言いつけられているんだけどな」

 それを聞いた俺は一瞬焦ったが、少年は満更でもなさそうだった。ならばと、俺は図々しく少年の肩に居座り続けた。

 安心しな。俺は東のクロ、野良猫生活には慣れているからあんたの負担になりはしない。俺はあくまであんたに恩を返すつもりなだけなんだ。

「僕の名前は一樹(かずき)。君の名前は……って、猫に聞いても分かるわけがないよね」

 少年――一樹の言葉を聞き、俺は自信満々に鼻を鳴らした。そう、俺にはクロっていう名前が――。

「ニャン太郎……で、どうかな?」

 ニャンだとう……! 俺はそんなださい名前じゃないぞ!

 不服そうにする俺だったが、俺がクロだってことが人間に伝わるはずもなく。俺は観念してニャン太郎と呼ばれることにした。

「それじゃあ、僕たちは友達だ。よろしくね、ニャン太郎」

 そう言って俺の前足を手に取り、上下に振る一樹。確かこれは人間同士の握手だったような。ならばと、俺はされるがままに握手した。

 俺を肩に乗せたまま、帰路に就く一樹。こうして俺の、クロとしてではなくニャン太郎としての生活が始まった。どうやって一樹に恩を返していくかは、これから考えていくところだ。

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