第52話

 グラシム・アルスカヤは普段、ヴィッテ城で暮らしていない。


 グラシムはエフィム・ペトレンが領主であった頃、彼を庇護者として領民の籍を得たうえで、一代限りの騎士位を与えられた。

 ヴィッテ領主から公的に与えられた身分であるのだから、領主が代替わりすれば当然新しい領主の家臣となるはずなのだが、グラシムはそれを拒否し、ヴィッテの領軍への編入をも拒んだ。

 その時点で騎士位を剥奪されてもおかしくはなかったのに、新領主は寛大にもグラシムの我儘を許した。

 結果、グラシムはヴィッテの騎士として俸禄を与えられながら――すべて受け取りを拒否しているのだが――、隠居したエフィム個人の騎士として働いて給与を得ているという、やや変則的な立ち位置にある。


 そんなグラシムは、1年ほど前にミルスロータへの遊学から帰還して以降、城下町にある物件を借りて暮らしている。

 当初は領主を退いたエフィム一家とともに、城から程近い屋敷で生活していたそうだが、屋敷の中の人の多さに嫌気がさして飛び出したのだという。

 エフィムはまがりなりにも貴族であり、一家の世話をするための使用人が敷地中にあふれていることに、グラシムはとても耐えられなかったそうだ。

 タルファスの宿で召使に指一本触らせなかったグラシムらしい話である。


 などなど、エフィムから話には聞いていたが、レオニードがグラシムの住まいを訪れるのは初めてのことだった。

 城下町の中心から離れた、比較的静かな住宅街にその家はあった。

 3階建ての細長いアパルトメントのような外見の建物で、ドアにつけられたノッカーを鳴らそうとすると、例のごとく先回りしたらしいグラシムが不機嫌を隠そうともしない様子であちらからドアを開けてきた。

 庶民の服装に身をやつしてもなお威圧的な巨躯の軍人と、派手な金髪が帽子からはみ出した元王子の姿を見て、うんざりしたように大きく嘆息する。


「……何をしにきたんだ」


 いつも以上にかすれた声と珍しく癖のついた前髪は、もしかしなくとも寝ていたからだろう。

 すでに日が暮れているとはいえ、就寝にはまだ早い時間だというのに。


「久しぶりだな、ラシー。酒を持ってきたから上げてくれ」

「…………飯はないぞ」

「ああ、忘れていた。レオ、すまんが適当に買ってきてくれ!」


 大げさに嘆いてみせたオデッサ公が右手でグラシムの肩を抱き、左手で懐から革の財布を取り出してレオニードに押しつけた。


「頼んだぞー」


 の一言とともに容赦なくドアが閉まり、路頭に残されたレオニードは呆然とそれを見つめるよりほかなかった。


************


 ダルクレーニでもヴィッテでも、城下町にお忍びでおりたことはあっても、自分で支払いをして買い物をしたことなど、レオニードには今まで一度も経験はない。

 護衛もなにもつけずにたった1人で現れた金髪の青年――どう見ても領主様の変装姿だ――に食堂のおかみは驚き、しかし変装をしている以上なにかしらわけありだろうから「領主様」と呼ぶこともできず、苦労しながらもなんとか彼が3人分の酒のつまみと軽食を欲していることを聞き出すことに成功した。

 たいていこういう店では食べ物を持ち帰るための食器を客が持ち込むのだが、当然領主様はそんなことなど知らぬようで、おかみは店の皿を失うことを黙って受け入れ、いっとう上等の皿に食事を入れてやり、ついでにそれらを運ぶための浅い箱まで持たせてやった。

 だが、そこで困ったのは支払いである。


「金貨なんていただいてもお釣りに困っちまいますよ……」

「そうはいってもこれしかないのだ。すまないが受け取ってくれないか」


 レオニードは金など持ち歩いたことはない。

 先日のタルファス行軍中が唯一の例外で、何があるかわからないからと家臣に言われて荷物に現金を入れていた。

 だが入れていただけで使ったことはないし、オデッサ公から渡された財布の中身もすべて金貨だ。

 皿の代金をここから回収するにしても、いったい何枚分になるのやら。


「でもねえ、お釣り……あとでお届けしますか?」

「いや、うん、問題ない。困るというならば、余った分は教会にでも寄付してくれたらいい」

「ええ……じゃあ、そうさせていただきますね」


 困惑しきりのおかみに見送られながら、レオニードは初めてのお買い物成功にやや浮かれながら、グラシムの住む家に戻った。

 両手がふさがっているからノッカーを鳴らせないぞ、と困っていたら、呆れ顔のグラシムが出てきて「魔術師のくせに何してるんだ」と言いながら中に入れてくれた。

 そうだ、魔術でノッカーを鳴らすなり鳩を出して呼べばよかったのかと、そこで初めて気がついた。

 1階にも部屋はあるようだが、玄関から入ってすぐの階段をグラシムが上っていくので、レオニードは箱を抱えたままえっちらおっちらとそのあとに続く。


「どこの店で買ってきたんだ」

「角を曲がったところの、青い屋根の食堂だよ」

「マルテさんところか……皿はどうしたんだ。買ったのか?」

「? 向こうがこの箱に入れてくれたものをそのまま持って帰ってきただけだが、問題でもあるのか?」

「……あとで返しに行くから、絶対に割るなよ」


 グラシムが言うには、客が食器を持っていくシステムらしい。

 蓋のできる弁当箱のようなものを持ち込むのが一般的だそうで、こんなふうに箱に入れて持たせてくれることは普通ではない。


「あんたに食器を持たせるのを忘れてたんだよ……急にくるもんだから」

「すまなかった。鳩で知らせればよかったな」


 とはいえ、事前に知らせなかったのはわざとだ。

 言えば絶対に断られると思ったので、叔父と2人して急襲したわけである。


 ミルスロータからヴィッテへ戻ってきてから、グラシムと顔を合わせるのは今日が初めてだ。

 グラシムはエフィムから休暇を言い渡されたらしく、城で顔を見ることはなかった。

 彼の声には呆れの色が濃いが、質問をすれば答えが返ってくるし、うんざりした様子ながら会話が継続するようになっている。

 多少は関係が改善している、のだろうか。


「おお、レオ、おかえり」


 2階のダイニングに案内されたレオニードが見たのは、すでにご機嫌になった叔父の姿だった。

 窓を開けてはいるものの、強い酒のにおいが部屋の入口にまで漂ってくる。


「何を買ってきたんだ?」

「……なんだろう?」

「…………これはつまみですね。鶏肉のロースト、ピクルス、ナッツ……こっちは飯です。パンとシチューは温めましょう」


 皿をテーブルに並べるグラシムを手伝おうとしたレオニードは、しっしっと犬のように追いはらわれてしまい、やむなく叔父の正面の椅子に腰を下ろした。

 レオニードの衣装室よりも狭く、非常に殺風景な部屋だ。

 絵も花もなく、小さなテーブルと物の少ない棚には、生活感の欠片もない。

 椅子も2脚しかなく、叔父と自分が使ってしまえば、グラシムの座るところがなくなるほどだ。

 ダイニングの隣のキッチンは、一応という程度の設備で、ぱっと見た限りではほとんど使われていないようだ。

 貴族の身分からすると信じがたいことに2階の部屋はたったこれだけで、寝室や風呂などはまだ見ていない1階か3階にでもあるのだろう。

 平民が1人で暮らすにはむしろ広い部類であり、そういう普通の家には風呂がないことなど、王族である2人の来客には想像もできないことだった。


「……マルテさんは俺のところだって気づいたんだ。さすがだな」


 箱の中からカトラリーや皿、カップを取り出して、グラシムがほっと息を吐くのが聞こえた。

 人付き合い皆無の独身男性の家に押しかけたのだ、確かに家具だけではなく食器も足りなかったのだろう。

 この近辺に住む貴族なり騎士なりはグラシムくらいなもので、買い物慣れしていない明らかに上流階級の人間が酒を飲みにきたという情報から、きっとその相手はグラシムだとあのおかみは察したに違いない――ずいぶんと頭の回る女性だと、レオニードは感心する。


 グラシムが指を振ると、静かに発現した魔術でシチューが温められてよいにおいが漂ってくる。

 食堂のおかみが持たせてくれた取り皿にそれらをとりわけ、カップに酒を注ぎ、2人の押しかけ客の前にそれを並べる。

 グラシム自身は自らの皿を手に、出窓に腰を下ろした。

 レオニードが椅子を譲ろうとしたのは、鋭い視線とともに無言で拒否されてしまった。


「では、魔術討伐の成功を祝して、乾杯!」

「乾杯」

「………………これ、そういう集まりだったのか」


 城でもう祝賀会はやってたんじゃないのか、と言いたげなグラシムに、レオニードも「私もそう思うよ」と苦笑してみせた。

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