第57話――昔話その1
貴族であり、生家の嫡子であり、その生家が王家と親密な関係であり、その領地が王国にとって重要性の高い土地であれば、当然のごとく嫡子の婚姻には多くの目論見が絡み合うことになる。
彼とて幼い頃から後継者として育てられてきたのだから、それくらいのことは承知していたし、6歳の頃に婚約者と定められた少女に対して、不満を抱くこともなかった。
少女は生きた人形のように美しい外見をしていて、そのうえ彼の生家よりも家格が高い家に生まれ、上の姉たちがすでに王家に嫁いでいるという政治的事情さえなければ、彼女自身もまた王子に望まれ得る高貴な姫君であった。
だから、不満などない彼と違い、あちらは不満だらけだったのだろう。
気位の高い娘は成長するにつれて自らの価値を知り、美しさに気づき、何故あんなぱっとしない男に嫁がねばならぬのかと癇癪を起こすようになった。
もちろん彼女はいつも彼の前では理想的な婚約者の仮面をしっかりかぶってはいたものの、彼とてそれなりの貴族であり、彼のそばに娘を送りたいと考えた大人たちが、婚約者の瑕疵を喜び勇んで耳打ちしてきたのである。
実はあの子はそういう難しい娘だよ、正妻でなくとも構わないからうちの娘はどうかね、1人くらいは癒してくれる女が必要だときみもそのうちわかるようになる――……
人並みに欲はあったほうだから、周りから差し出される花の美しさにぐらっとこなかったかといえば嘘になる。
婚約者の家を怒らせてはいけないという理性だけで、侍女にさえ手を出さず、健全な少年期を我慢一徹で過ごし続けて、やがて予定通りに結婚した。
だが周囲の大人の言うとおり、1人くらいは癒してくれる女が必要だということを、疲れ果てた末に彼は知ってしまう。
彼女は異民族の踊り子だった。
健康的な肌をしてよく笑う娘に、彼は一目で恋をしてしまったのだ。
もちろんこちらもあちらも結婚なんて考えてはいない――その実、焦がれるほどに愛していたとしても、そこまで2人とも愚かではなかったのだ。
「だけど、あなたの赤ちゃん、欲しかったな」
愚かではなかったはずなのに。
異民族の強い酒が惑わしたのか、それとも愛のない結婚をした妻を素直に妬んだ娘があんまり愛おしく思えたからか。
たった1度の交わりで、彼女は子を成した。
真実愛した女のことを、誰が妻の耳に入れたのだろう。
「よりによってという気持ちはありますけれど、あなたの種であることが間違いないのであれば、放っておくことの方が醜聞です」
妻はもしかしたら、すでに自分が子供を産んだからこそ、身重の踊り子に同情したのかもしれない。
いつになく優しい妻の許しを得た彼は、喜んで愛おしい女を城に迎え入れた。
私もあなたの子が欲しいわとねだられて、妊娠中の女に負担をかけてはならないと同じ口で諭されて、そんないじらしい妻にほんの少し愛おしさを感じながら彼女の閨を訪れた。
女同士でしかわからないことがありますからと、妻が彼女の世話をしてくれるとまでいうので、安心して王都への留学に行ってしまった。
彼の忠実な執事からの急報で領地に戻ったときには、健康的な肌は色を失い、ひび割れた唇からはもう声も出せなくなっていた。
最愛の人は、月足らずの子供を産んで死んだ。
小さくて、あまりに弱くて、今にも死んでしまうのではないかという嬰児を助けてほしいと、賢者に頼み込んだ。
賢者は難しい顔をして母親の乳代わりの薬を煎じてくれたけれど、
「その子は生きていていいのかい。答えが出たときに、また報せを寄こしといで」
そう言って、去って行ってしまった。
あとから、賢者のその行動の裏に王の言葉があったと知った。
妻の実家が非常に怒っている――国境を守る大貴族の家が、彼に対して不快感を隠そうともしていない。
彼は貴族であり、生家の嫡子であり、その生家は王家と親密な関係である。
だがそれは彼の家だけでなく、妻の実家も同様なのだ。
側室がいても許される立場のエフィムだが、手を付けた相手がまずかった。
火遊びの相手が異民族の平民であるなど、妻の矜持が許すはずもなかったのだ。
赤子は死んだことにされ、かつて囚人を収容するための塔に隠されて、それでもしぶとく生き延びた。
人よりも時間をかけて生えてきた髪と、ようやく開いた瞼の下にある瞳は、“黒の森”の闇を固めたような黒だった。
賢者の薬はあっという間に尽きたけれど、追加を頼もうという気にはなれなかったから、ヤギの乳を含ませておいた。
その頃には、最愛の人の命を奪ったのが妻であることも、それを王がそそのかしたことも知っていた。
妻が部下に命じ、冷たい夜の“森”で彼女を殺そうとした。
殺害には失敗したけれど、手荒に扱われた身重の彼女は出血し、命を削り取られてしまった。
たったそれだけのことを知るために、ずいぶんと無駄な血を流してしまったように思う。
それからしばらくして妻も産気づいたけれど、こちらも月足らずであったためか、赤子はすでに息をしていなかった。
産室に強引に入り込んだ彼は、難産の末に意識を失った妻を見て、報いを受けたのだと思った。
どうせなら、もっとひどい報いを受ければいい、と考え付いた。
産婆と侍女たちを部屋から追い出して、代わりに黒い髪の子を連れてこさせた。
弱りながらもなんとか目を開いた妻に「おまえが産んだのは黒髪の子だ」と見せつけた。
普通であれば、生後間もない嬰児でないことはすぐにわかっただろう。
しかし衰弱しきった妻は悲鳴を上げて失神し、通常よりも長い期間、枕も上げられないことになる。
いい気味だ、と大人しく泣きもしない赤子を抱いて彼は笑った。
もう流す涙も枯れてしまった。
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