第59話――閑話
「ちょっと、アルスカヤ様! びっくりしたわよ!」
「マルテさん、声が大きいって……」
意味のわからない晩餐に付き合わされた翌日、グラシムは馴染みの食堂に食器類を返しにきていた。
人目を気にして開店前の時間帯に訪れたものの、案の定、中年に差しかかったおかみは、年甲斐もなく興奮した様子でグラシムに詰め寄ってくる。
「領主様って、初めてあんなに近くでお目にかかったけど、本当に綺麗な方ねぇ」
「はは……」
それは、グラシムも否定しない。
王家の証たる金髪に菫色の瞳、丁寧に作った人形のような美しい顔立ちに、最高の教育を受けた王子らしく常に人当たりのよい微笑みを浮かべている。
グラシムでさえ、初めて見たときは「こんなに綺麗な人がいるのか」と驚いたほどだ、女子供がレオニードを見て浮かれるのも無理はなかった。
ただ、領主としての仕事ぶりはともかくそれ以外は極めてポンコツで、いつも奥方を怒らせてはひっかき傷までこしらえることもあるし、そもそも賢者になった経緯さえ普通に生きていればまずやらかさないほどの大失態ゆえである。
好き嫌いはないと公言しているけれど、その実トマトだけはだめで、トマトが皿にのっているのを見て人知れず怯んでいるような情けないところもある。
目の前の女にそれを教えてやったらどうなるだろう――
などと考えなくもないが、きっと「そういうところも可愛らしい」と都合よく変換されるのは目に見えていたから、グラシムは沈黙を選択した。
「わざわざあなたのお家に来るなんて、親しくなさってるの?」
「いや、そういうわけでも……俺は平民上がりなんで、狭い住まいを珍しく思われただけでしょう」
「まあ、あなたのお家だって十分広いけど、お城に比べりゃ物置にもならないでしょうねぇ」
グラシムが借りている家は、実のところこのマルテの親族の持ち物である。
マルテ自身、以前は夫の両親と自分の家族の3世帯であそこに住んでいたというので、間取りについては十分すぎるほどに知っている。
今は夫の両親がどちらも他界し子供も独り立ちしたため、店の奥に住まいを移した。
そんな家にたった1人で暮らすグラシムは、庶民であれば間違いなく優良物件である。
「ああ、ねえ、あそこの通りに新しくできた商店にはもう行きました?」
「いえ、しばらくヴィッテを離れていたものですからまだ……」
「あらそう。あそこの店主はあたしの幼馴染なんだけどね、娘さんがまだ独身なんですよ。私の目から見ても美人で気立てがよくてねぇ」
優良物件であるので、こういう話もたびたび持ち込まれる。
家名を名乗ることを許された準貴族であるが、もとは平民で、一代限りの騎士位を持つ若い独身男。
そのへんの生粋の貴族ほどうるさくなく、そのへんの平民よりも金とツテを持っている。
特に商店などを営む者にしてみれば、ぜひとも縁付きたい相手である。
「ごめんマルテさん。俺これから城に行かなきゃいけないんだ」
「あらそう、引き留めて悪かったですね。お忙しいの? お食事が遅くなるなら、取り置きしておきますけど」
ちっとも悪びれない様子のマルテに、グラシムはうっかり、「領主様の側近に取り立てられちゃって、しばらく城に詰めることになるから食事は大丈夫」などと口を滑らせてしまう。
「まあ、まあ! それはおめでたいことですね。時間ができたらぜひお祝いでも」
「はは……気持ちだけ有難くもらっておきます」
これはしばらく店に近づかないでおいたほうがいいなとグラシムは心に決めて、そそくさと店を後にした。
実際のところ、グラシムの黒髪黒目を化け物のようにとことん忌避するのは貴族くらいなものであり、ヴィッテの若い娘はそんなことよりも物珍しさが勝るか、単純に彼の顔立ちが微妙であるほうを気にする――もとから美形でもないのに表情に乏しいうえ、隻眼のせいで、常に不貞腐れたように見えてしまうらしいのだ。
それさえも他の条件を考えれば我慢できる範疇らしく、マルテがこの話を近所に触れ回れば、今以上に見合いを持ち込まれることは容易に想像ができる。
マルテの口の軽さときたら一級品で、明日にはこの一帯にグラシムが出世した話が広まっているに違いない。
勘弁してくれよ、とグラシムはうめきたくなった。
************
「勘弁してくれよ……」
と、とうとうグラシムは声に出して言ってしまった。
目の前でうなだれているのは、つい先日彼の主となった領主様当人であり、きらきら輝く金髪がいつもよりくすんで見えるのは気のせいか。
「そんな買い物、御用商人に頼めばいいじゃないか」
「そこから情報が洩れたらどうするんだ!」
情けない声を出している領主様の手元には、子供に渡すようなお買い物メモがある。
主はグラシムにこれらの物品を買いそろえて薬を作ってくれないかと、わざわざ人払いをしてまで頼み込んできたのだ。
グラシムとて
「ばれたくないならいくつかの商人に分けて発注すればいいじゃないか」
「そうは言っても、その、ものによってはその……あの薬にしか使わないものだってあるだろ」
「だから、それを俺が買ってきたら俺が使うと思われるじゃないか。いやだぞ、俺が不能――」
「わーわーわー!!!」
子供じみた大声にぎょっとしたグラシムの口を、レオニードが極めて優れた体術をもってあっという間に塞いでしまう。
なんて技術の無駄遣いだと、問答無用で呼吸を止められかけたグラシムは半目になりつつ、主の手をひっぺがした。
「そもそもなんで俺に頼むんだ。他のやつに頼めよ」
「……こんな話をできるのは、グラシムくらいなんだ」
それは決してグラシムを信頼しているからというわけではない。
最も取り返しのつかない失態を目の当たりにされている相手であり、かつこれ以上情けない話を知られたところで、今よりもグラシムの中で彼に対する印象が悪くなることがないとわかっているからだ――すでにレオニードに対する印象はマイナスなのだから、という、ある意味で最悪の開き直りである。
「あのなー……こういうのは適切な治療が必要なんだ。恥ずかしがらずに、ちゃんと医者にかかれよ、な?」
「……無理だ。領主に後継者問題があるなど、漏れたらそれこそ一大事だ」
「賢者のレシピなら治るっていうのか?」
「治るも何も私の肉体に問題はない。精神的な問題なんだ、これは」
「奥方相手にはその気になれないと」
「…………もう少し言葉を選んでくれよ」
「別に選んだところで事実は変わらんだろ。他の女では問題なかったのか?」
「ああ」
「試したんだ?」
「……………………」
恨めしげな菫色の瞳がこちらを睨んでいる。
グラシムは気づかぬふりをして、メモをとんとんと指でつついた。
「どうでもいいけど、心臓にすごく負荷がかかるからやめたほうがいいと思うぞ、これ」
「……そうなのか?」
「メチスの葉の興奮作用はとんでもないらしいからな。俺は使ったことがないからどれほどのものかわからんが」
「……しかし、私が受け継いだ知識ではこれが最も有効な薬なんだ」
賢者の叡知の中に様々な媚薬の製法があることなど、グラシムは知りたくなかった。
「……気休めにしかならんかもしれんが、精神的な問題ならいい解決方法がある」
「なんだ?」
「奥方の頭に袋をかぶせて――」
「黙ってくれ、きみは最低だな!?」
レオニードが金髪を掻きむしった。
せっかく毎日侍女が「閣下を最も素敵に見せるために」と神経を使って整えてくれているというのに。
「じゃあ俺は黙ってることにするよ。頑張ってな、閣下」
「…………ひとつだけ教えてくれないか」
さっさと部屋を退散しようとするグラシムは、扉の前で一応立ち止まって、主君の言葉を待ってやった。
「タルファスの踊り子に聞いたんだが、きみは女性と一線を越えないというじゃないか。だが、今のきみの口ぶりは、とても経験豊富に思えるのだが、誰かそういう相手でもいるのか?」
なんだ、そんなことか、とグラシムは肩をすくめてみせた。
「こう見えて、(縁談の)相手には事欠かないもんで」
「お、おまっ――不誠実だぞ!!」
「部下のことよりも自分のことをなんとかしなよ、閣下。俺がおつかいしに行ってもいいけど、領主様のお買い物ですって言いふらしちゃうぞ」
「今日のことは他言無用だ、いいな!?」
「へーい」
鼻で笑いながら執務室を後にする。
なんとも平和なことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます