第55話

 グラシムとしては元王子に対してもう少し込み入った話をするつもりだったのだが、3階から大きな音がしたため中断せざるを得なかった。

 頭がパンクしそうな顔をしているレオニードを置いて3階を覗けば、すっかり酔いの覚めた目をしたゲオルグが長椅子の下に座っている。

 長椅子の上ではなく下なのは、寝返りを打って落っこちでもしたからだろう。


「おはよう、ラシー」

「……水でもお持ちしましょうか?」

「いや、いい。私も下に戻ろう」


 ひと眠りしてすっきりしたようで、声も足取りもしっかりした様子で階段を降りていく。


「ああ、レオ、すまんな。寝てしまったようだ」

「叔父上がそういうお酒の飲み方をすることを久しぶりに思い出しました」

「はは、今夜は楽しかったからなぁ!」


 ばんばんとグラシムの背中を叩いてゲオルグが豪快に笑う。

 このあたりは住宅街なので、あまり近所迷惑な騒ぎ方はしないでほしいとグラシムはげんなりした。

 ご近所付き合いはほとんどしていないが、していないだけに、怪しげな見た目の騎士を意味なく目の敵にしている主婦などもいるのだ。


 さすがにこの平民用住宅に泊まる気はなかったようで、レオニードとゲオルグはここから徒歩10分ほどの場所にあるエフィムの屋敷へ向かうという。

 ペトレン邸から馬車を呼んでこようかといえば、この時間にわざわざ申し訳ないとゲオルグの口から常識的な言葉が出てきた。

 この時間に甥の舅宅に押しかけるのは申し訳なくないんだ、とグラシムは内心思うが口にはしない。


「さすがに元王族のお2人を、護衛もなしに歩かせることはできません」


 という口実で、彼らとともにグラシムも夜の街へ歩き出した。

 一応は帯剣を許された身分であるので、黒のマントを羽織った下には剣を下げておく。


「悪いなぁ、ラシー」


 厚い雲の切れ間から月の光がわずかに漏れ出していたが、魔術で生んだ光がなければ、足元さえ見えなくなりそうだ。

 近所迷惑を考えて光量を押さえた灯りに照らされて、いかついヒゲ面が満足げに笑っていた。

 そのヒゲ面がすすすっとこちらに近づいてきて、グラシムは思わず頬を引きつらせる。

 どうにも、このおっさんは苦手だ。


「仲直りはできそうか?」

「……さあ、ヴィッテ伯次第ですよ」

「あの子は、仲直りしたいみたいだぞ」


 そうかも、しれない。グラシムにもそれはなんとなくわかる。

 ただゲオルグが思う一般的な仲直りとは違い、レオニードの思う仲直りには「私の命で許してくれるものならば」と首を掻っ切ることも含まれているように思う。

 この5年間、グラシム自身がレオニードへの感情をうまく処理できなかったり、ミルスロータへの遊学をしたりしていたため、あの元王子に近づく機会がほとんどなかったから気がつかなかったが――グラシムが思う以上に、レオニードは静かに思い詰めている様子であった。


 タルファス行きで2人きりになった際、彼の目に潜む深い闇に気がついて、少なからず驚いたものだ。

 レオニードは――性格はともかく――地頭は悪くない。

 だから罪悪感に押しつぶされて自殺していないということは、多少なりとも自分の中で手前勝手に折り合いをつけて生きているものだとばかり思いこんでいた。

 ところがこの馬鹿元王子ときたら、まったく、何一つ、清々しいほどに折り合いなどつけられていないではないか。


 贖罪のためにと自殺をしていないのは、恐らく「エリスの命と引き換えに得た賢者」の肩書があるためだ。

 レオニードが無駄死にをすれば、すなわちエリスさえ無駄死にしたということになってしまう。

 だから、彼の死にはそれなりにまっとうな理由が必要で、その理由はグラシム以外にあり得ない――と、彼は考えて生きているのだろう。

 5年をかけて育った彼の罪悪感は、正当なる復讐の執行者であるグラシムが許可しなければ、自らの命を軽々に放り出すことさえ、己に許していないに違いない。


 今死なれてしまうのはだめだ。

 “知恵の樹”の行方が永遠にわからなくなってしまいかねない。

 悩んだ末に、せっかく2人きりで話す機会なのだからと、そこだけは最初に釘を刺しておいた。

 グラシムだって人間だ、いつ感情のたがが外れてレオニードに死んでしまえと暴言を吐くかわからない。

 そのとき「よしきた!」と死なれると、困るのはグラシムの方である。

 ある程度レオニードの方で、自分の生に理由をつけておいてもらわねばならない。

 「私が死ぬと母の首が返ってこなくなるぞ」くらいのことは言えるくらいにはなってほしいものだ――などと、グラシムは自分勝手なことを考える。


 グラシムにとって最優先の目的は母の首を取り返すことである。

 そのために当代の賢者であるレオニードの協力が必須であることを教えれば、あの元王子が勢い余って自殺するなんてことはないだろう。

 むしろあの性格だ、多忙な領主の業務の合間を縫い、睡眠時間を削ってでも“知恵の樹”の居場所を突き止めようと努めるに違いない。


 もちろん彼に対する憎しみは今もあって、今すぐ殺してもいいものならば躊躇いなく全身を丸焦げにしてやる自信はある。

 この馬鹿が意味のわからない短慮を起こさなければ、グラシムは今でもあの“森”の小さな家で、エリスのための食事を作り、2人で暖炉の前で寝そべって話をしていただろう。


 ただ――あの頃の思い出を呼び起こし、それを喪失した心の穴を意識しなければ、いつかレオニードに対する憎しみが薄れてしまいそうで怖かった。

 失われたあの温もりを思い出して、新鮮な憎しみを湧き起こしておかねば、弱い自分はいつかこの兄貴分にほだされてしまう。そんな気がする。


 新しい世界を見せてくれた。

 貴い生まれでありながら兄に疎まれ、義父に体よく使われ、妻となった女のヒステリーに頭を抱え、いつも綺麗な顔に真っ黒なクマをこしらえながら誰かのための仕事に追われている。


 そんなところを見てしまったから。

 エリスなら「私の復讐なんてつまんないことに貴重な時間を使うんじゃないよ」ときっと言うだろうことが、わかってしまっているから。


(……そろそろ“樹”のほうから近づいてこないだろうか)


 5年前、グラシムがその身を焼いてやった“知恵の樹”は半神としての力を失った。

 今はどこかで力を取り戻すべく、潜伏しているに違いないのだが、“黒の森”の番人であり管理者でもある賢者の助けもなしに、果たしてどこまで回復できているか。


(今夜の様子を見る限り、レオニードをこちらに取り込むことは容易い……であれば、俺のほうから動くべきか?)


 エフィムは何というだろう、と少し考えて、グラシムは頭を横に振る。

 あの男は――正直、得体が知れない。


 いつの間にかペトレン邸のすぐ近くまできていたようだ。

 主の婿の姿に気づいた門番が慌てて声をかけてきて、屋敷の夜番に報せに行くのを見ながら、グラシムは音もなくレオニードの隣に立った。

 薄い唇をほとんど動かさず、小さくささやく。


「……俺の頼みを聞けと言ったが」

「グラシム……?」

「“知恵の樹”を探すのに協力しろ。俺をあんたの側近にでも置け。エフィムは反対するだろうから、オデッサ公をうまく使って説得しろ」


 ちらりとゲオルグの方に視線を向けてから、レオニードは「わかった」と低く応えた。

 理由を説明してやらなくとも、今の言葉でそれくらいならばわかるだろう。

 自分とグラシムを隔てているのは、グラシムの憎しみだけではなく、エフィムによる分断工作のせいでもあるのだということくらいは。


 グラシムは軽く指を振って、先ほどレオニードにかけた魔術を解除する。

 “知恵の樹”の状態によっては瞳によるつながりがあってないような状況かもしれないが、念には念を入れても不足はあるまい。


「…………エフィムに気をつけろよ」


 言うだけ言って、グラシムはそっとその場を離れ――ようとして、ゲオルグに肩を抱かれてヒゲ面に「おやすみ」とささやかれた。

 本当にこのヒゲ野郎はそういう趣味ではないのかと、そろそろ本気でグラシムは疑い始めていた。

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