第54話

「古代魔術ってもんがある」


 持ってきた本を開くことなくグラシムが淡々と話し始めたのは、レオニードの聞いたことのない魔術のことだ。


「古代魔術っていうのは、400年前のトロイト戦役で追い詰められたミルスロータ族が召還した神の力による魔術のことをいう――らしい。エリスがそう書き残している」


 とんとん、と革張りの本の表紙を骨ばった指が叩く。

 彼が言うには、タルファスから持ち帰った本はいずれもエリス・ランドスピアが自らの研究をしたためたノートがもとになっており、“黒の森”が焼け落ちたあと、家のあった付近を探索していたグラシムが偶然見つけたものだという。

 2人が暮らしていた小さな家は跡形もなく焼けてしまっており、地下室の蔵書の多くも被害を免れられなかったが、奇跡的に手書きのノート類は端が焦げるくらいで済んでいた。

 グラシムはそれを持ち出し、整理して、自らの手で製本した。


「魔術ってのは、そもそも神々の力を『陣』を通して現世に引き出し、奇跡を顕現するもの――っていう定義だろ?」

「ん、ああ、そうだな」


 教科書の冒頭に載っているような基本的なことを言われ、レオニードは躊躇いがちにうなずく。


「今、カンチアネリで普及してる魔術はどの神々の力を借りたものだ?」

「イオチャーフの主神イオ、その眷属たち……」


 答えながら、レオニードにもグラシムの言わんとしていることが見えてくる。


「ああ、古代魔術はミルスロータの民が400年前に信仰していた神々の力を借りているというのは、そういう意味か」

「そういうこと。だから、まったく性質が違う……こういう、ふうに」


 グラシムが右手の人差し指を立てると、その爪の先から、じわり、と黒い霧が滲み出した。

 レオニードはその霧の正体に思い当たり、はっ、と息をつめた。


「まさか……“黒の森”の霧……」

「そうだ、夜になると“森”を包んだあれだよ。イオチャーフの魔術が『陣』を扉とするように、古代魔術はこの霧を媒介として発現する。イオチャーフの魔術よりも単純だけど、扱いが厄介でさ……なにせ、『陣』を描くことも呪文の詠唱もいらない。ただ意識すれば、それが形になる」

「それは……確かに、厄介だな」


 厄介というのは、王国の魔術師にとっての話である。

 魔術師は魔術を発現させるための技術をこれでもかと体に叩きこまれている。

 複雑な手順をいっさい飛ばしてというのは一見便利に思えるが、陸の生物が水中でうっかり呼吸をしようとして溺れてしまうようなもので、慣れ親しんだ行動というものは早々改められないし、それによる失敗の危険も当然付きまとう。


 それに、魔術の『陣』には発現する術の種類だけでなく、たとえば規模を指定するための構成要素も含まれている。

 大きな威力を望むのであればこう描き、小さな効果でよければこう描く、といったふうに、魔術師は術のすべてを表現するために『陣』を描くように仕込まれている。

 言ってしまえば、『陣』を描くということは、手順をいちからなぞるということでもある。


 呪文の詠唱も同様で、自分の描いた『陣』の各部分に魔力を丁寧に乗せるために求められる工程である――呪文の語句と『陣』の構成要素は、それぞれに対応しているのだ。

 つまるところ音声が必要なのではなく、口に出すことによって、これから自分の発現する魔術に対する意識を鮮明にすることがその本犠というわけだ。


「さっきあんたは、エリスや俺が詠唱なしで魔術を使える理屈を知りたいと言ったな。エリスは古代魔術の研究をする中で、古代魔術の発現する原理を知った。それを解き明かして自分の魔術の中に組み込んだんだ。俺はその技術をもらった――さすがに、古代魔術を普通の魔術に偽装して使うだけの技量は、まだないんでね。時と場面でそれぞれの魔術を使い分けてるよ」


 やはりエリス・ランドスピアは賢者という肩書を抜きにしても天才であったのだ、とレオニードは改めて思わざるを得なかった。

 慣れ親しんだ魔術の発現手順をあえて壊そうなどと、凡庸な魔術師には発想さえできまい。


「その黒い霧は、私にも扱えるものなのか。その……エリスは?」

「あんたにもエリスにも無理だよ。俺だけだ」


 そういえば、少しずつ、グラシムの口調が5年前に戻っているような気がした。

 表情もそうだ。話しているうちに、陰気で世を拗ねているような顔つきではなくなり、かつて城で勉強を教えてやっていたときのような、深く物事を見据えようとしていたときを思い出させるものへと変わってきていた。


「あんたは“黒の森”の成り立ちを知ってるだろ?」

「ああ。古い神々の死体が変じたものと、初代ヴィッテ伯が書き残していた」

「城にあった本だろ。俺もエフィムに見せてもらった」


 ここで予想外の名前が出てきて、レオニードは軽く目を見張る。


「義父上が? あの書庫に、グラシムを入れたのか?」

「うん……ああ、そのうちあいつの話もしなきゃいけないのか。面倒だな……」


 グラシムは苛立たしげに前髪をくしゃっとしてから、気を取り直したように話を再開させる。


「まあ、細かい話は初代ヴィッテ伯にもエリスにもわかってないし、俺自身もわかってないんだけど、どうも俺の体には死んだ神様の怨念? みたいなのが入ってるらしい」

「……ちょっと待ってくれ。いきなり飛躍したな」

「俺だってそう思うよ」


 言いながら、グラシムはまるで他人事のように肩をすくめた。


「これはエフィムの推測なんだけど――ああ、先に言っておくと、俺はエフィムの子供なんだって」

「……うん?」


 次々に出てくる突飛な話に、レオニードはひとまず理解を放棄した。

 話を進めてくれと手で促すと、グラシム自身もよくわかっていなさそうな顔で話を続ける。


「エフィムが言うには、死産だったらしい。真っ黒な髪と目をした子供が死んで生まれてきたもんで、エフィムの奥方はびっくりして卒倒したそうだ。“黒の森”の呪いだって騒ぎになりそうだったんで、エフィムが周りに口止めをして、子供の遺体を“森”にこっそり埋葬しようとしたらしい。この辺の話はエリスも知らないかったみたいだね、領主一家の墓に入れろと叱られると思って隠してたんだと思うけど……

 ともかく、穴に埋めようと土をかけたところで息を吹き返したから、エフィムも困ってしまって、今のタルファスの市長のところに預けたんだ。若い頃の知り合いだったからその縁でってことで」


 グラシムは幼い日のことを思い出そうとしたのか、少し遠い目をした。


「だいぶ話が脱線した。それはともかく、エフィムが言うには、土をかけたあたりで俺の体に何かが入り込んだんじゃないかって。もしかしたらそれよりも前……奥方の腹の中にいたときかもしれない。ここだけの話、奥方は妊娠中に“森”に入ったことがあるらしいから……とにかく、なにがきっかけかはわからないけど、400年前に滅びかけた古い神々は、今の神を斃したくてしかたない。それで、俺の体に入り込んでずっと目覚めの機会を待ってた……って、俺も何言ってんのか、よくわかってないんだけどさ」


 レオニードはきっと今自分は困惑しきった顔をしているのだろうと思った。

 目の前の青年も同じなのか、すっかり口調が子供時代に戻っているが、自覚はなさそうだ。


「グラシムの、その、古代魔術か。それは、要するに……古代の神の力をそのまま行使しているってことなのか」

「ちょっと違うと思う」


 前髪をいじりながら、グラシム。


「これはエリスの研究ね……神々とて、この世界に顕現した以上は人と同じように魔術を使わざるを得ないんだ。この世界に顕現しているのはあくまで一部分で、本体を神界? とかなんとかいうところに残してるせいで、直接力を行使するわけにはいかないらしい。それをすると世界が壊れちゃうんじゃないかって。俺の感覚としても、この黒い霧は魔力と同じようなものだなって気がしてる。魔力と同じように使えるし、イオチャーフの魔術にも多少は反応してくれるから」


 イオチャーフの魔術に反応するという言葉に、レオニードの中でようやく、先ほどグラシムが『適性』を持たない『心の魔術』を使う裏技があると口にした意味を理解した。

 恐らく、レオニードが『適性』のない魔術を、膨大な魔力で強引に発現させているのと同じような理屈で、古い神々の黒い霧は、敵であるイオチャーフの魔術さえ支配するのだろう。


「ああ、言うの忘れてたけど、トリムの教会であんたの足を鈍らせたのも古代魔術だ」


 そういえばこの青年は「いっそ殺されてしまえばいい」とも「俺が手伝ってやる」とも言っていたなと、レオニードは思い出して愕然とした。

 確かにコーヴァレン卿は手練れであったが、あの妙な体の倦怠感がなければ倒せていたかもしれない――だからこそ、グラシムはあそこで敵方に手を貸してやった。

 もちろんレオニードが即死しないように注視してくれていたのだろうし、暗殺未遂があのような結果に終わったからこそ、アレクサンドル王子の動きを牽制することもつながった。

 すべてはグラシムの想定通りに進んで、レオニードが痛い目を見た以外は結果オーライであるとはいえ、もう少し穏便にしてくれても……という言葉が喉元まで出かかった。

 多分、レオニードが痛い目を見るところまで、グラシムのなのだろうから。


「…………理解するのに時間がかかりそうだが、なんというか、きみが規格外な魔術師だってことだけはわかった気がするよ」


 どっと疲れた気持ちで、レオニードはカップに残っていた酒を一息にあおった。

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