第53話

 レオニードが見たところ、グラシムはあまり酒が得意ではないようだ。

 ちびちびとカップに口をつけてはいるものの、ほとんど進んでいない。

 レオニードのほうはゆとりがあれば晩酌をする程度には酒をたしなむものの、叔父が持ち込んだ蒸留酒は度が高すぎるうえに癖が強く、飲みつけないせいかこちらもやはりあまり減っていなかった。

 その叔父はといえば、一人でどんどん食べてどんどん飲んで、あっという間に酔っ払って椅子で眠り始めてしまった。

 グラシムが嘆息して、叔父を魔術で物のように宙に浮かせて3階に運んでいく――ベッドを貸したくないので長椅子にでも転がしておくとのことだ。


 奇妙な晩餐会でしゃべっていたのはオデッサ公とレオニードばかりで、グラシムはオデッサ公に話しかけられたことに対して相槌を打つ以外はほぼ黙っていた。

 レオニードは酒の勢いを借りることもできず、グラシムに話を振ることができないでいる。


 騒がしい叔父がいなくなったとたん、部屋がしん、と静まり返る。

 レオニードは先ほどまでグラシムが腰を下ろしていた出窓に近づき、街を見下ろした。

 繁華街のほうはまだ喧騒が残る頃合いだろうが、このあたりはすでに家々の明かりも消えつつある。

 食糧難や魔獣被害が落ち着いてきたとはいえ、ランプの燃料となる植物油はまだ価格が落ちていない。

 魔術を使えない平民たちは、高価な燃料を無駄にしたくないということで、早めに就寝するのだ。

 燃料ランプとは明らかに色合いの異なる魔術の光が窓から洩れるこの家は、周囲から見ればやや目立つだろう。


 そんなことを考えているうちに、階段のきしむ音とともにグラシムが戻ってきた。

 どことなく気疲れしたような年相応の青年の顔に、レオニードは普段の隔絶した距離感も忘れて思わず笑ってしまう。


「叔父がすまないね、グラシム」

「……別に」


 そんな返事があるとは思わなかったので少しだけ驚いた。

 案外、オデッサ公の強引さはグラシムにとって不快ではないのかもしれない。


「今日は悪かったよ。いきなり押しかけたりして」

「悪かったと思うなら残りを片してくれ。俺はもう食わない」


 グラシムが指を振るうと、いくつかの皿に残っていたつまみがふわりと浮かんで、もとからこの家にあった皿の上へ移動していく。

 借り物の皿を空にしたグラシムは、音楽の指揮でも取るような手つきで魔術を発現させ、皿をまとめて洗浄した。

 カトラリーやカップも同様に綺麗にすると、おかみが持たせてくれた箱の中に丁寧にしまい込む。


「明日にでも返しておくよ」

「いい。あんたらが動くと店に迷惑だ。俺が謝っておく」

「そうか……グラシムは、あの店の馴染みなのか?」


 使われた形跡のないキッチンを眺めながら言うと、痩せた背中から「ああ」と短く返事があった。


「…………グラシムは、そうやって詠唱なしで魔術を使うが、どういう理屈でやっているのか聞いても?」


 普段なら無視されている類の質問に答えがあったことに勇気づけられたのか、それともわずかに腹に流した強い酒のせいか、レオニードはずっと口にしないでいた問いをグラシムに投げかけた。

 案の定、嘲りの色の濃い声が返ってくる。


「賢者様にはそれくらいわかるだろ」

「わからないんだ。それについての知識は、私の中にないから」


 レオニードの答えに、グラシムが緩慢な動きで振り返ってこちらを見た。

 てっきり「賢者らしく研究しろ」とでも責められると思っていたのに、彼の真っ黒な右目には不思議な色が浮かんでいた――まるで、何かに気づいたような。

 グラシムは自前のカップに水を汲んで飲み干すと、空になったカップの底を睨みつけるようにしばらく黙って何かを考えているようだった。


「…………先に聞いておくが、たとえば、俺があんたに何かを頼めば受け入れる気はあるか?」

「もちろんだ。私にできることであればなんでも言ってほしい」


 グラシムがレオニードに頼みごとをしようとしている。

 こんなことはこの5年で初めてだ。

 レオニードが勢い込んで言うと、グラシムは「そうか」と呟いて鋭い線を描く痩せた顎を撫でた。


「……そのまま動かずに目を開けてろ」


 グラシムは、何かを決めたらしい。

 レオニードのそばへ躊躇なく近づくと、鼻先が触れ合いそうな距離にいきなり顔を近づけてきた。

 なにを、と問いかけることもできずに息を止める。

 間近で初めて見る青年の隻眼は、森の闇を固めたような冷淡な黒だと思っていたのに、その実、魔術の明かりを反射して、星の散る夜空のように深く染み入る色をしていた。


「……目を閉じろ」


 言われて、乙女のように緊張しながら瞼を固く閉じる。

 ぞわり、と生ぬるい風が顔を撫でた。

 「いいぞ」と言われて目を開いたレオニードは、眼球の上に何か膜のようなものがかぶさっているような、言いようのない違和感を覚えた。


「……何をしたんだ?」

「あんたの目にちょっと覆いをかけさせてもらった。あんたの視界は“知恵の樹”に共有されてる可能性がある……ここでの会話は知られたくない。音も共有されるらしいからな」


 グラシムが窓を閉め、先ほどまでオデッサ公が座っていた椅子に腰を下ろした。

 手を伸ばして届かない程度の距離を置いて、彼はこちらをじっと見つめている。


「どこから話をすべきか……そうだな、確認をしたい。ヴィッテ伯、あんたは“知恵の樹”が今どこにいるのか知っているか?」


************


 グラシムの目的は“知恵の樹”を見つけ出し、母の首を奪還することにある。

 “知恵の樹”と賢者は誓約によりつながりを持っているため、“樹”を探すには賢者、すなわちレオニードの協力が必須となり、グラシムの頼みとは要するにそのことだ。

 どうにも言葉の足らないの話に細かく質問しながら、ようやくレオニードはそのことを把握した。


「すまないが私は今、あれがどこにいるのか知らない。つながりがあることは受け継いだ知識で知っていても、そんなものを感じたことはないから困惑しているくらいだ……むしろ、滅んだものとばかり思っていたのだが、グラシムは違うと思ってるんだね?」

「ああ。ずっとわからなかったが、さっきあんたの目を見て確信した。あれが滅びていれば、あんたの目にしるしはないはずだ」


 グラシムが言うには、賢者の目には“知恵の樹”とのつながりを表すしるしがあるのだという。

 レオニードの目をのぞきこんだのは、それを確かめるためだったのだ。

 毎日のように鏡を見ていたはずだが、自分の瞳の中までしっかり覗くことはないから気づかないでいたのだろう。


 話を聞きながらレオニードは少し落ち込んでしまう。

 自分は賢者であるはずなのに、どうも知らないことが多すぎる。

 そう言えば、グラシムは今までと違う、なんだか彼の少年時代を思い出させるような少し優しげな様子で、鼻を鳴らしてみせた。


「さっきのあんたを見て、不完全な形で継承されたってことに気づいた。俺のせいかもしれない。あのとき、俺が“知恵の樹”を殺しかけたせいだ、きっと」

「……あのとき“森”で何が起きたんだ?」


 レオニードの記憶には、エリスの首が飛ばされたあとのことがあまり残っていない。

 強烈な血のにおいとともに真っ黒な霧に包まれて、全身を真っ黒な炎で焼かれ、そこで意識を手放している。

 気が付いたときにはヴィッテ城で介抱されていて、5年たった今も服で見えないところに当時の火傷のあとが残っていた。


「……教えてもいいが、あんた、口外しないと約束できるか? 魔術で縛ってもいいんだが、俺もあの類の術は苦手なもんで、あんたを壊しかねない」


 その言葉の意味を、一拍遅れてレオニードは理解する。


「……もしかして『心の魔術』を使えるのか?」


 グラシムは器用に左の眉だけをはねさせてみせた。

 城に登録されている情報では、彼の『適性』に『心』はなかったはずだ。


「確かに『適性』はないがね、裏技っていうのかな」

「……どうも大事な隠し事らしいね。わかった、誰にも言わないと約束しよう」


 今までのグラシムであれば一蹴していただろうに、彼はそんな口約束を本当に信じたのだろうか、小さくうなずくとキッチンに向かい、野菜などをしまい込む床下収納を開くと、中から何かを取り出してみせた。

 テーブルの上に大切そうに置かれたそれは、先日、彼がタルファスから持ち帰った本のひとつだった。

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